ピアニストの浮気相手を助けるべく、妻は執刀医である私の両手を容赦なく砕いた
プロローグ
ドイツの大学病院で二年間の研究留学を終え、東京へ戻ってきたとき、妻のそばには見知らぬ男がいた。
僕はもともと神谷直人という。東京の私立大学病院で心臓血管外科の講師を務める、心臓血管外科専門医だ。結婚するときに妻の姓である月城を選んだため、戸籍上は月城直人になったが、病院や学会では以前から使っていた「神谷」の姓をそのまま使用している。そのため、同僚も患者も今までどおり僕を「神谷先生」と呼んでいた。
妻の玲奈は月城家の娘だ。月城ホールディングスは東京証券取引所に上場する大手企業グループで、玲奈の父は代表取締役会長を務めている。玲奈自身も取締役であり、グループが長年支援してきた月城文化財団の理事でもあった。
僕たちの夫婦関係がおかしくなり始めたのは、一ノ瀬奏真が現れてからだった。
一ノ瀬は二十九歳。ここ二年ほどで一気に名を上げた若手ピアニスト兼作曲家だ。メディアは彼の両手を「天才の手」ともてはやし、月城文化財団は彼の主要スポンサーになっていた。そのプロジェクトを担当していたのが玲奈だった。
皮肉なことに、一ノ瀬の目元は若い頃の僕にどこか似ていた。
1.
その日の午後、僕は三度目となる彼の練習室を訪れた。財団が長期契約している部屋だった。深夜まで玲奈を練習につき合わせること。呼べばいつでも来るよう求めること。「調子が悪い」という理由で、僕たち名義のマンションに泊まり込むこと。スポンサー側の既婚女性と支援を受ける演奏家という関係を、とうに越えていた。
一ノ瀬はピアノの前に座ったまま僕の話を聞き終えると、突然、鍵盤を激しく叩いた。次の瞬間には椅子を蹴り倒し、譜面を引き裂き、自分の髪をつかんで壁に頭を打ちつけ始めた。玲奈が高額で購入したヨーロッパ製のアンティーク・グランドピアノまで、椅子をぶつけられて蓋が割れた。
玲奈が駆けつけたとき、一ノ瀬の額からはすでに血が流れていた。彼女は僕を見ることさえしなかった。
「奏真、やめて。こっちを見て」
財団が契約している警備会社のスタッフが数人駆け寄り、一ノ瀬を壁から引き離した。彼は全身を震わせながら僕を睨みつけた。その目だけを見れば、傷つけられたのは彼のほうにしか見えなかった。
「この人に、玲奈から離れろって言われた」
「玲奈まで僕が邪魔だと思ってるなら、もうピアノなんて弾かない。君がいないと、僕には弾けないんだから」
玲奈の表情が一瞬で変わった。冷えた目が僕に向けられる。
「直人、演奏前の奏真を刺激しちゃいけないって、わかってるでしょう」
「僕は、僕たちの結婚生活にこれ以上入り込むなと言っただけだ」
一ノ瀬が突然、両手を抱え込んだ。
「玲奈……手が震える」
そのひと言で、玲奈の顔色が変わった。彼女は警備員たちに僕を床へ押さえつけさせると、倒れた工具箱のそばから、備品修理用の小ぶりなハンマーを拾い上げた。
右手を床に押しつけられて、ようやく僕は彼女が何をしようとしているのか理解した。
「玲奈、やめろ」
ハンマーが持ち上がる。
「何度も奏真を追い詰めるからよ。少しくらい痛い目を見れば、もう忘れないでしょう」
ハンマーが振り下ろされた。
右手に爆発するような痛みが走り、視界が一瞬で暗くなった。病院で撮った画像では、右第2・第3・第4中手骨の骨折と診断された。
何度となくメスを握り、細い血管を縫合してきた手が、目の前でみるみる腫れ上がっていく。僕は床に伏したまま、まともに息をすることさえできなかった。
玲奈はしゃがみ込み、僕の右手を一度だけ見た。
「骨折なら治療できるでしょう」
「奏真が落ち着いたら、腕のいい手外科の先生を探してあげる」
僕は顔を上げた。
「僕は心臓血管外科医だ」
「知ってる」
