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ピアニストの浮気相手を助けるべく、妻は執刀医である私の両手を容赦なく砕いた  作者: 熾星


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タイトル未定2026/08/13 16:21

6.月城家の亀裂



 リサイタル会場の舞台裏で撮影された映像は、すぐにネットへ拡散した。最初は画質の悪い一本だけだったが、やがて違う角度から撮られた動画が次々と出てきた。


 月城文化財団が契約していた警備会社のスタッフが僕の動きを封じている場面。一ノ瀬がハンマーで左手を殴る場面。玲奈がそれを止めなかった場面。そして、僕を床に這わせていた場面。


 すべて残っていた。


 リサイタルはその日のうちに中止された。


 メディアは月城文化財団と月城ホールディングスに説明を求めた。月城ホールディングスは緊急の取締役会を開き、玲奈が当面、取締役としての職務執行を控えると発表した。警備会社も関係スタッフを勤務から外し、警察の捜査に協力すると発表した。


 月城文化財団も別途臨時の会合を開き、玲奈の理事としての職務を停止した。


 もちろん、それで終わりではなかった。


 警察は、なぜ民間警備会社の人間が個人的な夫婦問題に介入していたのかを調べ、監視カメラ映像や通信記録も押収した。僕に届いた脅迫めいたメールも、弁護士を通じて証拠として提出された。


 捜査の過程で、玲奈が個人的なつながりを使い、僕の勤める病院の人事情報や医療安全上の調査手続きについて探ろうとしていたこともわかった。


 それまで月城家の内部に積み上がっていた問題まで、一気に表へ出た。複数の取引先が案件を一時停止し、文化事業のスポンサーも関係の見直しを求めた。金融機関は融資条件を再検討し、以前から創業家による経営への過度な介入を問題視していた機関投資家も、経営陣の刷新を求め始めた。


 株価は下がり続けた。


 数か月後、義父は代表取締役を辞任した。


 月城家はなお一定の株式を保有していたが、上場企業を一族の所有物のように扱うことは、もうできなくなっていた。


 玲奈から最初に電話がかかってきたとき、僕は出なかった。二度目も、三度目も出なかった。


 最後には番号ごと着信拒否にした。


 玲奈は僕が以前勤めていた大学病院へ行ったらしい。しかし病院側は、僕がどこへ入院しているのか教えなかった。彼女はそのまま帰るしかなかった。


 一ノ瀬が玲奈を見限ったのは、さらに早かった。


 リサイタルが中止になった日、彼は舞台裏の化粧台を荒らし、譜面を床へ投げ散らかした。玲奈は初めて、すぐには彼をなだめに行かなかった。


「どうして、こんなことに……」


 一ノ瀬が勢いよく振り返る。


「僕に聞くの?」


「直人のことをもっと早く片づけてれば、今日だってあいつが乗り込んでくることはなかっただろ!」


 玲奈は彼を見つめた。


「左手を殴ったのは、奏真でしょう」


 一ノ瀬が鼻で笑った。


「右手を先に潰したのは玲奈じゃないか」


 部屋の空気が止まった。


 義父もそこにいた。


 しばらく黙っていたが、とうとう口を開いた。


「出ていけ」


 一ノ瀬が眉をひそめる。


「何?」


「今日限り、月城家から君への支援は打ち切る」


 一ノ瀬は数秒黙り、それから笑った。


「じゃあ、それでいいですよ」


 玲奈から贈られた腕時計を外し、机の上へ放り投げた。


「僕を支援したい人なんて、ほかにもいくらでもいるんで」


 彼はあっさり出ていった。


 一度も振り返らなかった。


 玲奈はそこに立ったまま、突然、三年間の暮らしを思い出したらしい。


 僕は当直明けでも、彼女が翌朝飲むコーヒーの準備をしていた。光熱費や保険、家のさまざまな手続きも、ほとんど僕が済ませた。彼女の両親の健康診断も、時期が来れば僕が予約していた。


 玲奈が体調を崩せば、夜が明けるまでベッドのそばにいた。


 玲奈は、それらを特別なことだと思ったことがなかった。


 僕があまりにも長く続けていたからだ。


 いつの間にか、誰かがしてくれて当然のことになっていた。


 一ノ瀬は月城家を離れると、すぐに別の支援者を見つけた。芸能会社を経営する資産家の娘だった。


 彼はSNSに声明を出し、自分は長い間「創作に悪影響を与える人間関係」に置かれていた、これからは音楽だけに集中したい、とだけ書いた。まだ彼を支持する人もいたが、疑問を呈する声も急速に増えていった。


