(20) アスター王子、ネリネに告白する
歓迎の宴での、ネリネのあのあたかもアスターに一目惚れしたかのような言動は、芝居である。
その直感は正しいとアスターは確信した。
彼女の第一はトリテレイアの民であり、互いに相思相愛と表現してさしつかえないほどだ。
こうなると俄然ネリネが公女に甘んじている理由が気になってくる。前に夫人が彼女の夫がネリネ大公を奪ってしまうと言っていた。つまり彼女はまだ継承権を保持しているとみていいだろうに、なぜ。
その理由に結婚が関係していて、アスターが微かでも力になれるなら、双方にとってよりよい道が拓けるかもしれない。旅程の残りをみても、そろそろ結婚について切り出すべきだ。
アスターが機を見計らっている最中に、大公の娘の城で昼食会があった。食後、場所を移して皆でゆっくり話を、という時間に、アスターはネリネに誘われて城の絵画を見に行った。
大きな窓から形なく入る光を頼りに、神話に題を取った天井画を眺め、臙脂の壁に飾られた国の英雄の肖像画を逸話とともに鑑賞し、それら肖像画より一際大きく、金の浮き彫りの額縁が並ぶ一部屋に入る。
勇ましさを前面に押し出した英雄たちの間とは対照的に、はるか高みからアスターたちを見下ろすのは、あるいは柔和に微笑み、あるいは厳かに唇を引き結んだ女性たちだった。
「代々の大公が即位した際に描かれたものです」
ネリネが偉大なる大公たちを恐れるかのように密やかに説明する。
「トリテレイアの長は女が多いのです。私が思うに、先祖たちは、優れた働き手である男を室内に留めておくより、寒さに弱く力も弱く、毎月身動きするのが億劫になる期間がある女が頭を使うべきだと考えたのではないでしょうか」
「そこまで生活に力仕事が多いのですか?」
「まず除雪ですね。同じ範囲を片づけるのに女は男より時間も体力もかかるのですよ。私と同じくらいの体格の私より幼い少年がさくさく雪をどかしているのを見ると、心の底から自分の貧弱さに失望します。何度でも」
話しながら、アスターを置いて、一歩、一歩とおもむろに歩いていく。その背は確かに華奢だった。
「だから私は、自分が大公になれると知ったとき、こんな私でも人のために働けるのだと知って本当に嬉しかった。子供を産む以外にも私の役目があるのだと。きっと民に一つでも多くの選択肢を与えられる立派な大公になろう。そう固く心に決めていたので、ある大公が女から一つの道を奪おうとした意図が理解できず、反感すら覚えました。私の母です」
立ち止まったネリネの前には、赤子の拳ほどの宝石のついた黄金の冠を重たげに戴き、黄金の王笏を携え、永遠の微笑をたたえた、彼女にそっくりな女性がいた。
ネリネは語る。
話し合ううちに、母が重過ぎる責任に苦しんでいるのを知りました。夫の庇護のもとで妻や母としてふるまうことを夢見た人でした。自分は叶わずとも、せめて他の女たちを家庭に集中させてあげようとまったくの善意でそうしたのです。
母は同じ慈悲を私にもかけました。遺言書で、叔父を私が二十になるまでの王に指定し、なるべく期限までに私を結婚させ、大公にさせるなと命じたのです。それを読んだ瞬間、余計なお世話だ、優しさのつもりで私から力を奪っていくなとかっとして、ふと思いました。私がこの憎悪で母を取り殺してしまったんじゃないかって。
母とは何度も衝突しました。どうしてわかってくれないのってずっと辛かった。私は間違ってないのに、お母様なのになぜ、って。母は乳母のように私をかわいがってくれました。膝に抱き上げて語り部としての手ほどきをしてくれました。大好きなお母様が、大公としては誤った方向に進んでいくから、大公子として冷静に説得してきたつもりだったけど、実は甘えた娘の部分で無意識に母を攻撃していたんじゃないか、母の不幸を願っていたんじゃないか。だから、あんなにすぐに母は……窶れて。
「ネリネ姫」
「今はもう、ただの後ろめたさだったとわかっています。仮に私に原因があるとしても、結果を出して償うべきで、思い悩んで足踏みをしている場合ではなかったことも。あなたのおかげです」
「私は、何も」
「そうでしょうとも。殿下は特別なことを何でもないご様子でなさいます。たとえば、王の妻ではなく王子の母でもない女に頭を垂れた経験はないでしょうに、職人さんや私の話をおざなりになさらず、真心をもって接してくださったのも、殿下にとっては当たり前のことなのでしょう」
ネリネが半身に振り返る。その頬や目のくぼみの陰影がぼやけているせいか、雰囲気が柔らかく感じた。
「そんなあなたなら、このような打ち明け話をお聞きになっても、賢しらな女のままごとと微笑ましくお思いにはなられますまい。私が生まれたころから次代の王者たれと育てられてきた事実を知ってもなお、なぜか私の覚悟も冠も、髪飾りのように軽いと無邪気に信じる者どもはいるのです。あなたのお人柄に触れる前は、どうせあなたもそんな輩と同じだと諦めていました。深くお詫び申し上げます」
