閉鎖都市ノリリスクの逆襲(2) ~HEROの消失~
ロシア最北端の大都市、ノリリスク。
世界で最も汚染されている街の一つと呼ばれる、閉鎖都市。
都市の中心となっているのは世界最大のニッケル生産量を誇るノリリスク・ニッケル社の存在だ。かつて国営企業として立ち上げられた同社だが、現在はロシアの政財界を牛耳る新興財閥の手中に収まっている。
雪上車から降りたマイミは、ラーダと呼ばれるロシア製のセダンに乗り込んだ。
「マスクをしとかないと、鼻の穴がまっ黒になるよ」
運転席に座ったアレクサンドルが悪戯っぽく笑う。
だがマイミには陰鬱なノリリスクの空を眺めている暇は無かった。狭い後部座席の真ん中で、左右を大柄のガイドに挟まれて窒息しかけていたからだ。
なぜガイドを四人も雇ってしまったのだろう。
アレクサンドルはほっそりとした華麗な体系だったが、他の三人は皆ずんぐりむっくりとした巨漢で、熊の両親から生まれてきたとしか思えない。
マイミは自分の口を手で覆った。いつもの調子で心の声が漏れ出てしまったら悲惨な結果になることが予想されたからだ。
一同を乗せた車は、ノリリスクの無機質な街並みを抜け、街の北に位置するノリリスク・ニッケル本社を目指した。その向こうの凍てついた大地には、世界最大のニッケル鉱床が広がっている。
マイミはこの先に待ち構えるタフな交渉に備えて、予備知識を入れておこうと口を開いた。
「ねぇアレクサンドル。この街を牛耳っているのは、ノリリスク・ニッケル本社を買収した新興財閥なのよね」
「よく知ってるね、マイミ。日本人は新興財閥なんて知らないと思ってた」
「まぁ確かに、普通の日本人は知らないかもね。ソ連崩壊後のロシアを誰が支配しているかなんて、興味が無いから」
「ウラジミールのことは……プーチン元大統領くらいは知ってるかな?日本人は」
「プーチンは日本でも有名ね。よくテレビでも見かけるから。でも彼があそこまで実権を掌握するため、幾多の新興財閥たちと死闘を繰り広げたことは、日本ではあまり知られていない」
「そうか」
アレクサンドルは器用にハンドルを操り、でこぼこの路面を上手に運転しながら話を続けた。
「新興財閥はロシアだけでなく、旧ソ連に属していた様々な国に存在している。本来は国家が管理していた事業を簒奪し、私服を肥やしてそれぞれの王国を作り上げた奴らだ」
「日本で言えば、JRやNTTを私物化したようなもんね」
「彼らは自分たちの既得権益を守るためなら、手段は選ばない。マイミがノリリスク・ニッケル本社で何をするつもりか知らないけど、十分気を付けてね」
「う……うん」
アレクサンドルの優しい言葉に、マイミは頬を赤く染めた。左右の大男たちからは絶えず柔道部のロッカー室みたいな臭いが漂ってきていたけど。
しばらくして車がガタンと揺れた。マイミは轍でも乗り越えたのだろうかと窓の外を見やる。
だが揺れの原因は轍ではなかった。道沿いにある古めかしい電柱が、グワリと揺れていた。
「な……何、これ。地震かしら?」
「ああ、また起きたな」
「えっ?またって、どういうこと?」
「最近、多いらしいんだよ。地震なんてめったに起きないから最初はみんなビビッてたらしいけど、あんのり頻繁に起きるから最近は慣れたって言ってたな」
「ちょっとそれ……ヤバいやつじゃないの?」
「……そうなの?」
「新展開で新しい街に来たら、地震が頻発してるとか、死亡フラグ以外の何物でもないわ」
マイミは白目を剥いた。
「何だろう、凄く悪い予感がする……」
※※
「あなたの予感は当たっているよ、同志キリサキ」
ヘタクソな英語だった。
つるつるに禿げ上がった頭部と、豊かな白い髭のコントラストが印象的なその人物は、にっこりと笑ってそう言った。年の頃は六十過ぎといったところか。ロシア人にしては背が低いが、がっしりととした体格なので小さい印象は無かった。
「ここから先に待ち受けてるのは、ロシア版のジャングル・クルーズだ。まぁ、待ち受けてるのはワニの模型ではなく、本物の化け物だがね」
そう言うとロシア国内軍の将校であるセルゲイ・ロゴスキンは、透明の液体がなみなみと注がれたグラスを、マイミに向けてぐいと突き出してくる。
「今のうちに飲んでおきたまえ。これを飲んどかないと凍死するぞ」
だがマイミには、それがウォトカであることがお見通しだった。ロシア人はこうして、隙あらば酒を飲ませようと画策する。
相手が酔っ払えば、自分も酒を飲む口実になるからだ。
「ええと、それは遠慮しておきます。それよりも、ロゴスキン大佐」
マイミは用心深く辺りを見回しながら口を開いた。
十平方メートルほどの広々とした執務室の壁面に沿って、完全武装した八名の歩兵がずらりと並んでいる。
「ここはノリリスク・ニッケル社の社長室だと思って訪問したのですが」
「いかにも、ここはノリリスク・ニッケル社の社長室だ」
「なぜロシア国内軍の将校であるあなたがここに座ってウォトカを飲んでいるのか、理解に苦しみます」
「その説明をする前に、誓約書にサインしてもらわねばならんよ、同志キリサキ」
そう言うと、ロゴスキン大佐は机の引き出しから取り出した一枚の書類を差し出した。マイミはロシア語で書かれたそれを読むことができないので、傍らに立つアレクサンドルに手渡す。
「……何て書いてあるの?」
「閉鎖都市ノリリスクの内部で見聞きした情報については、外に出た瞬間から決して口外してはならない、って書いてるよ。まぁ、秘密の多いロシアじゃよくある話だね」
「それ、本気で言ってるの?」
マイミは眉を吊り上げた。
「ロゴスキン大佐、私は日本政府の特命を受けてやって来ました。全世界の脅威となっているクリーチャーに対抗するため、日露間で密な連携と情報共有が必要であると考えられたからです。ロシア外務省からその旨の通達が届いているはずですが」
「ああ、通達ね…」
いよいよ我慢できなくなったのだろう、ロゴスキン大佐は手にしたウォトカをぐいとあおった。
そして机の引き出しをごそごそと探り始める。
「どこかに来ていたな、そんな通達が」
マイミはため息をついた。
「ちゃんと確認しておいていただかないと困ります。私を粗略に扱って、後で痛い目を見るのはあなたですよ」
「こりゃまいったな」
ロゴスキン大佐はそう言うと、クシャクシャになった一枚の書類を取り上げ、目を通した。
「うん、ここに確かに書いてあるな。日本政府との間に合意形成がされたから、あんたに特別措置を与えよと。日本側の代表は官房長官兼、国家危機調査室の室長である甘粕幸四郎」
「ほら……、やっぱり」
「だがな同志キリサキ、この書面でもって、あんたに特別措置を与えるわけにはいかんのだよ」
「えっ?」
「まったく可愛そうにな。同志キリサキ。えーと、たった一人の国家危機調査官だっけか?」
ロゴスキンは心底同情するようにため息をついた。
「ど、どういう意味です」
「あんたのボスは解任になったよ。同時に国家危機調査室とやらは解体された。つまり、あんたの特別措置について合意した日本側の主体者が消滅したんだ」
「ボスが……解任になった?」
マイミはあんぐりと口を開けた。
つづく