 『舞台裏の動画が本物なら、もうただの男女トラブルじゃないだろ』


 『芸術家が不調だからって、人を傷つけていい理由にはならない』


 『とりあえず警察の正式発表待ちかな』


 玲奈はその投稿を長い間見つめたあと、一ノ瀬の新しい住まいへ向かった。


 ドアを開けたのは、新しい支援者だった。


「月城さん?」


 玲奈は玄関前に立ったまま答えた。


「奏真に会いたいの」


「奏真、会いたくないって」


「出てくるように言って」


 すぐに部屋の奥から声がした。


「玲奈、もう帰ってよ」


 玲奈の体が固まる。


「ちゃんと話しましょう」


 数秒の沈黙。


 一ノ瀬が笑った。


「今さら何を話すの?」


「玲奈、もう財団の仕事すらないじゃん」


 玲奈の顔から血の気が引いた。


「私、あなたのためにあれだけ……」


「それ、玲奈が勝手にやったことだろ」


 そのひと言で、玲奈の最後の幻想は砕けた。


 必要なときには、一ノ瀬は玲奈を「世界で唯一、自分を理解してくれる人」だと言った。


 何かが起きれば、最初に捨てる相手も玲奈だった。


 そして三年間、本当に彼女と暮らしてきた夫の右手を壊したのは、玲奈自身だった。




7.遅すぎた離婚届



 半月後、僕はようやく玲奈と会った。


 事前に弁護士を通して、離婚と民事上の賠償について正式に話し合う意思があると伝えていた。


 場所は病院の面談室だった。榊原さんはその日、藤堂さんの治療に関する書類を診療科へ届けに来ていて、まだ近くにいた。


 玲奈は、記憶にある姿よりかなり痩せていた。


 僕の両手にまだ固定具がついているのを見て、足が止まる。


「直人……」


 僕は何も返さなかった。


 玲奈はテーブルの前に座った。弁護士が用意した離婚届や関係書類はすべて並べられていたが、彼女は見ようともしなかった。


「私が悪かった」


「もう一度、やり直せない?」


 僕は顔を上げた。


「何をやり直すんだ?」


 玲奈の唇が少し動いた。


「家に帰ろう」


 僕は彼女を見る。


「どの家に?」


 玲奈の顔から血の気が引いた。


「君の指示で床に押さえつけられて、右手を潰されたあとも、僕が住み続けていたあの家か?」


 玲奈がうつむいた。


「あのときは、本当に……」


「もういい」


 テーブルのタブレットを開いた。


 弁護士が整理した証拠が入っている。リサイタル会場で僕が床に膝をつき、一ノ瀬のハンマーが振り下ろされる映像。そして警察が住宅の防犯システムから復元した過去の映像。


 玲奈自身が、最初のハンマーを僕の右手へ振り下ろしていた。


 僕は映像を止めた。


「右手を潰したのは玲奈だ」


「左手が潰されたとき、君はその場にいた」


「母の遺したものを一ノ瀬に渡したのも君だ」


 玲奈は何も言えなかった。


 僕は離婚届を彼女の前へ押した。


「協議離婚なら、離婚届を正式に提出する必要がある」


「証人二人については弁護士が調整してくれる」


「同意しないなら、家庭裁判所に夫婦関係調整調停を申し立てる」


 玲奈が勢いよく顔を上げた。


「離婚なんてしない」


「なら、あとは弁護士を通す」


「直人、愛してるの」


 僕は玲奈を見た。


 胸の内には、もうほとんど波が立たなかった。


「玲奈が必要としてるのは、何をしても最後には許して、全部引き受けてくれる男だ」


 少し間を置く。


「もう、僕はその男にはならない」


 玲奈の目が赤くなった。


「本当に、もう一度もチャンスをくれないの?」


 僕は答えなかった。


 面談が終わる前に、弁護士からも明確な説明があった。


 離婚手続きと刑事事件は別だ。玲奈が離婚届に署名するかどうかにかかわらず、傷害や強要、警備員による身体拘束などについての捜査は続く。