「そんな……あなたは私をそんな男と思いながら、あの場で結婚を決めるおつもりだったのですか?」
「それで国に利があるならばそうするでしょう?」
アスターは言葉を失った。
「たとえこの身が、子を産むのに命を懸けるに値しない、生まればかり恵まれた男の畑になり下がるとしても、魂と誇りが愛しきこのトリテレイアにある限り、私は穢れはしないのです」
嫁ぐ女性は、これほどまでに峻烈な覚悟を決めるものなのか。
重圧を進んで引き受けようとしたネリネという勇敢な女性は、培ってきた能力を発揮する機会を失いかけている。それなのに、国のために、能力ではなく子供の有無を重視される環境へ身を投じようとしている。
それにひきかえアスターはどうだ。国を率いることを真剣に考えてもいないのに偶然王になりかけている。アスターの妻の座の重みや子供を産んでもらう意味をわかったつもりで、王に却下されたとはいえ、ベラドンナを未来ごと摘み取ろうとした。アスターの心がベラドンナを求めている、それだけの理由で。
「愛する人がいます」
気づけば言葉が唇を割っていた。
ネリネの驚愕を目の当たりにし、アスターはむずかるように首を振る。
決してネリネへの侮辱ではない。あなたが僕に惚れるのは当然だけど残念ながらもう遅いと自惚れて世迷い言を言い出したのではない。
これは買い被りに怖気づいた人間が耐えかねてする告白だった。部屋にはネリネ以外にも護衛らがいるというのに、もう止められない吐露であった。
「あなたが仰った僕の傾向もきっとその人のおかげなのです。彼女が僕と何度もぶつかって僕を磨いてくれたのです。彼女の面影は片時も胸から離れません。だからといって純粋な愛ではないのです。僕はどうしようもない人間です。少し前に諦める決心がつく出来事があって、たった今も自分の驕りに気づいたのに、まだ心の奥では僕のせいで彼女の人生が台無しになろうとも僕を選んでほしいと願うことをやめられないのです。振り向いてもらえる見込みがあるわけでもないのに、どうしても僕は、彼女を」
大きく胸を動かして息を継ぐ。
「ネリネ様、僕がお伝えしたいのは」
「大丈夫、落ち着いて。おかわいそうな殿下。あなたは愚かにも心をその方にそっくり渡してしまわれたのね。本当はもう為政者たる資格はないのですね」
「はい。はい……」
歪まずに本心が届いた安堵で肩から力がふっと抜ける。
ネリネのようにアスターはアプレを愛せない。国のために自分がベラドンナを諦めるくらいなら国の方が譲歩しろと恨んでやまないアスターは、ネリネとはあまりにも考え方が違う。
ところが、次の瞬間、信じられない発言が耳に飛びこんできた。
「でもそれを聞いたら、なんだかあなたと結婚したくなってきますね」
えっと大声をあげてアスターは目を見開いた。ネリネはいかにも愉快そうだ。
「結婚は慕わしい人とするものだとのお考えは正直に申せば許容できませんが、結ばれてから相手に愛を期待するのは人として自然だと思います。夫婦の関係が良好であれば宮廷にもよい影響を与えます。殿下となら、恋人になれずとも、重荷を分かち合う夫婦や、王をお支えする仲間にはなれるような予感があるのです」
「あれ? いえ僕は、おかしいな、そんなはずでは……」
「それに殿下なら妻を蔑ろにはなさらないでしょうし、愛人を不誠実だとお考えでしょうし。もしも私があなたではない誰かに恋をする日が来ても安心ではありませんか。夫婦そろって遠くから思い人を眺めてため息をつくのは面白いでしょう? それに何より、ここまで申し上げても、本当は僕と結婚したいだけなんだろうとお思いにはなられない、そのお心が一番好ましいのです」
「もしや僕は貶されているのでしょうか?」
「いいえ、その反対です。ですから私は、お互いに大いなる妥協をしませんか、というご提案をさせていただいているのです」
歯切れよく言い切ったあと、さらにネリネが瞳を輝かせてぐっと身を寄せてきた。アスターは思わずのけぞって、嫌な予感に冷や汗をかく。
「ちなみにどんな方なんですか? 年上の方ですか?」
「聞くんですかそこを。悪趣味です、真面目な話をしたばかりなのに……!」
「もう終わったじゃないですか。それに恋の話は好きなんです。もっとも誰もがそうですよね。浮き名を流せば持て囃され、老若男女が愛する英雄には恋愛が付き物ですもの。だから、さあ、どんな方なんですか?」
アスターが一歩下がればネリネが一歩前に出る。こうべを巡らして護衛たちに助けを求めても、誰も彼もが従者らしく視線を合わせず、そこにいない体裁を貫いている。
言わねば解放されないと悟り、とうとうアスターは自棄になってこう言った。
「話したくありません」
「なぜです?」
「会いたくなってしまうので!」




