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空白地図の令嬢は、辺境伯と名もなき村を描き直す  作者: 銀細工ナギ


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3/20

白紙の地図と、無愛想な同行者

 北へ向かう道は、王都を出て三日目には石畳の形を失っていた。


 車輪が凍った轍に落ちるたび、馬車の中で測量器具がかすかに鳴る。ミレイは膝の上に広げた白紙を押さえながら、窓の外を見た。


 雪はまだ薄い。けれど遠くの山は白く閉ざされ、街道沿いの木々には風に削られた跡が残っている。地図の上では、ここから北境伯領の境界まで、あと半日の距離だった。


 向かいに座るローデンは、出発してからほとんど口を開いていない。報告書を読み、窓の外を確かめ、必要なときだけ御者へ指示を出す。それ以外は、黒い手袋をした手を組んで黙っていた。


 ミレイは三度目になる質問を、今度こそ口にした。


「この白紙に、何を描くおつもりですか」


「道と地形だ」


「それだけですか」


「最初は、それだけで十分だ」


 ローデンはミレイの手元へ視線を落とした。


「君はノクタの名を聞いた。私は古い街道の位置と、兵が見た灯りの方角を持っている。だが、どちらも地図の上に置かれていない。まずは現在地を確定し、報告にある地点までの距離を測る」


「現在地なら、街道標と太陽の位置でわかります。そこから先は、村の名を聴ける場所を探した方が早いでしょう」


「早さを優先すれば、証拠を落とす」


「慎重すぎれば、村へ着く前に冬になります」


 返事はなかった。ローデンはまた報告書に目を戻した。


 その沈黙が、ミレイには拒絶のように感じられた。彼は自分の考えを説明しない。説明しないまま決め、決めたことだけを短く告げる。王都で会ったときからそうだった。


 しかし、ミレイも黙って従うつもりはなかった。


「私は、ただ馬車に乗っているために雇われたのではありません」


「知っている」


「なら、調査の線引きを私にも見せてください」


 ローデンの指が、報告書の端で止まった。


 彼は懐から折り畳んだ地図を取り出し、ミレイの前へ置いた。北境伯領の軍用図らしい。街道、河川、監視塔、古い砦が濃い線で記されている。一方で、森の東側には大きな空白があった。そこだけ紙の色がわずかに違い、何度も削られたように毛羽立っている。


「ここが、灯りの報告があった場所だ」


「線がありません」


「線を引いても消える」


「消えるのを確認したのは、何年前ですか」


「七年前。私が領主になった年だ」


 ミレイは地図へ耳を近づけた。紙からは、遠い水音のようなざわめきが伝わってくる。地名聴きの力は、いつもは土地の本名をひとつの音として感じさせる。だが、この空白から聞こえるのは、擦れた筆先と、誰かが何度も名前を呼び直す気配だった。


 ノクタ。


 その音の下に、別の響きが重なっている。


「この地図は、何度も書き換えられています」


「わかるのか」


「紙が覚えています。古い線を削り、その上から別の薬剤を塗っている。境界を失ったというより、失わせた跡です」


 ローデンは空白を見つめたまま、低く息を吐いた。


「王都で見つけた紙片と同じか」


「まだ断定はできません。ただ、似た匂いがします」


「ならば、なおさら記録が必要だ」


 彼は地図を引き寄せ、空白の周囲に小さな印をつけた。


「ここから北東へ進む。途中の分岐をすべて測る。君は地名と古い線を確認してくれ」


「兵士の記憶も聞き取ります」


「彼らは地図師ではない」


「だからこそ、見たものを話してもらう価値があります」


 ローデンはミレイを見た。灰色の瞳には、苛立ちよりも計算するような光があった。


「話を聞く時間が増える」


「証言が増えれば、村を見つけたときに、私たちの記録が一つではなくなります」


「君は、最初から村があると決めている」


「あなたは、ない可能性を残している」


「領主は可能性を残す仕事だ」


「地図師は、可能性を確かめる仕事です」


 二人の視線がぶつかった。


 やがてローデンは、短くうなずいた。


「わかった。分岐ごとに兵士を呼ぶ。聞き取りは君が行う。ただし、証言はその場で記録し、本人に確認させる」


「もちろんです」


「私が確認するまで、報告書には採用しない」


「それも構いません。証言と事実を分けるのは、地図師の基本です」


 初めて、ローデンの口元がわずかに動いた。笑ったのかどうか、ミレイにはわからないほどの変化だった。


 その日の夕刻、一行は北境の境界標が立つ小さな宿場に着いた。兵士たちが馬を休ませる間、ミレイは軍用図を木箱の上に広げた。持参した白紙をその横に置き、方位磁針と定規を並べる。


 ローデンが灯りを一つ増やした。


「目が悪くなる」


「あなたは地図を見るとき、灯りを減らすのですか」


「必要なら増やす」


「今、必要だと思ったのは私です」


「見ればわかる」


 相変わらず説明は短い。それでもミレイは、灯りの置かれた位置を見て気づいた。彼は自分の側ではなく、白紙の中央が最も明るくなるように調整している。


 ミレイは筆を取った。


「この地図には、まだノクタの名を書きません」


「聞いた名なのに?」


「聞こえた名だけでは、法的な証明になりません。ここに書くのは、今日確認した道と、地図が空白になった事実だけです」


 白紙に最初の線を引く。細く、まっすぐな線だった。


 隣でローデンが、彼女の筆先を見ている。


「その線は、消えないのか」


「消させません。消えるなら、消えたことも記録します」


 ローデンはしばらく黙っていた。それから、白紙の端に自分の印を押した。北境伯家の紋章ではなく、今日の日時と現在地を示す簡素な記号だった。


「何を?」


「君の線を、私も確認したという印だ」


 ミレイはその記号を見つめた。地図の上で、彼の権限が彼女の仕事を覆うのではない。隣に置かれ、同じ記録の一部になっている。


「明日は、私が先頭を歩きます」


「危険がある」


「だから兵士を連れていくのでしょう」


「……無茶をするな」


「無茶と必要な調査は、あなたが判断してください。私は、必要なことをします」


 ローデンは答えず、白紙の地図を丁寧に押さえた。


 無愛想で、説明が足りなくて、けれど記録の価値を知っている同行者。ミレイはまだ彼を信用したわけではない。それでも、明日から同じ地図を見て歩ける気はしていた。


 宿場の外では、夜の森から風が吹いている。


 耳の奥で、遠く小さな声がした。


 ノクタ。


 今度は、白紙の上に引かれた最初の線の先から聞こえた。

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