辺境伯の依頼は「ない村」を探すこと
ローデン・ヴァルクは、散らばった地図の切れ端を見下ろしたまま、もう一度尋ねた。
「その村を、探せるか」
低い声だった。広間中に響き渡るような声ではない。それでも、誰もが聞き逃さなかった。
ミレイは胸に抱いた紙片を握り直した。
「探すのではありません。そこにあると、証明します」
周囲から、嘲るような息がいくつか漏れた。カシェルが肩をすくめる。
「北境伯ともあろう方が、令嬢の幻聴に付き合うとは。ノクタ村など、地図の上にしかない妄想ですよ」
「ならば、存在しないと証明すればいい」
ローデンはカシェルを見なかった。視線はミレイの手元に残ったままだ。
「だが、存在するなら、なぜ消されたのかを調べる。私が求めているのは、君の耳に聞こえた名前だけではない。道、住民、境界、古い記録。地図に戻すために必要なものを、すべてだ」
「私に、現地調査を依頼するのですか」
「王立地図院は却下した。北境伯領の内側にある調査なら、私が許可できる」
ミレイは息を止めた。
北境伯領。王国の北端に広がる、雪と森の土地だ。辺境伯の許可があれば、街道の通行も測量もできる。しかし、調査に失敗すれば、彼の統治に傷がつく。地図のない村をあると言い出した令嬢に依頼するなど、簡単に決められることではない。
「なぜ、そこまでしてくださるのですか」
問いかけると、ローデンはほんの少し目を細めた。
「北境の報告書に、説明のつかない灯りがある。冬になると、古い街道から外れた森の向こうに灯火が見えるという報告だ。だが、報告を書いた兵士は、その場所を地図に記せなかった」
「記せなかった?」
「何度線を引いても、翌朝にはインクが薄れていたそうだ」
魔法の地図なら、土地の名を失った場所は空白になる。空白を埋めるには、地名と境界と、そこに暮らす人々の記録が要る。どれか一つでも欠ければ、名録地図は土地を認めない。
ミレイは、破られた紙片へ目を落とした。油と鉄を混ぜたような、あの不自然なインクの匂いがまだ残っている。
「私は王立地図院を辞めたわけではありません。今日の裁定で、臨時写図師としての信用を失ったと宣言されただけです」
「知っている」
「では、調査の結果を地図院に提出できない可能性もご存じですね」
「提出先は地図院だけではない。王都の大地図会に、北境伯領の記録として出す」
大地図会。王国中の地図と土地の権利を審査する、年に一度の公開の場だ。そこで認められれば、地図院が握りつぶすことは難しい。
「ただし、条件があります」
ミレイは背筋を伸ばした。
「調査結果を、都合よく書き換えないこと。村が存在するとわかった場合、住民の安全を確保すること。そして、私を名目だけの同行者にしないことです」
ローデンの眉がわずかに動いた。
「最後の条件は、私が君を役に立たないと思っていると?」
「辺境伯が、婚約を破棄されたばかりの伯爵令嬢を連れていくのです。周囲は、私を保護されるだけの荷物だと思うでしょう」
「私は荷物を依頼しない」
即答だった。
「君には地図師として同行してもらう。測量の指揮も、証言の整理も任せる。私は道と兵を用意する」
その言葉は、思いのほかまっすぐミレイの胸に届いた。地名聴きの力を珍しい見世物としてではなく、仕事の一部として扱っている。
ローデンは外套の内側から、折り畳まれた書状を取り出した。厚い紙には、北境伯家の黒い封蝋が押されている。
「調査許可証だ。報酬と旅費、必要な器具の費用を含む。期間は三十日。延長は調査の進み具合によって相談する」
「三十日で、村を見つけて証明するのですか」
「見つからなければ、見つからないという記録を残す。空白を空白のまま放置しないことが目的だ」
ミレイは書状を受け取った。封蝋に触れた指先から、ひやりとした感覚が伝わる。これは口約束ではない。彼女を仕事に戻すための、正式な依頼だった。
「お受けします」
カシェルが鼻で笑った。
「本気ですか。北境など、令嬢が馬車で観光に行ける場所ではありませんよ」
ミレイは彼を見た。
「だから、あなたの作った空白を確かめに行くのです」
広間のざわめきが止まった。
カシェルの顔から、初めて余裕が消えた。けれどローデンは何も言わず、ただ書状の控えを審査官へ差し出した。北境伯家の印が押された紙を見て、誰も異議を唱えられない。
その日の夕方、ミレイはアウレル家の自室へ戻った。
窓の外では、王都の屋根が夕日に赤く染まっている。ここを出れば、もう婚約者の帰りを待つ令嬢として戻ることはない。父が何と言うかはわからなかったが、荷物をまとめる手は止まらなかった。
衣服を二着、厚手の外套、筆記具、定規、方位磁針。それから、母イレナが使っていた古い測量鞄を棚の奥から取り出した。
鞄の革はひび割れ、留め金にも錆が浮いている。けれど中に収められた鉛筆は、削ればまだ使えそうだった。母が北境から戻らなかった年、誰も開こうとしなかった鞄だ。
ミレイはそれを抱きしめ、静かに息を吐いた。
「お母さま。今度は、私が続きを描きます」
翌朝、王都の北門には一台の黒い馬車が停まっていた。御者の隣にはローデンが立ち、兵士が二人、荷を積んでいる。
「早いのですね」
「北の冬は、出発を待ってくれない」
「私を待つ必要もなかったのでは?」
「依頼したのは私だ」
短い返事に、ミレイは少しだけ笑った。
馬車に乗り込む前、彼女は王都を振り返った。昨日までなら、ここが自分の世界のすべてだと思っていた。名録地図に名前がある土地で、決められた身分の中にいることが、失うことのない安全だと。
けれど地図は、世界そのものではない。描かれなかった場所にも、人が暮らし、道が続き、呼ばれるべき名前がある。
馬車が動き出した。
北門を抜け、石畳が土の道へ変わっていく。膝の上の測量鞄から、紙片を一枚取り出す。破れた余白に触れると、耳の奥であの声がした。
ノクタ。
今度は、遠ざかる声ではなかった。北の雪原の向こうから、こちらへ来いと呼んでいる。
向かいに座るローデンが、窓の外を見たまま言った。
「怖くないのか」
「怖いです」
「それでも行く?」
「存在しないことにされた村を、存在しないままにしたくありません」
ローデンはしばらく黙っていた。それから、ほんのわずかに口元を緩めた。
「なら、まずはその名の聞こえる場所まで行こう」
白紙の地図と、母の測量鞄。二人を乗せた馬車は、まだ誰も線を引いていない北の道へ進んでいった。




