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空白地図の令嬢は、辺境伯と名もなき村を描き直す  作者: 銀細工ナギ


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4/20

道標のない森で土地の名を聴く

 翌朝、森へ入る前に、ミレイは白紙の地図へ昨夜の線を写し取った。


 宿場で測った現在地から北東へ伸びる、細い一本の線。軍用図に記された古い街道とは、途中でわずかに角度が違っている。誤差と呼べるほど小さな違いだったが、森の中ではその差が大きな遠回りになる。


「このまま進めば、地図の街道に合流します」


 ミレイが線の先を指すと、ローデンは折り畳んだ軍用図と見比べた。


「軍用図では、ここから東へ折れる」


「道は北東へ続いています。昨夜聞こえたノクタの名も、こちらからです」


「聞こえた、という理由だけで進路は決めない」


「ええ。だから地形も見ます」


 ミレイは方位磁針を懐へしまい、白い息の向こうを見た。木々の間に残る雪のくぼみは、ほかの場所より浅い。人や荷車が何度も通った跡だ。だが、獣道にしては幅があり、街道にしては不自然に曲がっている。


 先頭の兵士が枝を払いながら進む。道はしばらく北東へ向かったあと、急に谷を避けるように西へ折れた。そこには新しい轍が二本、凍った泥の中に残っている。


「この先に橋があります」


 ローデンが言った。


「橋があるなら、なぜ道は西へ逃げるのですか」


「橋が壊れているのかもしれない」


 彼は兵士に命じ、迂回路を進ませた。ミレイはその場にしゃがみ、轍の端を指でなぞる。雪の下から、細い鉄の輪が出てきた。荷車をつなぐ金具の一部だろう。轍は新しいのに、金具の表面には赤茶色の古い錆が浮いている。


「ここは、ずっと使われていた道です」


「金具一つでは断定できない」


「断定はしません。位置と形を記録します」


 ミレイは白紙の地図の脇に、金具の落ちていた場所を小さな丸で示した。ローデンは何も言わず、その丸の横に日付を書き加えた。


 迂回路を進むと、谷の底から水音が聞こえた。木々の向こうに、古い石橋が架かっている。欄干の一方は崩れていたが、橋そのものは馬一頭なら渡れそうだった。道を塞ぐほどではない。


 橋の手前には、切り株があった。幹の太さから、かつては道標か境界標が立っていたと思われる。切り口は風雨にさらされているが、根元近くの雪は乱れていた。


「誰かが最近、掘り返しています」


 兵士の一人が報告した。


 ローデンは切り株の周囲を見回した。彼の目が、雪の上に残った細い引きずり跡を捉える。


「標を抜いて運んだ跡だ。西の迂回路へ向かっている」


「標があった場所を隠すために、道そのものを曲げたのですね」


 ミレイの胸の奥が冷えた。道が自然に曲がったのではない。人の手が、地図から見えない場所へ向かう線をそらしている。


 ローデンは谷を見下ろしたまま、短く指示を出した。


「全員、足跡を踏まない。切り株と橋を記録する。標を探す」


 兵士たちが散った。ミレイは切り株のそばに膝をつき、根の間へ手を差し入れた。冷たい土の中に、硬い石の感触がある。


 ローデンの手が、彼女の手首をつかんだ。


「触れるな。証拠を動かす」


「動かしません。音を聴くだけです」


「それでも、無理をするな」


 叱る声ではなかった。けれど指先には強い力がこもっている。ミレイは一瞬だけ彼を見上げ、それからゆっくり手を抜いた。


「なら、あなたも隣で確認してください」


 ローデンは手を離した。代わりに片膝をつき、ミレイが土を払うのを見守る。


 現れたのは、掌二つ分ほどの平たい石だった。表面には苔が厚く張りついている。ミレイは布越しにそっと指を置いた。


 水音が遠ざかる。


 代わりに、夜の底から呼びかけるような声が響いた。


 ノクタ。


 ひとつの名ではない。境界を示す低い鐘の音と、橋を渡る荷車の軋み、人々が帰る場所を呼ぶ声。そのすべてに重なって、土地の本名があった。


 ミレイは息をのんだ。


「この石は、村の境界標です」


 ローデンの灰色の瞳が、石へ向く。


「確かか」


「聞こえたのはノクタの名です。でも、それだけでは証明になりません。石の裏側に、刻印があるはずです」


 兵士が周囲を撮影し、ローデンの許可を得て石を慎重に起こした。裏側の土から、欠けた金属板が現れる。王国の測量院が使う古い形式の留め具だった。


 さらに石の側面には、半分消えた線刻が残っていた。山の形と、三つの点。軍用図の凡例にはない印だが、古い測量記録なら境界を示す符号として使われる。


「証言ではなく、物証になりそうですね」


 ミレイが言うと、ローデンはうなずいた。


「君の記録に、私の確認を添える」


「私の記録を、あなたの権限で上書きしないでください」


「上書きはしない。隣に署名する」


 その言葉に、ミレイの胸の奥で張りつめていたものが少しほどけた。


 石のそばから伸びる古い道は、森の奥へまっすぐ続いている。けれど途中には、斧で切られた枝が積まれ、わざと通りにくくされていた。道を隠した者は、標を抜いただけではない。人の足が自然に別の道へ向くよう、森まで作り替えていたのだ。


 ミレイは白紙の地図に、曲げられた現在の道と、境界標から伸びる古い線を二重に描いた。


「ここから先に、ノクタがあります」


「見えるのか」


「まだ見えません。でも、土地が道を覚えています」


 そのとき、森の奥で鳥が一斉に飛び立った。風の向きが変わり、冷たい空気の中に、かすかな煙の匂いが混じる。


 ローデンが立ち上がった。


「進むぞ。日が落ちる前に、古い道の終点を確かめる」


 ミレイも地図を巻いた。境界標の位置、迂回路、橋、消された道標。白紙には、少しずつ土地の輪郭が戻っている。


 森は相変わらず道標を持たず、行き先を教えない。


 それでもミレイの耳には、木々の向こうから、帰る場所を呼ぶ声が聞こえていた。


 ノクタ。

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