32.パパとママの喧嘩
「LTCM社の絶頂期に、紅葉姉さんは・・・さくらちゃんのママはパパと出会った。共通の友達のパーティーで知り合ったと言っていた。そして出会ってから1年後に結婚。それはそれは華やかな結婚式だった」
登おじさんは、昔を懐かしむように遠い目つきになった。
当然、おじさんもその結婚式に出席しただろうけど、いったい、どんな結婚式だったんだろう。
ママは昔の写真を全然見せてくれない。
「帝国ホテルで披露宴が行われた」
て、帝国ホテル!
超一流じゃない。
セレブや芸能人がよくそこで結婚式を挙げている。
「招待客はざっと300人はいたかな。LTCM本社の、名前は忘れてしまったけど、なんとかという社長も来ていた。後で聞いたら、その社長は世界的に有名な債権トレーダーだってさ。とにかくアメリカ人だらけでね、僕たち八重山家の人間は、目を丸くして部屋の隅で固まってしまっていた」
わたしは、そのシーンを想像して思わず吹き出しそうになった。
登おじさんや花おばさん、そして長野のお爺ちゃんお婆ちゃんが、外人に話しかけられたらどうしようと立ちすくんでいる姿が頭に浮かんだからだ。
「おいおい、僕は一応、英語が喋れるんだぜ。僕が通訳したさ」
へえー、そうだったんだ。
意外。
でもそう言われれば、子供のころ、わたしと遊んでいる時も時々英語交じりの日本語、使っていたんだっけ。
「君のパパはよほど会社から期待されていたんだね。社長がわざわざコネチカットから来るぐらいだから。もっとも、日本観光という目的が他にあったかもしれないけど」
そうだよね。アメリカのコネチカット州から来るんだもの。
でも、あれ?
コネチカット州って、アメリカのどこらへんだっけ。
なんだか、東海岸の方だったような気がするけど・・・。
「LTCM社は最初の4年間で大成功を収めた。これからの金融業界のホープとしてもてはやされていた。だけど、LTCM社の業務内容がマスコミなどに大きく取り上げられてくると、紅葉姉さんは疑問を感じるようになってきた。何故このような業態が何の規制もなくまかり通っているんだと」
最初の4年間の大成功。
これもジョン・ローと同じだった。
そしてママが感じた疑問も、わたしと同じだった。
「二人はそのうち、大げんかを始めるようになった。紅葉姉さんは、何とか君のパパをヘッジファンド業界から辞めさせたがっていた。でも、それはうまくいかなかった」
そこいらへんの記憶の断片がチラチラとわたしの脳裏によみがえってきた。
それは、もう何年も何年も前のこと。
喧嘩しているパパとママ。
居間でソファーに顔を埋め、泣いているママ。
そして、激怒しながら家を飛び出していくパパの姿。
すっかり忘れていた。
登おじさんの言葉で、わたしの記憶が蘇ってきたのだ。
「ある日の大げんか以来、さくらちゃんのパパは、ほとんど家に帰らなくなってしまった。それでもお互いによりを戻そうと努力をしていた。話し合いも大分進み、僕らも二人の離婚の危機が回避されるんじゃあないかと希望を感じ始めていた矢先に、世界にLTCMショックが襲ったんだ」
「LTCMショック?」
その言葉は先ほど上るおじさんから聞いた。
でも、それがどのような事件を指すのか、分からなかった。
「きっかけはアジア通貨危機とロシア財政危機だった」
その二つの危機の名前も、わたしは知らない。
ヨーロッパのPIIGS危機と言う言葉ならば、以前にニュースでやっていたので聞き覚えはあるものの、アジア通貨危機とロシア財政危機は聞いたことがなかった。
「うん、知らないのも当然だね。それは桜ちゃんが生まれる前に起こったことだから。そしてさくらちゃんが生まれてからもずっとその影響は残った。その事件さえなければ、二人の離婚は免れていたかもしれない」
それならば知らないのも当然かぁ。
わたしはそう思った。
「特に、ロシアの財務危機において、ロシア政府は短期国債の債務不履行を宣言する事態になった」
ええっ、ロシアってそんな危機があったの?
デフォルトってことは、借りたお金を返せないってことだよね。
派手なパフォーマンスで知られるプーチンが大統領の大国ロシアのことだよね。
「投資家の間に激震が走った。そのため、LTCM社に資金を出していた投資家たちが一斉に資金を引き揚げ始めたんだ」
「つまり、元本がなくなっていくと・・・」
「そう、その通り、特にLTCM社は投資家から集めた47.2億ドルの元本を使い、25倍ものレバレッジを掛けて、1290億ドルもの巨額の金額を運用をしていた。また、1.25兆ドルにも及ぶ取引契約を世界中の金融機関としていた」
1.25兆ドルかあ。
日本円にするといくらぐらいだろう。
その元となるお金がなくなったんだ。
破たんするのは眼に見えていた。
「今のドル相場に直すと、約5700億円の元本に対し15兆7000万円も運用し、世界の金融機関とは152兆円もの取引をしていたことになる」
凄い金額!
凄過ぎて、お金の量がピントこない。
125兆円の取引って、えーと、夢見先輩が日本の税収が毎年40兆円ぐらいって言っていたから・・・きゃっ、その3倍以上じゃない。
「LTCM社のその取引は世界中の金融機関が相手だった。そのため、LTCM社が倒産すると世界恐慌が来ると言われた。それがLTCMショックと言われているものなんだ」
あれっ?
倒産すると世界恐慌が来る?
これに似た言葉は前に聞いたことがある。
テレビのニュースでだっけ?
大分前だったけれど、確かユーロのギリシャ国債危機か何かの時に聞いたんだっけ?
それとも、リーマンショックのニュースで聞いたんだっけ。
「アメリカのリーマンショックの時も同じことがマスコミで言われたよ。大きすぎてつぶせないってね。アメリカ政府はその時、ファニー・メイとフレディ・マックという世界有数の政府系の住宅ローン会社は救済したけれど、リーマン・ブラザーズはその負債内容があまりにも不透明で複雑奇怪だったため倒産させた。でもその倒産で世界規模で金融危機が巻き起こった」
登おじさんはまたここで一息入れて、すっかりと冷めきってしまったコーヒーを全部飲み干した。
「話を元に戻すとね、結局LTCM社は、アメリカ政府の資金注入があったけれども会社としては解散せざるを得なかった。当時はすごい批判が巻き起こったよ。金儲けをしようとして作られたヘッジファンドに、政府が金をだして救済していいのかと。今後もこのような事例が数多く出て来る。巨額の金を儲け、報酬も巨額の彼らに、つぶせないほど大きいという理由だけで、儲け逃げさせていいのかと」
いいわけないと思う。
どう考えても、それはおかしいことだった。
特にヘッジファンドは金融システムの隙間を狙い、利益をかすめ取るあこぎな商法だ。
レバレッジという実体のない膨らんだ巨額のお金が、世界の経済を歪めさせている。
コンピューターによる売買もそう。
僅かなタイムラグを狙い、高速大量売買で利益をかすめ取る。
先物取引も、本当の価格にヘッジファンドが上乗せしたお金が乗っかっているとしか思えなかった。




