第10話「無能王子、世界へ戻る」
朝焼けだった。
王都の空が、ゆっくりと群青から朱へ変わっていく。
高い塔の窓から差し込む光が、東の塔最上階の石床を染めていた。
かつて冷たく、暗く、孤独だけが満ちていた場所。
だが今は違う。
食卓には温かな朝食。
棚には整えられた衣服。
壁際には書類と地図。
窓辺には花。
そして、笑い声があった。
「レオン様、起きてください」
「まだ眠い」
「駄目です」
「何故だ」
「今日は大事な日だからです」
毛布に包まったまま抵抗するレオンへ、ミーアが容赦なく布団を剥ぐ。
「寒い」
「自業自得です」
「理不尽だ」
「主に甘い侍女など三流です」
「厳しすぎる」
ヴァルガが腹を抱えて笑う。
『起床戦で負けてるぞ!』
ルミアは空中でくるくる回っていた。
『制服です! 制服の日です!』
ノワールは壁際で腕を組む。
『朝からうるさい』
『でも少し楽しそう』
『……否定はしない』
セレネが優雅に紅茶を飲みながら微笑む。
『平和で何より』
イグニスは窓辺で外を見ていた。
『今日で、お前の世界は変わる』
レオンはその言葉に、少しだけ黙った。
そうだ。
今日は入学試験の日だった。
王立アルディア学園。
かつて自分が通うはずだった場所。
十歳のあの日、魔力零と判明し、全てを奪われなければ。
「……くだらん」
低く吐き捨てる。
だが、その声には以前ほどの棘がなかった。
ミーアが制服を差し出す。
「はい、レイ・ノクト様」
「やめろ」
「平民設定です」
「その呼び方も慣れん」
「慣れてください」
差し出された服は、濃紺の学生服。
銀の縁取りが入り、上質だが派手すぎない。
王立学園の受験生用正装。
レオンが袖を通す。
肩にぴたりと合う。
立ち姿が、妙に映えた。
ミーアが数秒固まる。
「……似合いすぎます」
「うるさい」
「本当に似合いすぎます」
「二回言うな」
『うわぁ』
『主人公感すごいです!』
『隠しきれてない』
『平民に見えない』
「全員黙れ」
だがミーアの表情は少しだけ曇った。
「……本当に行かれるのですね」
「何だ、今さら」
「嬉しいんです」
小さく笑う。
「レオン様が、また外へ出て、人の中で生きるのが」
レオンは返事をしなかった。
代わりに、ネクタイを締め直す。
「それと、少し心配です」
「何がだ」
「女性関係です」
「帰る」
「まだ出てません!」
転移陣が光る。
暁の夜本部――巨大石造り商館の会議室。
幹部たちが整列していた。
ガルドン。
シェラ。
ボルグ。
クロード。
昨日まで王都裏社会を荒らしていた者たちが、今は礼服で頭を下げる。
「お頭」
全員一斉に膝をつく。
「本日のご武運を」
「試験だ。戦争ではない」
「我々にとっては同義です!」
「意味がわからん」
クロードが前へ出る。
「身分証、出生証明、推薦状、商会記録、全て整っております」
差し出された革袋。
中には完璧な偽装身分一式。
レイ・ノクト。
地方商家の養子。
十六歳。
優秀な家庭教師付き。
王都へ進学希望。
「完璧です」
クロードが胸を張る。
「役所の記録にも存在します」
「怖いな」
「褒め言葉として受け取ります」
シェラが微笑む。
「制服姿、とても素敵ですわ」
「黙れ」
「照れてます?」
「黙れ」
ボルグが拳を握る。
「誰か落とそうとしたら俺が潰します」
「潰すな」
ガルドンは号泣していた。
「お頭が学生に……!」
「泣くな」
「成長を感じまして……!」
「親か」
レオンは深く息を吐いた。
面倒だ。
騒がしい。
だが、不思議と嫌ではない。
誰かが自分のために動いている。
誰かが自分の門出を祝っている。
それは十歳のあの日、全て失ったと思っていたものだった。
「行ってくる」
その一言で、場の空気が止まった。
ミーアの目が丸くなる。
幹部たちも固まる。
「……今、なんと?」
ガルドンが震える声で聞いた。
「行ってくる、と言った」
「ただいまと対になる言葉を……!」
「泣くな」
ミーアが口元を押さえる。
「ちゃんと、帰る場所だと思ってくださっているんですね……」
レオンは視線を逸らした。
「深読みするな」
「します」
「勝手だな」
「侍女ですから」
イグニスが静かに羽を広げる。
『進め』
セレネが柔らかく笑う。
『世界は広いわ』
ヴァルガが吠える。
『青春してこい!』
『意味がわからないですけど楽しそうです!』
『余計な騒ぎを起こすな』
ノワールだけが現実的だった。
レオンは転移陣へ立つ。
光が走る。
次の瞬間――
王都中央区。
王立アルディア学園正門前。
巨大な白亜の門。
魔導石で飾られた校舎。
広大な中庭。
整然と並ぶ受験生たち。
貴族子弟の豪奢な馬車。
平民受験生の緊張した顔。
笑い、見下し、期待、焦り。
様々な感情が渦巻いていた。
レオンは門を見上げる。
胸の奥が、少しだけ熱い。
ここへ来るはずだった。
昔の自分も。
だが来れなかった。
来させてもらえなかった。
「……遅れたな」
ぽつりと呟く。
その時。
「見て、あの人……」
「誰? 貴族?」
「平民枠じゃないの?」
「いや、あの雰囲気……」
周囲がざわめく。
左右色違いの瞳。
整いすぎた顔立ち。
ただ立つだけで隠しきれぬ気品。
レオンは眉をひそめた。
「……面倒だ」
だがその時だった。
正門奥から豪奢な馬車が到着する。
黄金の紋章。
アルディア王家の印。
扉が開き、一人の少年が降り立つ。
整った顔立ち。
高価な制服。
傲慢さを隠そうともしない視線。
第二王子――アルベルト・フォン・アルディア。
腹違いの弟。
かつてレオンの全てを奪った存在の一人。
周囲が一斉に頭を下げる。
「アルベルト殿下だ!」
「すごい魔力量らしいぞ!」
「次代の王……!」
アルベルトは鼻で笑いながら歩く。
そして、レオンの前で足を止めた。
「……おい」
侮蔑の視線。
「そこを退け、平民」
空気が凍る。
周囲の受験生たちが息を呑む。
レオンは静かに視線を向けた。
昔より少し背が伸びている。
だが目だけは変わらない。
他人を見下す目。
そして、自分は上にいると信じて疑わぬ目。
レオンは一歩も動かなかった。
「聞こえなかったか?」
アルベルトが眉を吊り上げる。
「退けと言った」
レオンは数秒だけ見つめ――
静かに口を開く。
「道は広い」
周囲がざわめく。
「避けたいなら、お前が避けろ」
空気が爆ぜた。
「なっ……!」
アルベルトの顔が赤く染まる。
護衛たちが前へ出る。
受験生たちは青ざめる。
だがレオンは微動だにしない。
胸元の羽ブローチがわずかに光る。
右手甲の炎紋章が熱を帯びる。
誰にも見えない場所で、神霊たちが笑っていた。
『始まったな』
『最高です!』
『喧嘩売った』
『正確には買わせた』
『面白い』
レオンの左眼が金に光る。
王家に捨てられた少年は。
今、自らの足で世界へ戻った。
無能王子と蔑まれたその存在は――
ここから全てを奪い返す。




