地図にない村の灯り
森の奥から漂ってきた煙は、風が気まぐれに運んだものではなかった。
古い道を進むにつれ、木々の隙間に小さな灯りが見え隠れする。ひとつ、ふたつ。屋根の高さに並ぶ明かりは、夜を迎える村の家々から漏れているようだった。
「あれが、ノクタです」
ミレイが言うと、先を歩いていたローデンが手を上げた。兵士たちの足が止まる。
「まだ村とは断定しない」
「灯りがあるのに?」
「灯りだけなら、山小屋かもしれない。誰が住み、どの土地を使っているかを確認する」
いつものように慎重な言葉だった。けれどローデンの視線は、木々の向こうの明かりから離れない。ミレイは白紙の地図を開き、境界標から続く古道の終点を記した。
道は低い丘を回り込み、その裏側で急に開けた。谷間に、十数軒の家が寄り添っている。屋根は雪を逃がすために急で、煙突から細い煙が上がっていた。畑らしい区画には低い石垣があり、凍った水路が家々の間を縫っている。
村だった。
しかし、こちらの姿に気づいた灯りが、ひとつずつ消えていった。
最後に残った明かりも、戸の内側へ隠れるように揺れて消える。谷は、さっきまで人の暮らしがあったとは思えないほど静かになった。
「警戒されています」
ミレイがつぶやくと、ローデンはうなずいた。
「当然だ。地図にない場所へ、武装した一団が来た」
「あなたが辺境伯だと伝えれば――」
「領主の名を聞いて安心するとは限らない。まず、武器を下ろさせる」
彼は兵士たちに合図した。槍の穂先が下がり、馬から降りる者もいる。ローデン自身も剣の柄から手を離し、空いた両手を見せた。
「ノクタの住民に告げる。私は北境伯ローデン・ヴァルク。王都の命令で土地を奪いに来たのではない。話を聞き、記録を取るために来た」
谷に声が響いた。返事はない。
代わりに、丘の上から小石が転がってきた。ミレイが顔を上げると、枯れた木の陰に少女が立っていた。厚手の外套を着て、片手に古びたランタンを下げている。年は十歳ほどだろう。こちらを見つめる目は怯えていたが、逃げようとはしなかった。
「トゥーリ、戻りなさい!」
家のほうから女の声が飛ぶ。
少女は聞こえないふりをした。ランタンの蓋を少し開けると、光を二度、短く明滅させる。
すると谷のあちこちで、同じ合図が返った。閉じた戸の隙間から、物置の陰から、消えたはずの灯りが一瞬だけ浮かぶ。
村人たちは、家の中からこちらを見ている。
「明かりで合図を送っているのですね」
「外から来た人間を確かめるためだろう」
ローデンが答えた。その声に気づいたのか、少女が丘を下りてくる。
「あなたたちは、王都の人?」
「私は王都の地図院から来た地図師です。ミレイ・アウレルといいます」
ミレイが名乗ると、少女のランタンが大きく揺れた。
「地図師なら、ここを消しに来たの?」
まっすぐな問いだった。
胸の奥を鋭く突かれ、ミレイは息を止めた。自分の名が、かつて村人たちにどれほど恐ろしいものとして伝わったのかは分からない。それでも、曖昧に答えることだけはできなかった。
「消すためではありません。地図から消された理由を調べに来ました」
「同じことを言った人がいたよ」
少女はランタンの持ち手を握り直した。
「昔、王都から測量師が来た。でも、村の名前とみんなの名前を書いたあと、戻ってこなかった。役所に届けたって聞いたのに、次の年には地図からノクタがなくなっていた」
ミレイの指が、地図を挟んだ布袋の上で止まった。母、イレナのことが脳裏をよぎる。ノクタを登録しようとした測量師。戻らなかった記録。
「その測量師の名前を知っていますか」
「お母さんが知ってる。でも、知らない人には教えちゃいけないって」
少女の背後で、家の戸が一軒だけ開いた。白髪の女が立っている。彼女はミレイとローデンを交互に見て、しばらく黙っていた。
「トゥーリ。こちらへ」
少女はすぐには動かなかった。
「この人たちは、村を売る人?」
「分からないわ。だから、まだ中へ入れてはいけない」
女はそう言ってから、ローデンへ向き直った。
「辺境伯さまなら、なぜ今さらノクタを探すのです」
ローデンは視線をそらさなかった。
「探さなければ、存在しないことにされた人々を、存在しないままにするからだ」
短い言葉だった。
女の表情がわずかに変わる。けれど警戒は解けない。
「領主の方がそう言っても、記録がなければ私たちは何も持っていない。畑も家も、ここで生きてきた年月も、誰かが違うと言えば奪われる」
「だから、記録を作ります」
ミレイは一歩前へ出た。
「ただし、私の力で聞こえた名前だけを証拠にはしません。村の人たちの証言と、土地に残る道や境界を一つずつ確かめます。嫌なことを隠したまま、勝手に地図を描くこともしません」
女はミレイの顔を見つめた。王都の令嬢らしい衣服も、泥のついた靴も、折り目の増えた地図も、順に見ていく。
「あなたは、誰のために地図を描くのです」
「そこに暮らす人のために」
答えた瞬間、ミレイの耳の奥で、かすかな音がした。
遠い鐘のような、土地の息づかい。ノクタという名が、さっきよりも近く、静かに響いている。
少女――トゥーリが、ふいにミレイの袖を引いた。
「じゃあ、明かりを消さなくていい地図を描いて」
その言葉に、家々の隙間から小さなどよめきが起こった。
白髪の女は目を伏せ、やがて戸を大きく開いた。
「今夜だけ、納屋を貸しましょう。村の中へは、まだ入れません」
「十分です」
ローデンが答えた。
兵士たちが荷を下ろし、ミレイは納屋の壁際に簡素な机を置いた。村人たちは姿を見せないままだったが、暗闇の中からいくつもの視線が集まっている。
やがて、ひとつの灯りが戸口にともった。続いて隣の家にも、そのまた隣にも。
消されていた村は、まだ完全には姿を現していない。それでも今夜、ノクタの灯りは外から見える場所に戻った。
ミレイは白紙の地図の端に、村の名を記した。
証明ではない。約束でもない。
ここに人が暮らし、帰る場所があると、自分自身が忘れないための最初の印だった。




