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空白地図の令嬢は、辺境伯と名もなき村を描き直す  作者: 銀細工ナギ


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7/20

改竄のインクは王都の匂い

 夕食のあと、ミレイは昼間の下図を机の上に広げた。


 村人たちの家や畑を示す線の端で、古い境界線だけが不自然に太くなっている。墨を重ねた部分は夕暮れの光を吸い込み、周囲の紙よりわずかに青黒かった。


「触れてもいいか」


 背後からローデンが尋ねた。


「まだ、直接は。あの線には、地図院で見た改竄の跡と同じ匂いがあります」


 ミレイは昼間に拾った木片を、線のそばへ置いた。木片の古い傷からは、土地の記憶が淡い音になって伝わってくる。けれど、塗り足された線だけは耳を塞ぐように沈黙していた。


 土地の名を隠すために、別の名を上から押しつけたのだ。


「匂いだけで断定はできないな」


「はい。ですから、確かめます」


 ミレイは道具袋から小さな硝子瓶を取り出した。地図院で使われるインクの検査液だ。紙の端に一滴落とすと、普通の墨は淡い灰色に変わる。だが黒い線の上では、液が紫に濁った。


 ローデンの目が細くなる。


「何が分かる」


「顔料に、灰葡萄樹脂が混ぜられています。乾くと紙や木へ強く定着する特殊なインクです。古い境界線を消すため、王立地図院の一部で使われていました」


「一部、というのは」


「通常の測量記録には使いません。公印のある原図を補修する時か、王命で封じる記録に限るはずです」


 ミレイは瓶の蓋を閉めた。鼻の奥に残る苦味が、王都の石造りの廊下と、母の仕事机を思い出させる。


 母イレナの机にも、同じ匂いがあった。幼い頃は薬品の匂いだと思っていた。母が夜遅くまで何かを写しているとき、窓辺に置かれた黒い瓶から漂っていた匂いだ。


「このインクを、村の誰かが持っていたとは考えにくいでしょう」


「道具も知識も必要だ。ここで作られたものではない」


 ローデンは境界線の続く南の斜面を見た。そこには、昼間ガルドが教えた石垣がある。


「現地を見よう。線の始点が残っているかもしれない」


 二人が斜面へ向かうと、トゥーリが村の端で待っていた。


「その道なら、あたしも知ってる。おばあちゃんの薬草畑の裏に、動かされた石があるの」


「動かされた?」


「去年の秋、知らない男の人が二人で運んでた。村長さんが声をかけたら、古い石を片づけてるだけだって」


 月明かりの下で、石垣の切れ目が見えた。崩れたのではない。四角く抜かれた跡の横に、土へ押しつけられた木箱の角形が残っている。


 ミレイは土を払った。石の下から、薄い金属板が現れた。表面にはかすれた刻印があり、中央に三つの輪を重ねた紋章が刻まれている。


 ドレイン家の紋章だった。


 ミレイの胸の奥が、冷たい音を立てた。


 カシェルの家。婚約破棄を告げた、あの人の家。


「それだけでは、ドレイン家が改竄した証拠にはなりません」


 自分に言い聞かせるように、ミレイは言った。


「誰かが紋章を使っただけかもしれない。刻印の板が、ここにあった理由を調べる必要があります」


「分かっている」


 ローデンは金属板を布で包み、ミレイへ渡した。


「だから持ち帰る。決めつけず、逃がさず、順番に確かめる」


 その言葉に、ミレイの指先から力が抜けた。王都では、聞こえた名前を説明するたびに、証拠のない妄言だと笑われた。今は、聞こえたものを証拠へつなぐ時間を、隣の男が守ってくれている。


 村へ戻ると、村長の家から年配の女が出てきた。トゥーリの祖母だという。


「その板なら、昔見たことがあるよ」


 女は火鉢のそばで、ゆっくり話した。


「母さんがまだ若かった頃、王都から測量師が来た。村の名を聞かれて、ノクタだと答えた。あの人は地図に書いてくれると言ったが、数日後には戻ってこなかった」


「その測量師の名は?」


「イレナという女の人だった」


 ミレイは息を止めた。


 母は、ここへ来ていた。


「その後、別の男たちが来た。ノクタという名は古すぎる、正式な道の外にある村だと言って、境界の石を抜いた。母さんは抵抗したけれど、帳面を取り上げられたと聞いている」


 女は棚の奥から、黄ばんだ布切れを出した。そこには細い線で、三つの輪の紋章と、納品日らしい数字が縫い取られていた。


 ミレイはそれを見て、地図院の記録帳を開いた。母が残した古い筆跡の脇に、同じ日付がある。さらに下には、インクの納入先として王立地図院の工房名が記されていた。


「母は、改竄を見つけていたんです」


「そして、誰かが母の記録を消した」


 ローデンが低く続けた。


 証拠はまだ細い。金属板一枚と、祖母の証言、布切れの日付。それでも三つの線は、王都からこの村へ伸びていた。


 ミレイは下図の余白へ、今日見つけた事実を一つずつ書き込んだ。地図に新しい線を足すように、嘘の上へ真実を重ねる。


 最後に、母の名を記した。


 その瞬間、紙の奥からかすかな音がした。


 消されていた村の名ではない。遠い記憶の中で、母が何度も呼んだ声だった。


「ノクタを、忘れないで」


 ミレイは顔を上げた。ローデンは何も聞かなかったふりをして、机の上の証拠を封筒へしまっている。


「明日、村人たちにこの紋章を見せます。誰が何を知っているか、もう一度確かめたい」


「俺は王都の工房と、ドレイン家の取引記録を調べる」


「辺境伯が、そこまで?」


「これは俺の領地の境界に関わる。お前だけの仕事ではない」


 無愛想な返事だった。けれどミレイには、その言葉が今夜いちばん確かな灯りに思えた。


 空白の地図に引かれた線は、まだ村を守るほど太くない。


 それでも、王都の匂いをまとったインクが、誰の手から流れてきたのか。その手がかりは、確かにミレイの手の中に残っていた。

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