 玲奈は長い間座っていた。


 やがてペンを取り、自分の名前を書いた。


 成人二人の証人署名もそろい、離婚届は正式に提出された。


 受理されたあと、僕は婚姻前の姓へ戻った。


 神谷直人。


 自分の名前が、こんなにも軽く感じられたのは久しぶりだった。




8.天才の「涅槃」



 その頃、警察は傷害事件の捜査の一環として、一ノ瀬の住居から母の手稿を回収していた。


 僕の手元へ戻ってきたときには、表紙が少し擦れていた。後半には、一度抜き取られ、あとから戻されたらしい譜面が何枚か挟まっていた。


 そのうちの一曲には、「涅槃」と書かれていた。


 僕は長い間、その譜面を見つめた。


 母は生前、一度もこの曲を公表していない。


 ところが一か月前、一ノ瀬はメディアの前で、「涅槃」は半年間の創作期間を経て完成させた自分の新作だと発表していた。


 弁護士側は、母が残した過去の原稿、紙や筆跡に関する資料、昔の家族写真に偶然写り込んでいた譜面、そして僕が以前保存していた一部のスキャンデータを整理した。


 この曲は、何年も前から存在していた。


 一ノ瀬の言う「新作」は、彼の作品ではなかった。


 事実が明るみに出ると、最初に動いたのは発売元だった。「涅槃」の販売と配信は停止され、予定されていたツアーも次々と中止になった。過去に参加したコンクールや公演関係者も、作品の出所について再調査を始めた。


 所属事務所は、その後すぐに契約解除を発表した。


 ネット上の空気も一変した。


 『原曲って、本当に亡くなった作曲者の作品だったの?』


 『未発表曲を自分の名前で出してたなら、話が全然違う』


 『傷害事件と作品の問題は分けて考えるべきだけど、どっちもかなり重いな』


 一ノ瀬は、それまで自分を囲んでいた舞台もスポンサーも、メディアからの華やかな評価も急速に失っていった。


 警察と検察はリサイタル会場での傷害事件について捜査を続け、作品に関する著作権、商業利用、契約上の責任については別の手続きが進められた。


 玲奈も、何事もなかったように元の生活へ戻れたわけではない。


 捜査を経て、彼女は自ら関与した傷害や強要などで起訴され、裁判所から有罪判決を受けた。


 刑の内容については、玲奈自身が行った行為、事件への関与の程度、賠償の状況などが総合的に考慮された。いずれにせよ、取締役の地位を失っただけでは終わらない長期的な代償を背負うことになった。


 一ノ瀬の傷害事件も同じように司法手続きへ進んだ。


 裁判所の廊下で玲奈を見つけたとき、一ノ瀬は突然取り乱した。


「全部お前のせいだ!」


 玲奈はその場に立ち尽くしていた。


「お前があんな手稿を僕に渡さなければ、こんなことになってない!」


 玲奈は何も言わなかった。


 そこまで来てようやく、その言葉が何を意味しているのかわかったのだろう。


 玲奈が何気なく別の男へ渡したものは、夫の母親の形見というだけではなかった。


 亡くなった一人の人間が何十年も積み上げてきた仕事と音楽と人生が、その中に残されていた。


 そして、それを他人へ渡したのは玲奈自身だった。


 月城ホールディングスも、数か月にわたる司法上の問題、株価の下落、取引停止、取締役会内部の対立によって大きな打撃を受けた。


 義父は経営の実権を失い、債務や訴訟への対応のため、個人資産の一部も処分された。東京にあった以前の邸宅も手放した。


 玲奈は会社の取締役と文化財団の理事という立場を失い、刑事事件が終わったあとも民事上の賠償や、失った社会的信用と向き合わなければならなかった。


 その後、彼女は埼玉の通勤路線沿いにある古い1Kのアパートへ移った。小さなキッチンがあり、風呂とトイレも限られた空間に押し込められているような部屋だった。夜になって周囲が静まると、薄い壁越しに隣室のテレビの音まで聞こえた。


