彼は何も見ていない
モブ視点前編です。エピローグは残り3話です。
使用人にお優しいアスター殿下の城付きの侍従に選ばれたのは僕の人生の中で最大の幸運だと断言できるけど、一番嬉しかったのは、城に住み込みになることだった。
僕は四男だ。実家から出たいのは山々でも、結婚はまだ早いと思うし、そもそも自分の足場を持たない僕に大事な娘をくれる親なんかいない。三十歳前後まで待たなくちゃいけない遥かな夢だと諦めていたのが、殿下のおかげでこんなに早く叶ったんだ。それはもうお仕えするにも熱が入るというものだ。
だから、母上に服の替えをもらうために実家に帰るのが気が重いのも、殿下が王宮へ外出されている今、城を守る役目から離れるのが憂鬱なのであって、母上に見合いを進められるのが嫌なわけじゃない、断じて。
「ご機嫌よう。結婚なさい」
――やっぱり嫌かもしれない。
開口一番そう言った母上に僕は渋い顔でもって答えた。
「あら、なあにその嫌なお顔は。言いたいことがあるなら口でおっしゃい」
「もっと仕事に慣れてからの方が絶対にいいと思う」
「そんなこと言ってお次はもっとお役目が上がってから、もっとお仕事が落ち着いてからとどんどん先延ばしにするつもりでしょう。あなた、新婚旅行についていったのではないの? お二人に少しも影響されなかったのかしら?」
「お二人のご様子について聞き出そうとしたってその手には乗らないよ」
「まあひどい言い様。お母様はあなたを心配しているの。女の旬は短いし、子供をたくさん産むためにはよぼよぼのお爺さんに構っている暇はないわ。のんびりしていたらあっという間にあなたは一人ぼっちになってしまうんだから。そんなに優しいお母様にお土産話のひとつもしてくれないの?」
実に大げさに母上の眉が下がっても無視してだんまりを決め込むと、僕の決意が固さが伝わったとみえ、母上は芝居をやめてやれやれと頰に手を当てた。
「融通の利かない子ねえ。謙虚な方は自分の功績を進んで並べ立てたりなさらないのだから、周りがどんどん広めてさしあげるべきだし、嘘つきな方が胡散臭い情報を流そうとしているならお聞きするだけお聞きして、お友達にはそっと注意を促すべきなのよ。それがあなた、いい年して何をどのくらいどんな相手に話すかの加減もわからないなんて……」
「その通りなんだ母上。ごめんね出来が悪い息子で」
「謝らないで。わたくしこそごめんなさいね、そんな勘違いさせてしまって。ちゃんとあなたが悪いのは意地の方よって伝えればよかったわね」
「……そうだね、お互い様だね」
「そうよ。でもねえ確かに気遣いは難しいものね。この前だって旦那様とお友達のところへお出かけしたときもねえ」
僕は頑張って笑ってみせたが、母上は僕などもはや見ておらず、ひたすら一人で喋り倒す極めて個人的な状態に突入している。こうなったらもうおしまいだ。僕だけじゃなく父上や兄上たちも、母上の気がすむまで傾聴の姿勢を崩すことは許されない。
僕はせめてもの抵抗を開始する。相槌を打つ分の意識を残して、天気でも政治でも、とにかくもっと楽しい何かを考えようとする。
ちょうどそのとき、母上がベラドンナ様の名前を出した気がして、僕の思考はそちらに流れた。
この国で誰かがベラドンナ・オータムと発するとき、そこには好奇と嫌悪と嘲りがあり、わずかな畏怖がまぶされている。
先代コルチカム公爵が起こした大事件は誰もが知るところだが、その娘で十八になるベラドンナ様の名前もまた人々の口に盛んに上っている。
当然の成り行きだと思う。彼女が今日に蘇った傀儡の呪いの被害者である事実だけでも話題性としては十分なのに、さらにとんでもないことを見事やってのけたのがベラドンナ様だ。
彼女は、謀反人の娘でありながら、その罪深い血と身分の差を乗り越えて、アスター殿下を射止めてみせたんだ。もちろん彼女が勝ち取ったのは愛人なんて中途半端な地位じゃない。正式な妻だ。公式には妃として扱われないとしても。
アスター殿下がどれほど骨抜きになってしまわれたかは、学園でどのようにお過ごしだったかを聞けばわかる。
