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少年(少女)は足掻いている  作者: 草次城
その後の人々

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53/55

彼は何も聞いていない

 


 それを同僚から聞いたとき僕の心臓は大暴れした。

 とうとう僕の下世話な予想が当たってしまったと思った。アスター殿下のどうしようもない事情のためにベラドンナ様が欲求不満になって手近にいる極上の男を毒牙にかけたんだと怖くなった。


 でもすぐに僕は冷静になった。大恋愛で結ばれたお二人の心が風よりも早く離れたのなら宮廷人は嬉々として物笑いの種にするに決まっている。しかし記憶の限りでは、この噂より前に、僕はご夫婦の生活の問題を耳に挟んだ覚えはちらとでもなかった。

 だから僕の不安は的外れ。しかも僕の反応を見た同僚は、こんな話を真に受けるなんてと腹を抱えて笑っていた。


 とても不愉快だったけど、彼がそんな風になるのももっともだった。この噂を信じる人は馬鹿だ。


 第一にグランディ様は歩く規則の異名をとられるマジュス卿のご嫡男であり、ご尊父によく似た生真面目な若者で、何より殿下に忠誠を誓っていらっしゃる。ベラドンナ様ごときがどんなに誘惑したところで相手をされるはずがない。


 第二に我が身可愛さに王子をくらくらにやっつけてしまうずる賢いベラドンナ様は、いかにも貞節を鼻で笑いそうな女性とはいえ、まさかこんな早さで危険な橋を渡らないだろう。


 最後にして最大の根拠として、それが事実なら、マジュス卿が許すはずがない。ベラドンナ様はとっくの昔に断頭台の露と消えていないと辻褄が合わないんだ。


 以上の理由から、その噂は単にグランディ様とベラドンナ様ご両人がお知り合いである事実とベラドンナ様の人気ぶりを示すに過ぎないとわかる。強いて付け加えるなら、世慣れた女が美貌の堅物に恋をしてこれまでの不道徳を悔悟する物語が現代でも愛されていることもわかる。


 それにしてもアスター様は気の毒だ。そこまで侮られている女性を世にふたつとない宝物だと大切に慈しんでいらっしゃるなんて。これで呪いではないというから驚きだ。

 幼少期は不遇をかこっておられたのもおいたわしいのに、ベラドンナ様に出会ってしまわれたのもその境遇のせいらしい。同情の念を禁じ得ない。


 とはいえベラドンナ様も、出自はどうしようもないけれど、もっとちゃんとした女性だったらここまで白眼視されはしなかっただろう。


 婚約が公表されてから時の人となったベラドンナ様は、学園時代から現在まで、どっさり招待状を受け取っては様々な集まりに顔を出している。

 新婚旅行後のここ半年の間で、母上は、我が母ながら偉大な人で、どういう人脈なのかちゃっかりアスター殿下とベラドンナ様がご出席なさる会の招待状を入手していた。


 ご夫婦にお会いするのが楽しみだと記した手紙の次に母から届いた手紙は、妙に分厚かった。

 開けてみて納得した。母上は女性特有のあの迂遠な言い回しを豊富に使って文章を構築していたんだ。


 女性はそうやって自覚的に仄めかしをするくせに、僕がその意図を直截に表現すると怒る。なぜなら彼女らは、明言さえ避ければ何を言っても罪にはならないと頑迷に信じているからだ。


 それは自分に甘い解釈だしその無意味な儀式を省けば物事はもっと早いし時間を無駄にしなくてすむんだという正論をぐっと飲み込んで、たわいないおまじないに付き合ってあげてこそ男の甲斐性なのだと僕は諦めとともに学んだ。