「知ってて、この手を潰したのか?」
玲奈は少し黙った。
「奏真の手には、何かあったら困るの」
それ以上、何を言えばいいのかわからなかった。
一ノ瀬がピアノを弾くには、両手が必要らしい。
僕がメスを握る手は、どうやら必要ではないらしかった。
救急外来へ運ばれたあとも、僕はすぐには警察に被害を届け出なかった。玲奈を許したわけではない。玲奈側の弁護士や月城ホールディングスの関係者が病院の外に現れ、この件を表沙汰にするなら、夫婦喧嘩の映像も病院へ送ることになると何度もほのめかしてきたからだ。
映像には、長時間勤務が続いた時期に僕がコップを投げた場面や、術後の痛みで感情的になった場面も残っていた。都合のいいところだけを切り取れば、ただの夫婦喧嘩を「攻撃性に問題のある外科医」の映像に仕立てることくらいできる。
もちろん、玲奈に僕の医師免許を取り消す権限などない。まして、彼女の一存で精神科病院へ強制的に入院させることもできない。けれど、手術室に入り、全身麻酔下の患者や精密な医療機器を扱う医師にとって、医療安全上の正式な調査が始まれば、事実確認が終わるまで診療業務から外される可能性はある。
あの頃の僕には、まだこの結婚にほんのわずかな期待が残っていた。
だから黙った。
右手の整復と固定を終えて帰宅すると、金庫が開けられていた。母が残した手稿がなくなっていた。
母も生前は心臓外科医だった。その一方で、若い頃からピアノと作曲を学んでいた。分厚い手稿の前半には何十年分もの臨床上の考察や術式の着想が書き込まれ、後半には一度も世に出されなかったピアノ曲や室内楽の草稿が残されていた。
母が亡くなってから、まだ数年しか経っていない。作品の著作権も相続によって僕が承継していた。それ以上に、僕にとっては母が遺した何より大切なものだった。
玲奈と結婚する前、僕はその手稿を彼女に預けたことがある。隣に座った玲奈は一ページずつ丁寧にめくりながら、僕を大切にするのと同じように、これも大切にすると言った。
その手稿が今、一ノ瀬の手に渡っていた。
玲奈が口にした理由は一つだけだった。
「あなたのせいで奏真がピアノを壊したんだから、そのくらい弁償しなきゃ」
「母の形見だ」
「古い手稿一冊でしょう」
僕は長い間、彼女の顔を見つめていた。
これで三度目だった。
一度目は、一ノ瀬が練習室のドアを閉める音が気に障ったと言ったとき。言い争いになった玲奈は、灰皿を投げて僕の額を切った。二度目は、僕たちの結婚写真を見ると集中できないと一ノ瀬が訴えたとき。玲奈は家に飾ってあった写真をすべて片づけた。そして三度目。彼女は僕の右手を壊し、母の遺したものまで別の男に渡した。
四度目を待つ必要なんてなかったのだと、ようやくわかった。
一か月後、一ノ瀬のリサイタルの招待状が病室へ届いた。中には一枚のカードが挟まれていた。
『神谷先生のおかげです。新曲「涅槃」は、きっと僕の代表作になります』
その夜、一ノ瀬とリサイタルの最終準備をしていた玲奈から、ビデオ通話がかかってきた。
1.離婚しよう、玲奈
画面がつながると、玲奈はホテルのスイートルームにいた。薄いガウンを羽織り、少し離れた場所からはピアノの音が聞こえている。乱れた襟元を直してから、ようやく画面へ目を戻した。
「直人、もう拗ねるのはやめて」
「東京で手外科の先生をもう一度探しておいたから。ちゃんとリハビリを続ければ、機能が戻る可能性はあるって」
僕は画面を見つめた。
「必要ない」
玲奈が眉をひそめる。
「どういう意味?」
「自分の手のことは、自分でどうにかする」
部屋の奥でピアノの音が止まった。
僕は顔を上げた。
「玲奈、離婚しよう」
彼女は明らかに固まった。しかし、驚きはすぐに苛立ちへ変わった。
「いつまでこんなことを続けるつもり?」
