閉鎖都市ノリリスクの逆襲(1) ~凍てついた大地~
マイミの前に置かれたのは缶詰だ。
ロシア語で“旅人の朝食”と書かれている。
「食べていいよ」
アレクサンドル・バシュラチョフは優しく言った。
柔らかくウェーブのかかった金髪に、青い瞳。肌は白く、頬はピンク色。
人形のように整った、どこか愛らしさを感じさせる容貌。
マイミはアレクサンドルのあまりにも整った顔が急に近づいてきたため、驚いて照れ笑いを浮かべた。
「でへへへ」
笑ってしまった後で、我ながら下品な笑い声だと反省する。
だがアレクサンドルはまるで気にすることなく、缶詰に小さな缶切を突き立てた。
雪上車の中には、缶詰の蓋を切り裂く音だけが響いた。
「もう少しで救助が来ると思うんだ」
車の窓を、吹雪が叩く。
太陽が落ち、暗いせいで外の様子はまるで分からなかった。
「大丈夫よ、アレクサンドル。私は平気。東京から三千キロ以上離れた極寒のロシアの雪原地帯で、大型の雪上車を二台駆り出してガイドを四人も雇って目的地を目指したものの、途中で車が動かなくなって遭難しかけて、一台の車が助けを呼びに行って、残されたガイドのあなたと私の二人きりだけど、大丈夫よ。ロシアで雪原地帯を移動する際は、そういう事態を想定しているからこそ、車二台をペアにして行動するのね。さすがはフィギュアスケート大国だわ」
「何だか説明口調だね」
「気にしないで、癖だから」
缶詰が開いた。アレクサンドルは優しくマイミの方にそれを差し出す。中には酢漬けのニシンのように見える灰色の物体がぷかぷかと浮いていた。
しばらく履きっぱなしにしていた靴下か、夏場の腋臭のような臭いが鼻をついた。
「食べていいよ。お腹が空いただろう?」
「ありがとうアレクサンドル、美味しそうな缶詰ね。だけど遠慮しとくわ。そんなにお腹は空いてないから」
「そうか……」
アレクサンドルは悲しげに言うと、缶詰にスプーンを突き立て、口へと運ぼうとした。
臭いにむせ返る。
「うえっ、臭い。何だこれ。吐きっぱなしの靴下みたいな臭いだ」
そう言うとアレクサンドルは車の窓を開け、缶詰の中身を外へと捨てた。マイミはその様子に白目を剥いた。
「……まいったな」
アレクサンドルが美しい顔を曇らせた。
「まいったわね」
マイミが同意する。
「このまま救助が来なければ、あたしたち二人はこの凍てついた雪原地帯でさっぽろ雪祭りの彫像みたいになるわけね」
「……まぁ、あんなに大きな雪像にはならないけどね」
アレクサンドルははにかんだ様に笑った。
「それにしても、マイミはなぜノリリスクなんかへ向かうわけ?あの街はニッケルとパラジウムを産出する以外に、何もない街なのに」
「そうね、それを説明するには第一章の第二話あたりを振り返る必要があるわ」
「第一章?」
「あ……いやこちらの台詞。あのね、日本で国際手配のかかった窃盗団が、クリーチャーを盗み出すという事件が発生したの」
「クリーチャー?ああ、馬女とか、クモ男のことね」
マイミは曖昧にうなずいた。クリーチャーは基本的に、各地の神話伝承に出てくる化け物の姿を踏襲する。果たしてロシアにどんな怪物の伝説があるのか、マイミは想像さえできなかった。
「……まぁ、そうね。それの日本版。誰かがそれを、ロシアに密輸しようとしていたの」
「へぇ……日本車なら買い手がつくだろうけど、化け物なんかどうするつもりだろうね」
本当に、どうするつもりなのだろう。
マイミにも想像がつかなかった。
一つ言えるのは、その企みが大きな力によって先導されているということだ。
アレクサンドルの言い分じゃないが、日本車じゃあるまいし、クリーチャーを密輸しても売りさばくわけにはいかない。危険を犯して化け物を集めようというからには、奴らの生態系を調査・研究しようという思惑があるに違いないのだ。
だとすれば、それはおそらく国家レベルの意思で行われている。
マイミはアメリカで会ったホーリーとモーリーを思い出した。
彼らは国家安全保障局の一員であり、全世界に出没するクリーチャーを、人々の思念が実態化したもの、超共感性思念体(Super Pneumatronics Material)だと名付けて分析していた。
そしてそれを倒すことができる作用を持つ銃弾と、その作り手であるガンスミスのヴィンセント・ファーニアを管理下におさめたのだ。
双子は言った。クリーチャーは戦争とテロに続く、新たな世界の脅威だと。
だとすれば、それをコントロールしようとしている国はアメリカだけではないはずだ。
国家危機調査室のトップである官房長官の甘粕幸四郎は、ロシアも超共感性思念体(Super Pneumatronics Material)の研究を進めていると考えた。そして様々な諜報機関による情報収集の結果、ロシア最北端にある閉鎖都市ノリリスクに、ロシア国軍が研究者や機材を集積していることを突き止めたのだった。
閉鎖都市であるノリリスクは、ロシア側の公式な許可がなければ立ち入ることが許されない。
霧崎マイミはただ一人の国家危機調査官として、公式に許可を得てノリリスクへ訪問することとなったのだ。
「マイミ、救援が来たみたいだよ」
窓の外を見ていたアレクサンドルが無邪気に笑った。こちらに近づく四つのヘッドライトを見たマイミはほっとした。それと同時に、アレクサンドルの無垢な態度に癒されていた。
長らく東西に分かれて冷戦を続けていたせいで、日本人はロシアに馴染みがないが、話してみれば純朴で親しみやすい人たちだ。ロシア語の話せないマイミを、ガイドたちは一生懸命サポートしてくれているのが分かった。
だが一旦ノリリスクに着いてしまえば、日本側の代表としてロシア国軍との過酷な交渉が待っていることが予想された。
ロシアは、呪いの銃弾を撃つことができる銃を隠し持っている。
マイミはそう確信していたからだ。
つづく