 一人前の男として、僕は全体に漂う負の感情に辟易しながら手紙を読んだ。そして翻訳したところ、母上はどうもベラドンナ様にがっかりしたらしい。


 母上の言葉を借りると、ベラドンナ様はご挨拶を申し上げただけでおおらかなお母様のもとで自由にお育ちになったとわかるほど快活なお方、だそうだ。

 ――殿下はお体がご立派なだけでなく、ご容貌にも素晴らしいお心映えが現れていらっしゃり、お言葉のお運びも恐縮するほどの思いやりに溢れていらっしゃいます。殿下のような、人より際立って優れたお方は、ものごとを深くご覧になるので、きっとありふれた女性は殿下のお気を紛らわすことすら難しいのでしょう。そこへいきますとベラドンナ様は並のご令嬢と一緒にしては失礼なほどのお人柄であそばす稀な女性ですから、ご寵愛が厚いのも不思議でなく、殿下が彼女にどれほどの魅力を感じていらっしゃるかは私ごときの想像力ではとうてい追いつかないほどでございます。


 つまり、あの王子がこんな常識の足りないがさつな女性のどこに惚れたのか理解できない。そういう感想を母上は抱いたわけだ。


 女性の考えなど皆一緒だから、その場にいてご夫婦と話した人は、程度に差こそあれ同じ印象を受けて、友人や夫に話したはずだ。そうやってベラドンナ様の評価は下がっていく。誰のせいでもない、彼女の自業自得なんだ。


 これ以降、母上は今日のように僕にベラドンナ様の情報を聞きたがる。たぶん自分の見る目が正しかったと勝ち誇るために、彼女が愛想を尽かされる日を待ち望んでいるんだ。


 僕が抱えた箱について教えてあげたら、母上は、ベラドンナ様がその腕に子供を抱けないという女性として最大の屈辱を味わう可能性に気づくだろう。おかわいそうにと口では言いつつ内心では暗い喜びに浸るんじゃなかろうか。


 だけど僕は話さない。誰にも、他の秘密もすべて。


 僕は日記にも書かない。失敗に備えて酒も飲まない。昔から、付き合いが悪いと嫌われても、僕は自分から悪口や噂話に自分から参加せず、巻き込まれてもただただ聞く側に徹した。


 そのうち僕は口が堅い男として扱われるようになった。すると、誰かに話したいが自分が言っていたと吹聴されたくはない人たちが、僕を木の洞代わりに使い始めた。


 自然と僕のもとに集まってくる情報を活用したいと思ったことがないと言ったら嘘になる。でも殿下の侍従になる前、いくつかの屋敷で使用人として働いた経験を通じ、僕は学んだ。


 僕ら使用人は貴族の視界から消える。爵位こそ持たないが貴族として育った僕も、裕福な商人の家から行儀見習いとして入った女性も、使用人として特別な階級を持たないのなら、貴族からすれば僕らに差はない。

 したがって彼らは、僕が給仕のために控えていても、平気であけすけなやり取りをする。

 それを愚かさと解釈し、手に入れた情報を使って得をしようと画策する人もいるが、誤りだ。


 あれは余裕だ。下層の人間をいつだって消せるという確信の現れ。聞いていいのか不安になるような会話だって、彼らの中では、聞かれても構わなかったり、あるいはむしろ僕らを使って拡散させたかったり、何らかの狙いが確実にあるのだ。

 彼らは決して運だけに恵まれた馬鹿じゃない。そこを見誤り、図に乗って境界線を越えた人から消えていく。


 僕は落伍者たちと同じ轍を踏みたくない。

 せっかく生まれも風采もぱっとしない僕がこんなに出世できたんだ。安寧を守るためなら、あらゆることに目をつぶって耳をふさぐ。

 特にアスター殿下の機嫌を損ねたりなんかしない。たとえ殿下が毎日処女を攫って怪しい儀式を行っておいでだとしても、彼の妻がいざ不貞を働いたとしても、全力ですっとぼけるつもりだ。


