33.登おじさんの誤解
「結局、LTCM社は解散した」
コーヒーを飲み干した登おじさんが、そう厳かに宣言した。
結末は分かっていたことだったけれど、わたしは息を呑んだ。
と、いうことは、パパは失業したんだ。
「いや、失業はしなかったよ。でも、自分の資産もレバレッジをかけてLTCM社のファンドで運用していたために、巨額の借金を負っていた」
「しゃっ、借金って、どのくらいなんですか?」
そんな借金をパパ背負ったことなどまったく知らなかった。
ママの口からも聞いたことがない。
「僕らにははっきりしたことは教えてくれなかったな。でも、少なく見ても数億円以上はありそうな口ぶりだった」
「す、数億円!」
個人で数億円の借金なんて、信じられない。
「そのために、さくらちゃんのパパは離婚する道を選んだ。紅葉姉さんやさくらちゃんに借金が及ばない様にしたんだと思う。その証拠に、離婚後も月に数回は、きみのパパは君たちに会いに来ていたからね」
こう登おじさんは言った。
「一方で、さくらちゃんのパパは優秀なトレーダーとしての腕をかわれていた。世界中の金融機関やヘッジファンドから引く手があまただったらしい。そして、LTCM社解散の前に、さくらちゃんのパパはアメリカの別のヘッジファンドに入ったと聞いている」
そうか、そうだったんだ。
それでママは金融派生商品という言葉に、あんなに激しい拒絶反応を示したんだ。
その理由が分かって、わたしはほっとした。
ほっとしたけれども、何の解決にもなっていない。
ママの、デリバティブ研究会への誤解を解こうとしたのだが、登おじさんの言ったことで、わたしは解決の糸口をすっかり見失ってしまった。
そうか、昨日、ママと喧嘩した時に「血は争えない」とママが言った意味がようやく分かった。
その言葉は、わたしの中でずっとくすぶっていた。
「血は争えない」とは、どういう意味なのかと。
それはパパのことを指していることは十分に想像がついた。
想像が付いていながら、わたしはどうかそれが違っていることを・・・わたしの想像とは違うことを願っていた。
だが、登おじさんから、こうもはっきりと事実を告げられてしまうと、わたしはどうしたらいいのか全然分からなくなってしまったのだ。
離婚にまで至ったパパとママの結婚生活。
幸せな筈の家庭が、みるも無残に崩壊してしまったのだ。
それは、自業自得といえば言えるのかもしれない。
残酷なようだが、多くの人は金融派生商品に手を出すならば、このようなことも考慮してしかるべきだと言うのかもしれない。
だけど、それが自分の家庭に類が及んだとなると、わたしはどうしてもその現実を信じられなかった。
「さくらちゃん、そういうことなんだ。だから紅葉姉さんが・・・君のママがデリバティブに非常に強い嫌悪を感じていることは理解しただろう?」
おじさんの言葉に、わたしはこくりと頷いた。
「だから、さくらちゃんのママを説得するのは、非常に難しいと思う。紅葉姉さんの結婚生活を破壊したのは、デリバティブみたいなものだからね」
わたしだって、デリバティブに対して、あまりいい印象は持っていない。
ましてや、デリバティブに投資するなどもってのほかだ。
わたしの、やりたいことは・・・。
わたしの、やりたいことは・・・。
「一般人が、ヘッジファンドや、デリバティブを扱う金融機関と対抗するのは無理だ。何回かは利益をあげられるかも知れない。でも、数十億円、数百億円の元本を持ち、レバレッジで運用して、数兆円も数十兆円も動かせる彼らに対抗するのは無理だ。ヘッジファンドの連中は、ターゲットと定めた相手を徹底的にしゃぶりつくす。国家さえもそれで犠牲になりデフォルトに追い込まれる。悪いことは言わない。金融派生商品への興味などきれいさっぱり諦めて、普通の部活・・・テニス部とか、軽音楽部に入るべきだよ」
あれ?
登おじさん、なんか誤解しているみたい。
わたしは金融派生商品の運用になどまったく興味がない。
興味があるのは、この世界の構造。
世界がどのような仕組みで動いているのかってこと。
そして・・・
そして・・・
尊敬する夢見先輩と一緒に、それを研究すること。
それがわたしの望むことだ。
でも、登おじさんもママも、わたしが金融に興味を持つのは、資産運用の為と思い込んでいる。
「いいや、さくらちゃん。金融に興味を持つということは、いつか絶対にそれに手を出すということなんだよ。それは、大麻を知りたいといっているのと変わりはない。いつかはマリファナを吸いたくなってくる」
登おじさんは誤解したまま、わたしをデリ研から遠ざけようとしていた。
大麻とマリファナのくだり、なんだか、無理やりたとえたような気がする。
だって、例えば日本の過去のことを知りたいという歴史好きは、いつかはコスプレに嵌るといっているのと一緒だからだ。
歴史好きだからといって、武士になり切って刀を振り回したり信長と自分を同一視する人はいない。
馬が好きな人は、競馬に嵌るとは限らない。
・・・いや、いるかもしれないけど、それはほんの一握りの人たちだとわたしは思う。
確かに、僅かな元手で何倍ものリターンの可能性がある金融派生商品は、人の正気を容易に狂わせるものとわたしは思う。
金融派生商品とは危険な賭けだ。
でも・・・でも、わたしはそうはならないという自信があった。
登おじさんもまた、わたしのことを完全に誤解していた。
「さくらちゃん」
不意におじさんが真剣な表情で言った。
「さくらちゃんは、J・Jと同じ道には進むなよ」
その言葉に、わたしは思わず金髪の髪をかき上げた。
J・Jとは愛称。
本名はショナサン・ジェイコブ・ブロッサム。
わたしのパパだった。




