公開裁定の日、地図から消えた村
王都中央庁舎の大広間には、冬の朝だというのに、ひどく乾いた熱気がこもっていた。
高窓から差す光の下、正面の壇には王立地図院の紋章が掲げられている。銀の定規と、開かれた本。その本に記された土地だけが、王国に存在する土地だと認められる。
ミレイ・アウレルは、傍聴人の視線を背に受けながら、壇上に立っていた。
淡い青のドレスの袖口には、昨夜まで使っていた鉛筆の跡が残っている。伯爵令嬢としてはみっともない汚れだったが、彼女は隠そうとしなかった。これは飾りのための服ではない。王立地図院の臨時写図師として、今日も仕事に来たのだ。
ただし、隣に立つ男はそう思っていないらしい。
「ミレイ・アウレル。君との婚約を、ここで破棄する」
カシェル・ドレインは、よく通る声で告げた。
ざわめきが広間の壁を走る。彼は地図院の後援家の嫡男で、いずれ父の席を継ぐと噂されている。ミレイの婚約者だった期間は三年。けれど、彼がこちらを見る目には、共に過ごした時間など一片も残っていなかった。
「理由は、北境に存在しない村を捏造し、王立地図院へ虚偽の登録を申請したことだ。君の作成した写図には、ノクタ村という地名が記されている。しかし、王国の名録地図にその村はない」
カシェルが指を鳴らすと、書記官が一枚の地図を運んできた。
羊皮紙の中央には、北の山脈と古い街道が描かれている。街道の脇に、本来なら小さな村印があるはずだった。だが、そこだけが不自然に白い。
ミレイの喉の奥が冷えた。
昨日、彼女が写した地図には、確かに村の名があった。原図を開いたとき、余白に滲んだ黒い線を見つけた。筆先を置いた瞬間、土地の奥からかすかな音が届いたのだ。
ノクタ。
夜という意味の古い言葉に似ていた。けれどそれは、誰かが付けた名前を読む感覚ではない。土の下に眠る水脈や、石垣に染みた歳月が、自分の名を呼ぶように聞こえる。
ミレイはその力を「地名聴き」と呼んでいた。聞こえた名前をそのまま信じることはしない。現地の証言、道標、古文書。いくつもの証拠を重ねて初めて、地図に線を引く。
だからこそ、登録申請には母の古い測量記録と、北境の行商人が書いた宿帳の写しを添えた。少なくとも、捏造ではない。
「申請書に添付された証拠は、すべて出所が不明だ。君は地図師としての信用を失った。よってアウレル伯爵家との婚約も、私の名誉を守るために解消する」
「お待ちください」
ミレイは一歩前へ出た。
「地図院の保管庫にある原図を、もう一度調べさせてください。ノクタ村の名は、私が勝手に付けたものではありません」
「まだ言うのか。地図にないものは、存在しない」
カシェルは薄く笑った。
「それが名録地図の決まりだ。地図にない村をあると言い張るのは、王国の制度を侮辱する行為だよ」
壇上の審査官たちも、顔を見合わせている。誰もミレイの側に立とうとはしなかった。地図院の筆頭監査官は、カシェルの父と長年取引をしている人物だ。
ミレイは手のひらを握りしめた。爪が皮膚に食い込む痛みだけが、足元を支えてくれる。
婚約を失うことは、怖くなかった。カシェルの隣にいるために、自分の仕事を諦めるつもりはなかったからだ。
けれど、地図から消された土地に住む人々まで、存在しないことにされるのは耐えられない。
「では、最後にこの地図を確認させてください」
ミレイは、書記官から空白の地図を受け取った。
羊皮紙は冷たかった。インクの匂いに、油と鉄を混ぜたような異質な苦みがある。白く塗りつぶされた箇所へ指を近づけると、耳の奥で音が弾けた。
――ノ、ク、タ。
今度は、はっきり聞こえた。
音は一つの名前になり、名前は遠い夜の灯りになった。森に囲まれた斜面。細い煙。雪の下で凍らずに流れる小川。そして、誰かが戸口からこちらを見ている気配。
ミレイは顔を上げた。
「ノクタ村はあります」
広間が静まり返った。
「私は地名を作ったのではありません。消された地名を、聞き取っただけです」
カシェルの眉がわずかに動く。だが、すぐに嘲笑へ戻った。
「聞き取った? 令嬢の幻聴を、王国の地図に載せろと?」
「幻聴かどうかは、現地を調べればわかります」
ミレイは空白の上に、持っていた鉛筆で小さく線を引いた。山の稜線。古い街道から分かれる、消された道の入口。
「調査を申請します。私が責任を持って、ノクタ村の住民と境界を確認します」
「却下する」
答えは早かった。
「本日の裁定は、君の申請を虚偽と認定する。婚約破棄も承認しよう」
木槌が鳴る。
その音と同時に、カシェルはミレイの手から地図を奪った。彼は紙を二つに裂き、さらに四つに裂いた。白い切れ端が、雪のように壇上へ散る。
誰かが息をのんだ。
けれどミレイの耳には、別の音が届いていた。
裂けた余白の奥から、もう一度、土地の声がする。
ノクタ。
その名は、消えたのではない。呼ばれるのを待っている。
ミレイは足元の切れ端を拾い上げた。指先に触れた紙は震え、遠く北の方角から、かすかな鐘の音を返した。
「必ず、地図へ戻します」
誰に向けた言葉なのか、自分でもわからなかった。
広間を出ようとしたとき、正面の扉が開いた。
黒い外套をまとった大柄な男が、吹き込む冷気とともに入ってくる。銀灰色の瞳が、壇上に散った地図の切れ端と、ミレイの手元を順に見た。
北境伯ローデン・ヴァルク。
彼はミレイの前で足を止め、低い声で言った。
「その村を、探せるか」
ミレイは、裂けた地図を胸に抱いた。
「探すのではありません。そこにあると、証明します」