「もうすぐ奏真のリサイタルなの。ツアーが終わってから話せばいいでしょう」
「僕が離婚したいことと、一ノ瀬のツアーは関係ない」
玲奈の表情が少しずつ冷えていった。
「月城家から離れても、病院で今までと同じようにやっていけると思ってるの?」
「医師免許は自分で取った」
少し間を置いた。
「今のポストだって、月城家の力で手に入れたものじゃない」
玲奈は黙ったあと、低い声で言った。
「研究費も、人脈も、病院の理事とのつながりも、全部なかったことにはできないでしょう?」
思わず笑ってしまった。
月城家から見れば、僕の実家など財界に何のつながりもない医師の家庭にすぎない。母がどれほど優秀な医師だったとしても、彼らにとっては「ただの医者」だった。結婚するときには玲奈の姓まで選んだ。そんな僕を見ているうちに、玲奈もまた、僕が持っているものの多くは月城家のおかげなのだと思い込むようになったのだろう。
画面の向こうから、一ノ瀬の声がした。
「玲奈」
彼女はすぐに振り返った。
「どうしたの?」
「誰と話してるの?」
「ちょっとした用事」
一ノ瀬は数秒黙った。
「僕と一緒にいるのに、別の人のこと考えてるんだ。そんなの、集中できないよ」
玲奈の声が一瞬で柔らかくなった。
「すぐ行くから」
そして再び画面へ向き直る。
「リサイタルには必ず来て」
「どうして?」
「奏真は、大事な公演に余計な問題を持ち込みたくないの」
僕は右手の固定具に目を落とした。
「この手が、その問題だろ」
玲奈の顔が険しくなった。
「これ以上逆らうなら、私にも考えがあるから」
通話が切れた直後、一通のメールが届いた。添付されていたのは、編集済みの家庭内映像だった。本文の最後には、一文だけ書かれている。
『これ以上、奏真を刺激するなら、この映像を病院の医療安全管理室と診療科長にも送ります』
僕は長い間、その文字を見つめていた。
これが、彼女が僕に残した最後の夫婦関係なのだと思った。
2.もう一方の手
一ノ瀬のリサイタル当日、僕は会場へ向かった。直接会って、すべて終わらせるつもりだった。
藤堂征一郎さんの容体がここ最近不安定だったため、科の医局秘書にはその日の居場所を伝えるようにしていた。出かける前にも、コンサートホールの住所と弁護士の連絡先を残した。急なカンファレンスが入ったとき、連絡が取れなくなるのを避けるためだった。
会場は都内の大きなコンサートホールだった。本番前には月城文化財団主催の小規模なレセプションが開かれ、VIPエリアには財団関係者やスポンサー企業、メディア関係者、月城家と付き合いのある人々が集まっていた。
入口には巨大な宣伝パネルが立っていた。一ノ瀬がピアノの前に座り、その後ろに玲奈が立っている。
どう見ても、二人のほうが夫婦らしかった。
右手はまだ固定されたままで、額の古い傷も完全には消えていなかった。玲奈は僕を見ると一瞬だけ足を止めた。
「来たなら、今日は余計なことしないで」
「奏真にとって大事な日なんだから」
そう言い残して、玲奈は舞台裏へ向かった。
義父と義母もそこにいた。彼らは昔から、財界に何の後ろ盾もない医師の家庭と月城家では釣り合わないと思っていた。それなのに一ノ瀬を見る目だけは、まるで自慢の息子を眺めるように優しい。
一ノ瀬は鏡の前に座り、両手を膝の上に置いていた。玲奈が入ってくると、すぐに顔を上げる。
「三分遅い」
玲奈は彼の隣に座った。
「途中で少し用事があったの」
「もうリズムが崩れた」
一ノ瀬が手を持ち上げる。
「また震えてる」
玲奈はその手を包み込んだ。
「どうすれば落ち着く?」
一ノ瀬は目を閉じた。
「ここにいて」
「静かにしてくれるだけでいい」