 母上のお喋りがやんだ。


「そういえば、あなたいつもよりのんびりさんね?」

「……着替えをもらったらすぐ帰るんだけどね」


 忍耐。極論、男の人生とはその一言に尽きる。

 ありがたくも僕のつまらない用事を思い出してくださった母上様は、使用人に服を持って来るように命じた。


「それで、いつなの? 殿下がそろそろお戻りになるんでしょう?」

「いいや? どうしてそう思うの?」

「簡単な推理だわ。あなたったら学生のころには三枚ばかりの肌着をくちゃくちゃになるまでいじめていたでしょう。みっともないってわたくしが叱っても知らんぷり。お役目についてましになったと思ったら、お次はシミがついて穴が空いても隠れるからってお構いなしじゃない。ようやくまともな着こなしになったのは殿下にお仕えしてからよ。それでもあなたのことだから、どれが傷んでいてどこを繕わなくちゃいけないのかしらと自分で調べるのは嫌だったんでしょう? 皆纏めて持って帰ってきて、お手入れが終わった前の分を持っていくってやり口を選んだのもそういうことでしょう。だけどそんなあなたがいつもより早く来たじゃない。ああこれは殿下をお迎えする日と休みの日が近いのね、身の回りを綺麗にするのにちょうどいいと思ったに決まっているわとお母様にはわかったの。どう? 違っていて?」

「勘違いだよ」


 図星でしかなかった。どうして母親ってこんなに鋭いんだろう。


 なんとか説教を免れて実家を出た二日後、アスター殿下が王宮からご帰還された。お客様の対応に備え、入口広間に控えていた僕の前で、ベラドンナ様がアスター殿下を出迎える。


「おかえりなさいアスター」

「ただいまベラ」


 微笑んで、いつものようにベラドンナ様を軽々とすくい上げられたアスター殿下は、腕に彼女を座らせてこちらが気恥ずかしいほど親密にお話をなさる。


 平均的な体格の僕でも見上げるほど高い身長をお待ちのアスター殿下は、身長差がお腰に障るのか、ベラドンナ様を抱きあげることを好んでおいでだ。そうなるとどうしても僕の目は彼女の足元へ向かうけど、仕方ない。健康な男としての性だ。

 でも僕はあの偶然以来、一度も眼福にあずかっていない。アスター殿下の気配りだろう。

 あと関係はないが、ベラドンナ様のドレスについて女性たちが騒いでいた。彼女たちの分析によると、ベラドンナ様のドレスは普通のドレスとは違って座った時に一番美しくなるように裾の形や立体感に工夫が施されているらしい。

 僕には他と同じに見える。それに僕だけじゃなくて彼女らもベラドンナ様以外にあんな体勢の女性を見た経験があるとは思えないので、心情で現実を歪める傾向がある彼女らの夢見がちな誤認だと思う。


 仮にそれが正しかったとしても、そんなドレスが作られるほど躊躇いなく頻繁に殿下に抱かれるベラドンナ様の恥じらいのなさはどうなのか。もう少し嫌がってみせたらアスター殿下もお喜びになるんじゃなかろうか。アスター殿下の御髪を犬にするように撫でるのも無礼であるし。


「あのね、一昨日アイリスたちがうちに来たのよ。それで、ふふ、アスター今夜は早く寝て疲れを取らなきゃだめよ。それで明日は私に付き合ってね。予定がないのは知ってるんだから」

「ええ? なんだろう。皆で悪巧みしてる? 怖いな」


 何やらベラドンナ様は企みがあるらしい。そうやって自分からアスター殿下をもてなそうとしたり、なるべく玄関入口で待っていたり、ベラドンナ様のまめまめしさには、これが男の心をつかむ手口かと頭が下がる。

 この調子で献身的な妻を演じ、馬脚が現れる前にさっさと病死なり何なりで美しく退場してくれたら、殿下のためにも国のためにも望ましいんだけどなあ。


 僕がどんなに心配しているかご存じであるはずのないアスター殿下は、今のところ、妻を手放そうとのお考えは一切お持ちでないご様子だ。そのままご夫婦の部屋へ向かわれるのだろうお二人をお見送りしてから、僕はため息をつき、殿下の幸運をお祈り申し上げ、また控え室に戻った。




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