38.デリ研のみんなに報告
「えーええっ、チェリーのパパが日本に!」
ゆかりが大声を上げた。
「しっ、ゆかり、壁、薄いんだから」
わたしは慌ててゆかりの口を手で塞ごうとした。
ここは、デリ研の部室である。
薄いベニヤみたいな壁一枚を隔てて、隣には料理部が立てる調理器具のガチャガチャという音が聞こえてくる。
わたしの周りには夢見会長と渦巻副会長、そしてゆかりと謂越君がいた。
高杯警部から口止めされているものの、今のわたしにとっては心強い仲間であるデリ研の面々にこの話を伝えざるを得なかったのだ。
「それにしても驚いたわ。さくらさんのパパがあのJ・Jブロッサム氏だなんて」
そう言ったのは夢見先輩。
本当に心底驚いている様子が、ありありと伝わって来る。
「えっ、J・J・ブロッサムさんって、そんなに有名なんですか?」
ゆかりが夢見先輩に尋ねる。
「そうよ。かつてLTCM社で辣腕を振るったトレーダー。LTCMショックが起きる前に、アジア通貨危機とロシアの国債デフォルトを予見して手を打とうとしたけど、会社の上層部に反対されたと聞いているわ」
「へえー、そうなんだ。チェリーのパパがねぇ」
ゆかりがわたしをジロジロと見る。
きっと、そんな卓越した能力を持った父から生まれた娘なのに、平凡の能力しか持っていなくてかわいそうとかなんとか思っているに違いなかった。
「そのブロッサムが、逃げ回っているなんて、信じられないな」
こう言ったのは謂越君。
な、なんであんたまでパパのこと知っているのよ。
「J・J・ブロッサムはLTCMを退社したあと、確かソロモン・ブラザーズに入社したんじゃなかったっけ?」
「そうよ。そこで今度はトレーダーではなく、クォンツとして頭角を現した」
な、なんでみんな、わたしよりパパのこと知ってんのよ。
それに、クォンツって、なに?
「クォンツは、金融派生商品商品を設計する人のことなんだ。世界にはそれが出来るのが数十人しかいないと言われている」
「そうよ。ブロッサム氏がLTCM社を退社した後、発表した金融波及漸減理論、これで一躍脚光を浴びたわ」
む、難しい言葉が謂越君と夢見先輩の口からポンポンと飛び出す。
「き、金融・・・はけん、ざーけん理論?」
い、一度じゃあ覚えきれない。
「ちげーよ。金融波及漸減理論だよ。金融工学の量的分析と多重回帰分析を使い、互いに関連づけられる金融商品の値動きが、どのように関連し変化するかを現した数式と理論だぜ」
それだけ聞いても何のことだがさっぱり分からない。
と、いうか、ますます分からなくなった。
「まあ、ともかくその理論は、今では多くの・・・というか、ほとんどのヘッジファンドで使われている」
へえー、なんだか分からないけど、パパって凄いんだ。
「それをAI化してHFTに組み込む動きが広がっている。だけどまだ完全に成功した会社はないはずだ」
う・・・ううう。
だから、AIって何よ。
HFTって何よ。
「金融関連の取引では超高速のコンピュータートレーディングが使われている」
夢見先輩が言葉を続けた。
「ええ、1秒間に何千回だか、何万回だかの売買を繰り返すコンピューターブログラムのことですよね」
ゆかりは、そのコンピュータートレーディングのことをいくらか聞き知っているようだった。
そう言えば、登おじさんも、コンピューターによる瞬時の大量の売買取引のことを言っていた。
「HFTはそのコンピューターによる超高速の取引のこと。そしてAIは人工知能のこと。ブロッサムさんの金融波及漸減理論を組み込んだHFTは、史上最強のコンピュータートレーディングになると言われているわ」
うわっ。
ただでさえコンピュータートレーディングは最強なのに・・・。
わたしはそう思った。
なにしろ、僅かな金融商品の値動きを察知して、それが完全に値上がり、または値下がりする前に売り抜けたり、買い占めたり出来る。
でも、今の所、それはあくまでも事前にプログラマーが決めた動きしか出来ない。
金融商品は、複雑系だ。
それは、わたしは今ではそう理解していた。
「風が吹けば桶屋が儲かる」という諺ではないけれど、世界中で発生する色々な事件や事故、ニュース、外国の政治情勢や金融情勢が複雑に絡まり合い、それに人間の欲望がたっぷりと加味されて金融商品の値段が決まっていく。
一人のトレーダーが、その全ての情報を収集し、判断するのは実質的に不可能だ。
だけど、それをAI・・・つまり人工知能に判断させれば・・・。
人工知能は、本当はどのような物だか、私はあまり知らないけれど、新聞などの記事では物凄い発達を見せていると読んだことがある。
なにしろ、人間の代わりに人工知能を搭載した車が公道で実験を開始したとのニュースもつい先日報道されている。
「まあ、話は逸れてしまったけれど、お前の親父はその中核となる理論を開発した人物だ。この人物が、何かの事件の目撃者として命を狙われているって話はどうも眉唾臭いぜ」
謂越君がそう言った。
あの刑事の説明、それはわたしも真実を言っていないと感じている。
そして、謂越君にあらためてそう言われると、やっぱり何か裏がありそうだと思った。
「そうね、私も謂越君の意見に賛成。ブロッサム氏は今では世界中のヘッジ・ファンドが喉から手が出るくらいに欲しい人材でしょうから、会社移籍を巡るゴタゴタって線の方が説得力があるわね」
「でも、会社移籍ぐらいで、日本の警察が動くかな? 何と言っても、移籍は民事なんだろう?」
そう疑問を呈したのは、みんなの分のお茶を用意していた渦巻先輩だった。
「そうね・・・さくらさん、ちょっとその刑事さんが渡したという名刺を見せてくれない?」
夢見先輩がわたしに向かって手を伸ばした。
美しい白魚のような手。
わたしの大きな手とはまったく似ていない優雅な白い手。
「は、はい。これです」
わたしは鞄から先ほど貰った高杯警部の名刺を取り出して夢見先輩に手渡した。
「ああ、やっぱり」
夢見先輩はその名刺を一目見てそう呟いたのだった。