そう言うと、彼は玲奈の肩に額を預けた。周囲のスタッフは演奏用品を整理したまま、誰一人そちらを見ようとしない。こういう光景には、もう慣れきっているのだろう。義母など、スタッフに静かにするよう注意までしていた。
僕は入口に立ったまま、三年間しがみついてきたものが、急にひどく馬鹿らしく思えた。
一ノ瀬が目を開き、ようやく僕に気づく。
「神谷先生もいらしたんですね」
僕は彼を見た。
「離婚届は、もう弁護士に用意してもらってる」
それから玲奈へ視線を移した。
「玲奈が署名して、成人二人に証人欄を書いてもらえば提出できる」
一ノ瀬の表情が変わった。彼は玲奈のほうへわずかに身を寄せる。
「そんな言い方されたら、まるで僕が二人の結婚を壊したみたいじゃないですか」
義父がグラスを強くテーブルへ置いた。
「今日は奏真君のリサイタルだぞ」
「こんな日にわざわざ離婚の話を持ち出すとは、月城家に逆らって好き勝手できるとでも思っているのか?」
僕はもう言い返さなかった。
「今後は弁護士を通してください」
背を向けようとしたとき、一ノ瀬が小さく笑った。
「待ってくださいよ」
スタッフから上品なケースを受け取る。蓋が開いた瞬間、見覚えのある表紙が目に入った。
母の写真。
あの手稿だった。
体が凍りついた。
一ノ瀬は指先で表紙を軽く叩く。
「玲奈にもらったんです」
僕は彼に近づいた。
「返せ」
手を伸ばした瞬間、一ノ瀬は大げさに身を引いた。
「痛い……」
玲奈がすぐに彼との間へ割って入る。
「何するの?」
「それは一ノ瀬のものじゃない」
「奏真は今、大事な本番前なの。これ以上驚かせないで」
「母が遺した手稿だ」
玲奈の平手が頬に飛んできた。
熱い痺れが広がったが、僕は一歩も引かなかった。
「返せ」
一ノ瀬は右手を見下ろした。
「玲奈、今、手に触られそうになった」
玲奈が横へ目をやる。
警備会社のスタッフ二人が僕の肩を押さえ、もう一人が無傷だった左手をつかんだ。
そのとき初めて、本気で恐怖を感じた。
「離せ」
誰も動かなかった。
一ノ瀬がゆっくり近づいてくる。
「神谷先生、まだ左手は無事なんですよね?」
声は穏やかだった。
「そんなに自分の手のほうが大事だと思ってるなら、同じ条件にしたほうが公平じゃないですか」
3.彼女は止めなかった
一ノ瀬は舞台裏の工具箱からハンマーを持ってこさせた。必死に抵抗したせいで、右手の古い骨折箇所に裂けるような痛みが走った。
「玲奈」
彼女は僕を見なかった。
「僕は外科医だ」
「右手がどこまで戻るかもまだわからない。左手まで壊されたら、基本的な診療行為すらできなくなる」
玲奈がようやく目を上げた。
一瞬だけ、その瞳にためらいが浮かんだ。
一ノ瀬が突然うつむいた。
「また手が震えてきた」
玲奈はすぐに彼へ向き直った。
「大丈夫。怖くないから」
彼女は一ノ瀬の手を両手で包んだ。
再び僕を見たとき、その迷いは消えていた。
「今日あなたが来て騒がなければ、こんなことにはならなかったのよ」
僕は彼女を見つめた。
「だから、一ノ瀬に僕の左手を潰させるのか?」
玲奈は答えなかった。
誰にも、僕を離せとは言わなかった。
一ノ瀬がハンマーを振り上げる。
一撃目が左手の甲へ落ちた瞬間、意識が飛びかけた。骨の砕ける音が、信じられないほど近くで響いた。二発目が落ちてくる前に、僕は激痛で体を丸めていた。
VIPエリアから、ようやく止める声が上がった。スマートフォンでこっそり撮影する者もいれば、警察と救急へ通報する者もいた。
義父の顔色まで変わった。
「もういい、これ以上やるな!」
一ノ瀬はハンマーを放した。
「大丈夫ですよ。これから本番ですから」
左手から血が滲み続けていた。僕は床に膝をついたまま、玲奈を見上げた。
「僕を人間だと思ったこと、一度でもあるのか?」
彼女の表情が一瞬強張った。
「自分だけが被害者みたいな顔しないで」
