改竄のインクは王都の匂い
夕食のあと、ミレイは昼間の下図を机の上に広げた。
村人たちの家や畑を示す線の端で、古い境界線だけが不自然に太くなっている。墨を重ねた部分は夕暮れの光を吸い込み、周囲の紙よりわずかに青黒かった。
「触れてもいいか」
背後からローデンが尋ねた。
「まだ、直接は。あの線には、地図院で見た改竄の跡と同じ匂いがあります」
ミレイは昼間に拾った木片を、線のそばへ置いた。木片の古い傷からは、土地の記憶が淡い音になって伝わってくる。けれど、塗り足された線だけは耳を塞ぐように沈黙していた。
土地の名を隠すために、別の名を上から押しつけたのだ。
「匂いだけで断定はできないな」
「はい。ですから、確かめます」
ミレイは道具袋から小さな硝子瓶を取り出した。地図院で使われるインクの検査液だ。紙の端に一滴落とすと、普通の墨は淡い灰色に変わる。だが黒い線の上では、液が紫に濁った。
ローデンの目が細くなる。
「何が分かる」
「顔料に、灰葡萄樹脂が混ぜられています。乾くと紙や木へ強く定着する特殊なインクです。古い境界線を消すため、王立地図院の一部で使われていました」
「一部、というのは」
「通常の測量記録には使いません。公印のある原図を補修する時か、王命で封じる記録に限るはずです」
ミレイは瓶の蓋を閉めた。鼻の奥に残る苦味が、王都の石造りの廊下と、母の仕事机を思い出させる。
母イレナの机にも、同じ匂いがあった。幼い頃は薬品の匂いだと思っていた。母が夜遅くまで何かを写しているとき、窓辺に置かれた黒い瓶から漂っていた匂いだ。
「このインクを、村の誰かが持っていたとは考えにくいでしょう」
「道具も知識も必要だ。ここで作られたものではない」
ローデンは境界線の続く南の斜面を見た。そこには、昼間ガルドが教えた石垣がある。
「現地を見よう。線の始点が残っているかもしれない」
二人が斜面へ向かうと、トゥーリが村の端で待っていた。
「その道なら、あたしも知ってる。おばあちゃんの薬草畑の裏に、動かされた石があるの」
「動かされた?」
「去年の秋、知らない男の人が二人で運んでた。村長さんが声をかけたら、古い石を片づけてるだけだって」
月明かりの下で、石垣の切れ目が見えた。崩れたのではない。四角く抜かれた跡の横に、土へ押しつけられた木箱の角形が残っている。
ミレイは土を払った。石の下から、薄い金属板が現れた。表面にはかすれた刻印があり、中央に三つの輪を重ねた紋章が刻まれている。
ドレイン家の紋章だった。
ミレイの胸の奥が、冷たい音を立てた。
カシェルの家。婚約破棄を告げた、あの人の家。
「それだけでは、ドレイン家が改竄した証拠にはなりません」
自分に言い聞かせるように、ミレイは言った。
「誰かが紋章を使っただけかもしれない。刻印の板が、ここにあった理由を調べる必要があります」
「分かっている」
ローデンは金属板を布で包み、ミレイへ渡した。
「だから持ち帰る。決めつけず、逃がさず、順番に確かめる」
その言葉に、ミレイの指先から力が抜けた。王都では、聞こえた名前を説明するたびに、証拠のない妄言だと笑われた。今は、聞こえたものを証拠へつなぐ時間を、隣の男が守ってくれている。
村へ戻ると、村長の家から年配の女が出てきた。トゥーリの祖母だという。
「その板なら、昔見たことがあるよ」
女は火鉢のそばで、ゆっくり話した。
「母さんがまだ若かった頃、王都から測量師が来た。村の名を聞かれて、ノクタだと答えた。あの人は地図に書いてくれると言ったが、数日後には戻ってこなかった」
「その測量師の名は?」
「イレナという女の人だった」
ミレイは息を止めた。
母は、ここへ来ていた。
「その後、別の男たちが来た。ノクタという名は古すぎる、正式な道の外にある村だと言って、境界の石を抜いた。母さんは抵抗したけれど、帳面を取り上げられたと聞いている」
女は棚の奥から、黄ばんだ布切れを出した。そこには細い線で、三つの輪の紋章と、納品日らしい数字が縫い取られていた。
ミレイはそれを見て、地図院の記録帳を開いた。母が残した古い筆跡の脇に、同じ日付がある。さらに下には、インクの納入先として王立地図院の工房名が記されていた。
「母は、改竄を見つけていたんです」
「そして、誰かが母の記録を消した」
ローデンが低く続けた。
証拠はまだ細い。金属板一枚と、祖母の証言、布切れの日付。それでも三つの線は、王都からこの村へ伸びていた。
ミレイは下図の余白へ、今日見つけた事実を一つずつ書き込んだ。地図に新しい線を足すように、嘘の上へ真実を重ねる。
最後に、母の名を記した。
その瞬間、紙の奥からかすかな音がした。
消されていた村の名ではない。遠い記憶の中で、母が何度も呼んだ声だった。
「ノクタを、忘れないで」
ミレイは顔を上げた。ローデンは何も聞かなかったふりをして、机の上の証拠を封筒へしまっている。
「明日、村人たちにこの紋章を見せます。誰が何を知っているか、もう一度確かめたい」
「俺は王都の工房と、ドレイン家の取引記録を調べる」
「辺境伯が、そこまで?」
「これは俺の領地の境界に関わる。お前だけの仕事ではない」
無愛想な返事だった。けれどミレイには、その言葉が今夜いちばん確かな灯りに思えた。
空白の地図に引かれた線は、まだ村を守るほど太くない。
それでも、王都の匂いをまとったインクが、誰の手から流れてきたのか。その手がかりは、確かにミレイの手の中に残っていた。




