雨宿りの屋根でほどける誤解
翌日の昼過ぎ、ノクタ村の空は朝から重かった。
村人たちに金属板の紋章を見せ、知っていることを聞き取る作業を終えた頃には、山の向こうから低い雷鳴が近づいていた。証言の多くは祖母の記憶を裏づけるものだった。十数年前、王都の役人らしい男たちが村の境界石を動かし、古い帳面を持ち去った。けれど、ドレイン家の者が直接来たと見た者はいなかった。
ミレイは下図の余白に、証言者の名と聞き取った日時を書き込んだ。
「これで、紋章とインクが同じ流れにあった可能性は高まりました。でも、誰が指示したかまでは……」
「急いで結論を出す必要はない」
ローデンは、村長の家から借りた軒下の机に手をついた。
「証拠が足りない部分は、足りないまま記す。それが地図師の仕事だろう」
その言葉に、ミレイは筆を止めた。
王都では、空白を残すことは無能の証だと言われていた。根拠が薄くても線を引き、疑いがあっても名前をひとつに決める。そうしなければ、地図院の上役も、後援者たちも納得しない。
母はそのやり方に抗い続けた。だから記録を奪われ、最後には「扱いにくい測量師」と呼ばれた。
「あなたは、私が聞いた名前を信じすぎませんね」
「信じていないわけではない」
「でも、聞こえたことだけでは証拠にならないと、何度も言いました」
「事実だからな」
ローデンの返事は淡々としていた。けれど、その声に疑いの棘はなかった。
「俺が必要としているのは、お前の力だけではない。聞こえたものを、誰にでも確かめられる形にする技術だ」
ミレイは顔を上げた。雨の匂いが、まだ降っていない地面から立ちのぼっている。
「……地図院では、私の力を使う時だけは重宝されました。名前が聞こえない場所では、役立たず扱いです。カシェルも、婚約していた頃は私の耳を便利だと言いました」
言葉にした途端、胸の奥にしまっていたものが崩れた。
「あの人が私を守ってくれると思っていたわけではありません。ただ、少なくとも、私が集めた記録を一緒に王都へ届けてくれると……。だから裁定の場で、あんなふうに切り捨てられて、何を信じればいいのか分からなくなりました」
最初の大粒の雨が、机の端で跳ねた。続けて屋根を叩く音が広がり、村長の家の軒下では足りなくなった二人は、斜面の上にある古い見張り小屋へ走った。
小屋の屋根は傾いていたが、中央に立てば雨をしのげた。ローデンは濡れた外套を脱ぎ、ミレイの肩へかける。
「あなたが濡れます」
「俺は平気だ」
「そう言う人ほど、あとで熱を出します」
「経験があるのか」
「母が、いつもそうでした」
ミレイは外套の襟を握った。布地には雨と革、それから火の消えた薪のような匂いがした。
しばらく、二人は屋根を打つ雨を聞いていた。
「俺の家も、地図を信じて村を見落としたことがある」
やがてローデンが言った。
「父が領主だった頃、北の谷に住む人々から道の修復を求める嘆願が届いた。公式の地図では、その谷に居住地はなかった。だから父は、軍道を優先して返事をしなかった」
「その谷は……」
「雪解けの洪水で道が崩れたあと、誰も正確な場所を言えなくなった。住民がどこへ移ったのかも分からない。俺は記録を探したが、見つけたのは受理印のない嘆願書だけだった」
ローデンの横顔は、雨雲よりも暗かった。
「だから、公式の地図にないノクタ村を見つけた時、同じことを繰り返したくなかった。だが、俺がこの村を利用していると思うなら、そう言ってくれ」
ミレイは驚いて彼を見た。
「利用……ですか」
「辺境伯が女の地図師を連れてきた。王都の貴族同士の争いに、村を使っていると考える者はいるだろう」
「私は、少し考えました」
正直に答えると、ローデンは眉を動かした。
「最初は、私をカシェルへの対抗材料にするのかもしれないと。婚約を破棄された令嬢を保護した、と王都へ示すために」
「そんなつもりはない」
「今は分かります」
ミレイは外套から手を離した。
「あなたは私を保護対象として扱わない。証言を聞く時も、地図を引く時も、意見を求める。だから……信じてみたいと思えます」
雨脚が少しだけ弱まった。雲の切れ間から、濡れた斜面に薄い光が落ちる。
「信じるのは、結論が出てからでいい」
ローデンはそう言った。
「仕事の相棒として、今日の分を明日も続けられれば十分だ」
不器用な言葉だった。それでも、ミレイの胸には静かに届いた。
「では、明日も続きを。ドレイン家の紋章を見た人を、もう一度探します」
「ああ。俺は王都へ送る照会文を書く」
小屋を出ると、雨上がりの道に小さな水流が幾筋も生まれていた。ミレイはその流れを避けずに歩きながら、下図の端へ新しい線を引いた。
それはまだ、村を公にするための線ではない。
けれど、隣を歩く人がどこから来たのかを知ったことで、線の先にあるものが少しだけ見えた気がした。信頼は一度に完成する地図ではなく、雨の中でも消えない、小さな測量点のようなものなのだ。




