失われた証拠を追う道
南の旧街道は、夜の森に呑まれかけていた。
ローデンの馬が先を駆け、ミレイとトゥーリは後ろの荷馬車に乗った。車輪が石を跳ねるたび、革箱の空洞が胸の奥まで響く。そこにあったはずの原簿は、母の手とノクタの最初の名を抱えたまま、誰かの手に渡っている。
「前に出すぎるな」
振り返ったローデンが言った。
「追いつかなければ、原簿を燃やされます」
「だからこそ、君まで失うわけにはいかない」
短い言葉だった。けれどミレイには、それが伯爵令嬢への気遣いではなく、仕事仲間を欠かせたくないという意味に聞こえた。
「私も、あなたを失うつもりはありません」
言ってから、少しだけ顔が熱くなる。ローデンは何も返さなかったが、手綱を握る指がわずかに強くなった。
前方の闇に、馬の蹄音が重なった。護衛の一人が追いつき、道の先に車輪の跡が二本あると告げる。ひとつは旧街道をそのまま南へ向かい、もうひとつは森の奥へ折れていた。
「標章の男は、どちらへ?」
「南です。最初に見た馬は、確かに大通り側へ走りました」
トゥーリが荷台から身を乗り出した。
「それは囮かもしれない。地名の歌では、鐘のない道へ行く前に『鈴鳴りの野を越え』るの。野を避ける道は、昔の人は道として数えなかった」
ミレイは二つの轍に手をかざした。湿った土に残る魔力は、土地の記憶を薄く映す。南へ向かった轍からは、宿場の名と、急いで閉じた門の音が聞こえた。森へ折れた轍には、古い木橋、崩れた石柱、そして紙を包む布が擦れる音があった。
「森です。原簿を運んだ馬車は、こちらへ入りました」
ローデンは即座に馬首を向けた。
「君の聴き取りは、どの程度確かだ」
「地名ほど明瞭ではありません。でも、誰かがこの道を『帰り道』と呼びました。荷を運ぶ人間の記憶が残っています」
「十分だ」
枝が頬を打つ細道を進むと、灰白樹の影が見えた。葉の落ちた幹が月明かりを弾き、その根元に古い石柱が横たわっている。表面を覆う苔を払うと、消された文字の溝が現れた。
ミレイが指先を触れた瞬間、冷たい音がした。
ノクタ。
その名の下に、東へ伸びる細い線と、かつての測量院を示す印が刻まれている。
「ここが分かれ道だよ」
トゥーリが囁いた。「歌の『帰り道を選ぶ』は、村へ戻る道じゃない。測量所へ戻る道のことだったんだ」
石柱の脇には、ひとつだけ新しい蹄跡があった。三人は森を抜け、崖下の廃測量所へ急いだ。
建物の前に、王立地図院の標章をつけた男が倒れていた。馬はつながれておらず、荷車だけが斜めに止まっている。ローデンが剣を抜き、護衛に周囲を探らせた。
「原簿はどこだ」
男の懐から、震える声が返った。
「もう、ここにはない。俺は運べと言われただけだ」
「誰に?」
「ドレイン家の印を持った……書記だ。俺が見たのは革箱だけで、中身は知らない」
ミレイは男の荷車へ近づいた。床板に銀灰色の粉が散り、隅には白い布が丸めてある。だが、革箱はなかった。
廃測量所の扉を開けると、室内の机に一冊の本が置かれていた。革表紙、真鍮の留め具。母の原簿と同じ形だ。
ミレイは息を呑み、手を伸ばした。
聞こえたのは、母の筆の音ではなかった。乾いた紙が裂ける音と、誰かが笑う声。そして、偽りの地名を何度も書き写す筆先の音。
「偽物です」
留め具を外すと、中にはノクタの地図を模した粗雑な写しが綴じられていた。村の畑は荒地に、住民の名は空欄にされている。原簿を奪った者が、こちらを混乱させるために置いたのだ。
その最後の頁に、一枚の紙が挟まっていた。
――原本を返してほしければ、明日の地図会で自分の虚偽を認めろ。拒めば、次に消えるのは村人の名だ。
署名はない。だが、紙の端に押された青い蝋印を見て、ローデンの表情が険しくなった。
「カシェルだ」
「まだ原本を持っているのでしょうか」
「少なくとも、持っていると思わせたい」
ミレイは偽物の頁をめくった。最後の地図には、ノクタから王都へ向かう新しい交易路が赤く引かれている。その線は村の井戸を避け、北境伯領の森を切り取るように伸びていた。
利権のための道。その計画が、原簿を消す理由と一本につながる。
「証拠は失われていません」
ミレイは紙を折り、胸元へしまった。「原簿そのものは奪われました。でも、彼らが何を欲しがっているかは、これで示せます」
ローデンは彼女の手元を見てから、静かに頷いた。
「ならば明日、原本がなくても地図会へ行く」
「原本を取り戻す道も探します」
「ああ。道は、消されたことを覚えている」
外で、夜明け前の風が森を渡った。トゥーリが石柱の裏から、小さな金属片を拾い上げる。王立地図院の書記が使う封印具の一部だった。
その表面には、ドレイン家の紋章が刻まれている。
失われた原簿を追う道は、王都へ戻る道と重なった。ミレイたちは偽物の地図と封印具を手に、まだ暗い空の下で馬車を返した。
明日の大地図会で、誰が先に真実を地図へ描くのか。残された時間は、もうなかった。




