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空白地図の令嬢は、辺境伯と名もなき村を描き直す  作者: 銀細工ナギ


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9/20

王都から来た撤退命令

 雨が上がった翌朝、ノクタ村の入口に、王都の紋章を掲げた馬車が止まった。


 ミレイが村長の家から出ると、灰色の外套を着た若い男が、濡れた轍を避けながらこちらへ歩いてくるところだった。馬車の側面には王立地図院の銀色の羅針盤が刻まれている。昨夜、ローデンが王都へ送った照会文に対する返事にしては、早すぎた。


「ミレイ・アウレル嬢と、北境伯ローデン・ヴァルク閣下に、緊急命令書をお届けします」


 男はそう言って、封蝋の施された筒を差し出した。封蝋には地図院長の印と、王家の空白を示す黒い線が重なっている。


 ローデンが先に受け取った。


「誰の命令だ」


「王立地図院調査管理局からです。ノクタ村周辺の調査は、直ちに中止せよ。調査員は七日以内に王都へ帰還し、採取した写し、証言記録、測量図をすべて提出せよ、と」


「理由は?」


「国境付近で無登録の集団を調査する行為が、王国の安全を損なうおそれがあるためです」


 ミレイの指先が冷えた。


 無登録の集団。ノクタ村で何代も畑を耕し、子どもを育ててきた人々を、紙の上ではそう呼ぶのだ。昨日まで聞き取っていた一人ひとりの名前が、命令書の中では最初から存在しないものにされている。


 ローデンは封を切り、紙面を黙って読んだ。ミレイも横から目を走らせる。調査停止の命令だけではなかった。北境伯が命令に従わない場合、辺境軍への補給を一時停止し、王都の監査官を派遣する、とある。


「私への処分は……」


「王立地図院臨時写図師の資格を停止。以後、地図院の記録に触れることを禁ずる」


 ローデンが短く答えた。


「あなたが私の依頼で調査したことも、越権行為として記録されるでしょう」


 使者は気まずそうに目を伏せた。


「命令をお伝えするだけです。私には、内容を変える権限がありません」


「分かっています」


 ミレイは命令書を見つめた。王都に戻れば、地図院の扉は閉ざされる。カシェルが待つ裁定の続きを、今度は地図師としてではなく、資格を失った令嬢として迎えることになるだろう。けれど、ここに残ればローデンの立場まで危うくなる。


「撤退しましょう」


 村長の家の前に集まっていた人々から、息を呑む音が漏れた。


 トゥーリが一歩前へ出る。


「お姉ちゃんも、いなくなるの?」


 ミレイはすぐに答えられなかった。村の灯りを初めて見た夜から、彼女はここで線を引き、名前を書き留めてきた。その仕事を途中で置いていくことが、紙一枚で決められてしまう。


「命令書には七日以内と書かれている」


 ローデンが言った。


「今日すぐに出ろとは書かれていない」


 使者が驚いて顔を上げた。


「閣下、命令は調査の中止です」


「中止と帰還期限は別だ。期限までは、すでに得た記録を整理する」


「新しい調査を行えば、命令違反と見なされます」


「ならば、現地で得た資料の照合だ。地図院が提出を求めた写しを、提出できる形に整える」


 ローデンは冷静だったが、握った命令書の端がわずかに折れていた。


 ミレイは彼の横顔を見た。昨日、彼は証拠の足りない部分を足りないまま記すのが地図師の仕事だと言った。だからこそ、今ある証拠だけで終わらせてはいけない。空白を空白のまま提出すれば、王都はそこへ都合のよい名前を貼りつける。


「私は、王都へ戻る前に証拠をそろえます」


 ミレイは命令書の下端を押さえた。


「七日間で、ノクタ村が存在することと、誰かが意図的に記録を消したことを、誰にでも確認できる形にします」


「ミレイ」


「命令に逆らうつもりはありません。提出するための記録を作るだけです。私の資格が失われても、ここで聞いた名前まで消えるわけではありませんから」


 ローデンの目が、初めてはっきりと揺れた。


「危険がある」


「承知しています。だから、あなたの許可ではなく、調査の相棒として確認したいのです。続けてもいいですか」


 少しの沈黙のあと、ローデンはうなずいた。


「俺は、最初からそのつもりだ」


 トゥーリが濡れた袖を引いた。


「だったら、古い測量小屋を見に行こうよ」


「測量小屋?」


「村のおばあちゃんたちが、昔の地図を描いた人の家って呼んでるところ。森の奥にあるの。道はもうないけど、名前の歌なら知ってる」


 少女は小さな声で、昨日の地名の歌とは違う節を口ずさんだ。雨上がりの空気の中で、途切れた旋律が北の斜面へ伸びていく。


 ミレイの耳の奥で、古い紙をめくるような音がした。歌の最後に含まれた一音が、記憶の底に沈んだ地名と重なる。母が使っていた測量記号の余白に、同じ響きが残っていた。


「そこへ行きましょう」


 ミレイは下図を広げた。村の北に、消された線の名残が一本だけある。道ではなく、かつての測量路を示す薄い点線だ。


「七日で、見落とされたものを全部拾います」


 ローデンは命令書を折りたたみ、外套の内側へしまった。


「ならば、出発は今日だ。王都から来た命令が、次の証拠を隠す前に」


 空白の向こうに、母の残した線がある。


 ミレイは筆を取り、撤退期限を地図の隅に記した。終わりを告げる数字は、今は残された時間を測る目盛りに変わっていた。

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