地図会の前夜に消えた原本
ノクタを出る朝、空は薄い灰色だった。
広場に掲げた地図を村の集会所へ移し、王都へ送る写しを三部に分けた。一部は村に残し、一部は北境伯の砦へ届ける。三部目を、ミレイたちが王都の地図会へ持っていく。
そして、母の原簿だけはミレイの手元にあった。
革張りの箱に収め、二重の封を施している。ローデンの家の紋章と、地図会へ提出するための仮封印。箱の中には、イレナ・アウレルがノクタの名と住民の記録を書き込んだ、たった一冊の原本が眠っていた。
「写しが残っているなら、原本まで持ち歩く必要はないのでは?」
砦から同行する書記が尋ねたとき、ミレイは箱の上へ手を置いた。
「原本にしかない筆圧や、紙に残った魔力の層があります。母がいつ、どの順で記録したのか。それを確かめられるのは、この一冊だけです」
「ならば、何より厳重に扱う」
ローデンはそう言い、箱を自分の荷馬車へ積んだ。鍵をかけたあと、鍵そのものをミレイに渡す。
「私が持つのですか」
「君が原本を読む専門家だからだ。俺は守る。保管場所を決めるのは君に任せる」
その言葉に、胸の奥が少しだけ軽くなった。守られるだけの令嬢ではなく、判断を委ねられた地図師としてここにいる。その事実を、鍵の重みが教えてくれた。
トゥーリも一行に加わった。彼女は荷車の後ろに座り、村人たちが見えなくなるまで手を振り続けた。ノクタの灯りが森の向こうへ消えてからも、地名の歌を小さな声で繰り返している。
道中、目立った異変はなかった。
関所ではローデンの身分証が効き、王都へ向かう旅人たちの列を横目に進めた。宿場では、地図会の開催を知らせる掲示が出ていた。明日の朝、大地図会が始まる。王立地図院の大広間で、ノクタの存在を正式に訴えるのだ。
夕刻、一行は王都北門から少し離れた宿に入った。石造りの小さな宿だったが、ローデンは部屋を二つ借り、窓と廊下の両方に護衛を置いた。
「ここまで来れば、明日の審査に間に合います」
ミレイが言うと、ローデンは頷いた。
「間に合う。だからこそ、今夜が一番危険だ」
彼の言葉どおり、夕食の途中で宿の主人が一枚の書状を持ってきた。
「王立地図院からの至急確認だそうです。北境伯閣下と、地図師ミレイ様へ」
書状には、地図院の紋章が押されていた。明日の提出物について、今夜のうちに原本の封印を確認したいという内容だ。
ローデンは封を切らず、書状を裏返した。
「差出人の名がない」
「使いの方は、下で待っていると」
「誰も通すな」
低い声に、宿の主人の顔がこわばる。ローデンは護衛へ指示を出し、ミレイとともに部屋へ戻った。
革箱は、ミレイが鍵をかけた小卓の引き出しに入れていた。扉の前には護衛がいる。窓の外には夜番の兵が立っている。封印も、鍵穴も、見たところ傷はなかった。
それでも、ミレイは部屋に入った瞬間に違和感を覚えた。
空気が、妙に冷たい。
「箱を開けます」
鍵を差し込む。金具が鳴る。封蝋を割り、蓋を持ち上げた。
中にあるはずの原簿が、なかった。
代わりに、白い布が一枚だけ敷かれている。革箱の底に、細い銀灰色の粉が散っていた。
「……いつ」
声が喉に張りついた。
ローデンが箱を取り上げ、底と蓋の内側を確かめる。封印は外から破られていない。鍵も、ミレイが持っていたものしか使えないはずだった。
「俺の責任だ。警戒を――」
「違います」
ミレイは首を振った。
「これは、鍵を開けて持ち去ったのではありません」
彼女は箱の底へ指を触れた。冷えた木の奥から、土地の名ではない、紙の記憶がかすかに響く。
母の筆。原簿の頁をめくる音。誰かが、箱の中へ手を入れた瞬間の震え。
そして、聞き慣れない短い言葉。
「返送。旧街道。鐘のない分かれ道……」
ミレイが呟くと、トゥーリが顔を上げた。
「鐘のない分かれ道って、どこ?」
「知っているのか」
ローデンが問う。
トゥーリは歌の節を指で数えた。
「地名の歌の三番目。『鈴鳴りの野を越え、鐘のない道へ。灰白樹の影で、帰り道を選ぶ』って歌うの。昔の荷車道だよ。今の大通りより南を通る」
ローデンは机の上の書状を見た。封蝋の紋章は本物に見える。だが、紙の端には、ノクタの原簿を包んでいた布と同じ銀灰色の粉が付着していた。
「使いはまだ宿にいるかもしれません」
「いや」
窓辺の護衛が駆け込んできた。
「裏口から馬が一頭、出ました。王立地図院の標章をつけた男です。北門ではなく、南の旧街道へ向かっています」
ローデンの目が鋭くなる。
「追う」
「明日の地図会は?」
「原本がなくても、写しと証言はある。だが、原簿を持つ者を逃がせば、母君の署名もノクタの最初の記録も消される」
彼はミレイを見る。
「君は残るか、来るか」
問いは命令ではなかった。危険を承知で選べ、という仕事の問いだった。
ミレイは革箱を閉じ、鍵をローデンへ返した。
「行きます。原本は、私たちが見つけたノクタの道を知っています」
トゥーリがすぐに立ち上がる。
「私も案内する。鐘のない分かれ道なら、歌より先に見つけられるよ」
外では、夜の蹄音が遠ざかっていた。
地図会の前夜、空白を埋めるはずだった原本が消えた。
けれど、地図から消された村の歌は、まだ誰の手にも奪えない。ミレイたちは灯りを消し、南の旧街道へ向けて走り出した。