「今日だって、あなたが奏真に突っかからなければ起きなかったことでしょう」
笑いが漏れた。
最後の最後まで、自分が被害者かどうかさえ、彼女に決めてもらわなければならないらしい。
一ノ瀬はまだ満足していなかった。
自分の革靴へ目を落とす。
「お祝いに来たんですよね。だったら、それらしい誠意くらい見せてもらわないと」
玲奈は止めなかった。
僕は再び床へ押さえつけられた。一ノ瀬は、自分の靴に謝れと言った。
僕は妻を見上げる。
「言うとおりにすれば、離婚届に署名するのか?」
玲奈の表情が固まった。
一ノ瀬が彼女へ顔を向ける。
「まだ別れたくないの?」
「そんなわけないでしょう」
一ノ瀬の口元に笑みが戻った。
「じゃあ、ここから舞台の端まで這っていって」
「犬みたいに三回吠えて、それから僕の靴をきれいにしてよ」
警備員たちに押されるようにして、僕は前へ進まされた。右手は固定され、左手はたった今ハンマーで砕かれたばかりだ。膝と前腕を使って、どうにか体を動かすしかなかった。
周囲も、さすがに何かがおかしいと気づき始めていた。会場を離れる者。撮影を続ける者。それでも月城グループとの関係を気にして、見て見ぬふりをする者も多かった。
舞台近くには、公演後に出る紙ごみやペットボトル、弁当容器などを入れるための大きな蓋付き回収ボックスが置かれていた。
一ノ瀬がそこを指さした。
「入って」
全身が固まった。
子どもの頃、狭い物置に誤って閉じ込められたことがある。それ以来、完全に閉ざされた空間がひどく苦手だった。玲奈は知っていた。大学時代、付き合い始めた頃に、最初に打ち明けた相手が彼女だったからだ。
突然、玲奈が口を開いた。
「もういい」
反射的に顔を上げた。
そんな状況でも、心のどこかで馬鹿みたいに期待してしまった。
玲奈は時計を確認した。
「もうすぐ本番なの。これ以上、時間を無駄にしないで」
そして僕を見る。
「少し中に入って、奏真の言うとおりにして。それで今日は終わりにするから」
最後に残っていた期待が消えた。
残った力を振り絞って立ち上がる。
「玲奈」
彼女は眉を寄せた。
「もう騒がないで」
「今日で終わりだ。僕たちの関係は、ここまでだ」
4.神谷先生、救ってほしい患者がいます
出口へ向かってよろめきながら歩き出した。ところが一ノ瀬に膝裏を蹴られ、僕は再び床へ崩れ落ちた。警備員たちがまた周囲を囲む。
彼らが僕を回収ボックスへ押し込もうとした瞬間、舞台裏の外から慌ただしい足音が聞こえてきた。
最初に入ってきたのはホールのスタッフだった。その後ろには救急隊員と警察官がいる。
そして、もう一人。
見覚えのある女性がいた。
榊原梓。
防衛医科大学校病院の事務官で、このところ藤堂さんの治療チームと院外専門医との連絡調整を担当していた。病院から僕に連絡がつかず、医局秘書が僕の残した予定を確認し、ホールの住所と弁護士の連絡先を彼女に伝えたのだ。
榊原さんは僕を見るなり足を止めた。
両手へ視線を落とした瞬間、顔色が変わる。
「神谷先生?」
救急隊員はすでに僕のそばへ来ていた。榊原さんは傷に触れようとせず、すぐに場所を空けた。
「まず負傷者の処置をお願いします」
まだ僕の肩をつかんでいた警備員に対して、警察官が手を離すよう命じた。
ようやく玲奈が状況を理解したらしい。
「この人は私の夫です。夫婦の問題なんです」
榊原さんが玲奈を見る。
「婚姻関係があるからといって、負傷者の救急搬送を妨げる権利はありません」
玲奈の顔が険しくなった。
「あなた、誰?」
「防衛医科大学校病院の榊原です」
それ以上、自分のことを説明することなく、彼女は僕へ向き直った。
「藤堂さんの容体が今夜、急に悪化しました。病院ではずっと神谷先生に緊急カンファレンスへ入っていただこうと連絡を探していたんです」
