↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
空白地図の令嬢は、辺境伯と名もなき村を描き直す  作者: 銀細工ナギ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
15/20

偽物の地図と最後の脅し

 王都へ戻る街道に、朝の鐘が鳴っていた。


 馬車の揺れに合わせて、ミレイの膝の上で偽物の地図がかすかに震える。ノクタの畑を荒地に塗りつぶし、住民の名前を空欄にした地図。その余白には、村を避けるように見せかけた赤い交易路が引かれている。だが実際には、北境伯領の森と鉱脈をまとめて切り取る線だった。


 隣に座るローデンは、窓の外を見たまま言った。


「地図会の前に、相手が仕掛けてくる」


「原簿を持っていると見せて、私に罪を認めさせるつもりですね」


「それだけではない。君が撤回すれば、ノクタは捏造だと確定する。復縁まで受け入れれば、君の発言をドレイン家の管理下に置ける」


 ミレイは偽物の最後の頁を押さえた。胸の内側に、冷たい指が触れたようだった。


「私が誰かの婚約者に戻れば、地図師としての言葉ではなく、ドレイン家の言葉になる」


「そういうことだ」


「では、なおさら断ります」


 ローデンがこちらを振り向いた。灰色の瞳に、わずかな安堵が浮かぶ。


「迷わないのか」


「迷っています。怖くないわけではありません。でも、母が残した署名まで偽物にされるのを、黙って見ているほうが怖い」


 向かいの席で、トゥーリが小さな袋を抱え直した。廃測量所で拾った金属片と、偽の地図の写しが入っている。


「ミレイ、青い蝋印の紙は、まだ持ってる?」


「ええ。脅しの文面も、封印具も、偽物の地図もあります」


「だったら、嘘をついた人の道が、三本も見えるね」


 ミレイはその言葉に、はっとした。偽の地図はノクタを消すための証拠ではない。誰が、どんな意図で、何を消そうとしたかを描いた証拠だ。原簿がなくても、改竄の手順と利権の線は示せる。


 王都の門をくぐると、待ち構えていた役人が馬車を止めた。王立地図院からの召喚状だった。ミレイにはその場で同行するよう命じ、ローデンには北境伯としての席を用意したという。


「本日の午後、臨時審査を開く。ドレイン家から新たな証拠が提出された」


 役人の声は事務的だったが、視線はミレイの胸元に隠した紙へ落ちていた。


 地図院の大講堂に入ると、すでに多くの貴族と書記が集まっていた。正面の高壇には、カシェルが立っている。かつて婚約者として隣にいた男は、濃紺の上着に銀の飾りをつけ、まるで自分こそが被害者であるかのように眉を下げていた。


「ミレイ。ようやく戻ったか」


「あなたが呼んだのでしょう」


「違う。王国の秩序が、君の虚偽を正すために呼んだのだ」


 カシェルが合図すると、二人の書記が大きな羊皮紙を広げた。ノクタの位置に、荒れた土地を示す斜線が引かれている。地図の端には、ミレイの母イレナの名が記されていた。


「これがイレナ・アウレルの調査記録だ。彼女はノクタを村として認めていない。娘のミレイが後から地名を作り、北境伯を巻き込んで王立地図院を欺いたのだ」


 ざわめきが広がった。


 ミレイは紙を見つめた。母の筆跡に似せてある。けれど、文字の払いが一箇所だけ不自然だった。地名聴きの力を使うまでもない。母は「認めていない」のではなく、「認めさせようとしている」と書く人だった。


「それは母の記録ではありません」


「筆跡まで否定するのか?」


「筆跡ではなく、紙が覚えている音を聞きました」


 会場の空気が揺れた。ミレイは高壇へ歩き、偽造された記録の端に指を置いた。聞こえたのは、母の声ではない。乾いた筆が同じ文字をなぞり、誰かが『署名だけ似せれば足りる』と囁く音だった。


「これは、母が書いた紙を写したものです。原本ではありません」


「証拠のない力自慢だな」


 カシェルは笑った。そして、誰にも聞こえないほどの声で続けた。


「撤回しろ。ノクタは存在しない、母の記録も私の判断に従ったものだと認めるんだ。そうすれば、婚約を戻してやる。君の家名も、地図院での席も守ってやれる」


 ミレイの指先が震えた。


「断れば?」


「今夜、村人の名簿を王都中にばらまく。空白地の住民だと知られれば、誰が彼らを守る? 辺境伯の兵が間に合うと思うか」


 最後の脅しだった。原簿を焼くのではなく、村人を法の外へ追いやる。カシェルは、地図が人の暮らしを守ることを知っているからこそ、その仕組みを逆手に取っていた。


 ミレイはローデンを見た。彼は立ち上がりかけていたが、目だけで制した。ここで剣を抜けば、相手の望む「暴れる辺境伯」という絵になる。


「ローデン様。今は、私に話させてください」


「分かった」


 短い返事が、背中を支えた。


「カシェル様。あなたは、私に撤回と復縁を迫りましたね」


「脅迫とは心外だ」


「では、同じ言葉を皆の前で言えますか」


 カシェルの顔から笑みが消えた。


 ミレイは青い蝋印の紙を取り出し、中央の卓へ置いた。続けて封印具の金属片、偽物の地図、そしてノクタの住民が一人ずつ描いた地図の写しを並べる。


「原簿は奪われました。ですが、奪った者は偽の原簿を置き、ドレイン家の印を残し、村を切り取る交易路まで描いた。これは私が作った物語ではありません。あなた方が残した手順です」


 書記たちが息を呑む。


「母の原本がなくても、ここにある紙は調べられます。インクも、蝋も、封印具も。明日の大地図会で、すべてを公開審査にかけます」


「明日まで原本が残っていると思うのか?」


 カシェルの声に、初めて焦りが混じった。


「思いません」


 ミレイは静かに答えた。


「だから、原本だけに真実を預けません」


 講堂の扉の外で、北境伯の護衛が一斉に動いた。ノクタから届いた証言の写しが、すでに複数の場所へ送られている。ひとつを燃やされても、すべては消えない。


 カシェルは舌打ちし、高壇を下りた。


「君は、私の隣に戻る最後の機会を捨てた」


「いいえ。私は、誰かの隣に戻るのではなく、自分の仕事へ戻るのです」


 彼が去ったあとも、講堂には重い沈黙が残った。


 ローデンが卓上の地図を見下ろす。


「明日は、君の力だけでは足りない」


「ええ。だから村人の声と、母の署名と、あなたの領地の記録を、同じ地図に載せます」


「私の記録も、疑われる」


「疑われたら、皆の前で確かめればいい。真実は、誰か一人の持ち物ではありませんから」


 窓の向こうで、夕暮れの王都が赤く染まっていく。偽物の地図に引かれた赤い線を、ミレイは新しい紙で覆った。


 明日、すべての道が集まる。


 その中央で、消された村の名を誰の声で読ませるのか。ミレイはもう、迷っていなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。