 家賃や光熱費、翌月の生活費を真剣に計算しなければならなくなったのは、玲奈にとって初めての経験だった。


 刑事事件に関する過去の記事は、名前を検索すれば今でも簡単に出てくる。


 就職活動は思うようにいかなかった。


 結局、彼女はファミリーレストランの厨房でアルバイトを始めた。


 それでも一度、僕に会いに来たことがある。


 リハビリテーションセンターの外で、長い時間待っていたらしい。その日、偶然中から出てきた榊原さんを見て、玲奈はすぐに立ち上がった。


「直人に、一度だけ会わせてください」


 榊原さんが足を止める。


「神谷先生から伝言を預かっています」


 玲奈は彼女を見つめた。


「何て?」


「何があってもあなたのところへ戻ろうとしていた昔の自分は、もういない、と」


「今はただ、治療と生活をこれ以上邪魔しないでほしいそうです」


 玲奈は動かなかった。


 それでも中へ入ろうとし、病院の警備員に止められた。


 リハビリ室のガラス越しに、僕の姿が見えたらしい。


 両手の固定具はもう外れていた。しかし指先はまだ思うように動かない。作業療法士の指導を受けながら、小さな訓練用のビーズを一つずつつまみ、決められた位置へ移していた。


 一セット終えたところで、誰かが何かを言った。


 僕は笑った。


 ガラスの向こうに立つ玲奈は、その表情を見ながら、ずっと昔のことを思い出していた。


 かつて僕も、あんなふうに彼女を見ていた。


 あの頃の玲奈は、愛情というものが本当に尽きる日が来るなんて、考えたこともなかったのだろう。


 数年後、日本の医学界で新たな臨床研究成果が発表された。


 僕が中心メンバーの一人として参加した心臓血管外科チームは、複雑大動脈病変に対する総合的な治療体系をまとめ、長期追跡結果を公表した。


 そして僕も、ようやく再び手術台へ戻った。


 執刀医として復帰した最初の日、手洗い場で自分の両手を眺めた。


 右手の中手骨には薄い手術痕が残っている。


 左手も、受傷前と同じ可動域には戻っていなかった。


 手術が終わったあと、僕は一人で更衣室に座った。


 自分の手を見下ろす。


 そして、ゆっくり握った。




9.彼女が失ったすべて



 同じ頃、街の反対側では、玲奈がファミリーレストランの厨房で油にまみれた皿を洗っていた。


 休憩スペースのテレビから、医学関連のニュースが流れていた。


 顔を上げた玲奈の目に、白衣を着た僕が映った。


 僕はチームのメンバーたちと一緒に立っていた。


 インタビューが終わる頃、梓が画面の端から歩いてきて、一枚の書類を僕へ渡した。


 僕は彼女に軽くうなずいた。


 玲奈は皿を持ったまま、長い間動かなかった。


 ずっと昔のことを思い出していた。


 僕もかつて、あんな穏やかな目で玲奈を見ていた。


 仕事を終えると、玲奈は狭い1Kの部屋へ帰った。


 テーブルの上には古い新聞が一部置かれていた。


 社会面の片隅に、一ノ瀬の事件のその後を伝える記事が載っている。


 玲奈はしばらく眺めてから、新聞を折り畳んだ。


 この頃になって、ようやくわかったのだろう。


 自分が失ったのは、夫一人ではなかった。


 人生の中で最も大切な場所を、かつて自分のために空けてくれていた人を失ったのだ。



 その頃、僕は夕日の差し込むピアノ室にいた。


 窓際には、年季の入ったピアノが置かれている。


 僕の指が白と黒の鍵盤に触れた。


 まだ少しぎこちない。


 それでも、流れている旋律は間違いなく「涅槃」だった。


 母の「涅槃」。


 梓がコーヒーを二杯持って部屋へ入ってきた。


 僕の後ろで足を止め、しばらく演奏を聞いている。


「先月より、ずっとよくなったね」


 僕は手を止め、振り返った。


「本当に?」


「うん。少なくとも今は、最初から最後までちゃんと一曲に聞こえる」


 思わず笑ってしまった。


「ハードル、低すぎない?」


 梓も笑った。


 僕はピアノの蓋を閉じて立ち上がる。


「夕飯、何が食べたい?」


 彼女は少し考えた。


「肉じゃが」


「わかった」


 夕日が鍵盤に落ち、僕の手の甲に残る傷痕も照らしていた。


 傷は今も残っている。


 忘れることもない。


 けれど、もうその傷が僕の人生を決めることはない。


 母が遺した旋律は、今も続いている。


 僕の人生も、同じだった。


 ――完――




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