一ノ瀬が横で鼻を鳴らした。
「医者一人のために、そこまでする?」
榊原さんは一ノ瀬を見もしなかった。
僕は痛みに耐えながら、彼女を見る。
「最新の血管画像は出ていますか?」
「出ています」
「大動脈弓部は?」
「前回より明らかに悪化しています」
目を閉じ、一度だけ息を整えた。
「黒川先生に資料を送ってください」
救急隊員が僕を担架へ乗せた。
玲奈が突然駆け寄り、腕へ手を伸ばした。
「直人!」
警察官がすぐに制止する。
榊原さんが横に立った。
「神谷先生は今、救急処置が必要です」
「お二人の間にどんな事情があるとしても、今後は弁護士を通してください」
僕はもう玲奈を見なかった。
救急車はまず、都内で重度の手外傷に対応できる最寄りの救急病院へ僕を搬送した。止血と画像検査、初期固定を終えたあと、病院同士で転院について調整が行われた。
翌日、全身状態が安定した段階で、防衛医科大学校病院へ移った。そこで手の治療とリハビリテーション評価を受けることになった。
そのときになって、ようやく実感した。
僕の結婚生活は、本当に終わったのだ。
5.医師の価値は、両手だけじゃない
転院後、手外科チーム、整形外科、リハビリテーション部が連携して両手の状態を評価した。右手は一か月前に負った三か所の骨折の治りが芳しくない。左手は受傷直後の骨折だった。幸い、主要な神経や腱は完全には断裂しておらず、修復治療と長期のリハビリを続ければ、ある程度の巧緻運動を取り戻せる可能性は残されていた。
その一方で、藤堂さんの容体は悪化していた。自衛隊で要職を歴任し、退官後も災害医療や公共安全に関わってきた人物ではある。けれど僕にとっては、まず治療を必要としている一人の患者だった。
今回の手術で実際に執刀するのは黒川先生だった。僕はドイツへの研究留学中、同じような複雑大動脈病変に対する術式研究に関わり、いくつかの重要な再建手順について熟知していた。その経験なら、今のチームに役立てられる。
左手の緊急修復処置を終えたあと、僕は病室やカンファレンスルームで画像を見直した。黒川先生をはじめ、麻酔科、放射線科、人工心肺を担当する臨床工学技士らと、手術計画を組み直した。
手術が始まってからは、基本的に隣接する会議室で休んでいた。術式の選択が必要になるいくつかの重要な局面だけ、リアルタイムの術野映像とデータを共有してもらい、判断に加わった。
手術は長時間に及んだ。
夜が明ける頃、最後の危険な局面を越え、モニター上の数値も少しずつ安定していった。
黒川先生が手術室から出てくると、僕の前で足を止めた。
「神谷」
顔を上げる。
先生は僕の肩を軽く叩いた。
「ここから先は、俺たちに任せろ」
僕はうなずいた。
藤堂さんが危機を脱したあとも、僕自身の治療は続いた。体調が落ち着いた頃、短い時間だけ面会の機会が設けられた。
大きな手術を終えたばかりで、声にはまだ力がなかった。
「君のことは聞いたよ」
僕は黙っていた。
「現場の映像は警察に提出されている。元の病院にも正式な説明が入った。切り取られた数本の映像だけで、医師としての適性を決めつけるようなことはしないそうだ」
僕は藤堂さんを見た。
「警察が調べるべきことは、警察に調べてもらえばいい」
「裁判所が判断すべきことは、裁判所に任せればいい」
一度言葉を切る。
「誰かが人脈を使って、君が正当な手続きを取ることまで邪魔しようとするなら、少なくとも必要な証拠をきちんと出せるようにはする」
僕は小さくうなずいた。
「ありがとうございます」
「ほかに、望むことは?」
母の手稿を思い出した。
「母のものを取り戻したいです」
少し間を置いた。
「それと、正当な司法手続きの結果を」
藤堂さんは数秒、僕を見つめた。
「なら、最後まで正しい手順でやろう」