殿下はそこで毎日のように庭へ出て、ベラドンナ様の歌に合わせて演奏をなさったり、自ら針を取られて刺繍をなさったり、彼女の膝を枕にして午睡をとられたり。席を並べて勉学に励まれては剣術の大会で額に勝利の祝福の口づけを受けられ、舞踏会では彼女以外とは決して踊ろうとはなさらず、極めつけに、そばに彼女がいるときは、周りに見せつけるようにほとんどお手をお離しにならなかったそうだ。
言葉を選ばずに言えば睦まじいが慎みがない。そして僕はそれらの逸話が誇張でないと確信している。
新婚旅行での話だ。
僕は城に着いた時点からやけに随行の人数が少ないと訝しく思っていた。いかにベラドンナ様は冷遇されて当然といえ、アスター殿下もいらっしゃるんだ。それにあの方は妻が丁重に扱われることをお望みになるはずだから、少数精鋭と言えば聞こえはいいけど、お忍びを疑うほど人員が絞られているのはまったくおかしなことだった。
とはいえ誰かに聞くのも恥ずかしく、またお二人が人目を避けていらっしゃるのは明らかだったので、アスター殿下のベラドンナ様と二人きりになりたいとのご要望を忠実に叶えた結果が現状なんだろうという推測のもと、僕は仕事をこなしていた。
そして城の二階の廊下を歩いていたとき、僕は自分の推測を裏付ける証拠を目撃してしまったんだ。アスター殿下が、男のような格好をした裸足のベラドンナ様をおぶって歩いている光景を。
新緑の季節だった。白い枝にはっとするほど鮮やかな黄緑の葉をたっぷり茂らせた木々の隙間からお二人が見えた。
瑞々しい下生えを踏みしめて進む殿下のお体にしがみつきながら、あまりに体の線が露骨な下半身に恥じらう様子もなく殿下に幼い少年のように話しかけるベラドンナ様。そんな彼女へ、聖銀の耳飾りを煌めかせながら頻繁にお顔を向けられるアスター殿下は、なんとも寛いだご様子で緩んだ表情をしていらっしゃった。
それは世間に流布し、僕が思い描いていた、毒婦ベラドンナとその虜という艷やかな図からかけ離れたご夫婦の姿だった。
僕は目を疑った。
女性はドレスに執着しているし、分を弁える賢さがあるので、男の真似事なんて生意気な選択を自発的にするわけがない。必ず男の影響があるはずだ。
男――それはアスター殿下以外のお人ではありえない。
つまり、殿下は、本当は男がお好きなのでは?
僕は慄いた。大いに冷や汗をかいた。
もしやベラドンナ様の大逆転の手口もこれなんじゃないだろうか。人心を惑わす悪女特有の鋭い嗅覚で、殿下の隠された欲求を見抜き、恥知らずにも男装して心を掴んだんじゃないのか。
考えてみればベラドンナ様は女性にしては背が高いし体の凹凸が少ない。外見こそ美しいが、残念ながら愛嬌もない。見るからに料理も裁縫も下手そうだ。
女性とは、もっと淑やかで丸みがあって愛らしく、手先が器用で穏やかに話し、くだらないことに夢中になる、羨ましいほど悩みのない存在だから、彼女は尻以外は女性として失格している。言い換えればほとんど男なんだ。
殿下のご学友であるグランディ様は美青年だけど、普通は男が男を好きになるわけがないからベラドンナ様で妥協したのかもしれない。
僕はてっきり、お優しいアスター殿下が悲劇の最中にいる知り合いの女性へ抱いた同情心にベラドンナ様がつけこんだんだと決めつけていた。いつか殿下は正気に返られてベラドンナ様との婚姻を解消し、まともな女性と立派な後継ぎをもうけられるだろうと。
もし殿下が限りなく男色に近いご趣味だったら僕は能天気な勘違いをしてたことになる。
いや。いやいやありえない。それならどこかの王女を妃の座に据えておいた方が面目が立つし子供を産ませるのにも便利だ。
殿下ともあろうお方がそんな簡単な計算をなさらないはずがない。
僕は気づきかけたすべてを邪推の箱に入れた。そして存在を忘れる努力を始め、それは新婚旅行からまもなく半年が経つ現在まで続いている。
全然忘れてないけど僕は悪くない。僕の疑いを刺激する噂を流した輩が悪い。
最近使用人の間に流れ出したあの噂。ベラドンナ様の浮気。相手はあの、グランディ様。




