第9話 甦醒符と人間デコイ
戦闘開始から三十時間。
呪詛谷に、二度目の夜が訪れようとしていた。
谷底を駆け続ける私の呼吸は、すでに浅く熱を帯びていた。
三十時間の不眠不休。足首は悲鳴を上げ、喉はカラカラに渇き、維持コストと自然魔力回復の帳尻を合わせる脳の演算領域は限界に近い。
だが、追い詰められているのは私だけではない。
――《生命視》。
モルゴスの総生命量、残り三万二千。
当初十二万あった生命力は、すでに四分の一以下にまで削れ落ちていた。
黒鉄の呪殻はボロボロに剥がれ落ち、流れる血は紫色の毒に侵されて黒く濁っている。
その時だった。
モルゴスが突如足を止め、谷底の空間が不気味に歪んだ。
胸核が異様な光を放ち、周囲の瘴気を一気に吸い込んでいく。
「な……あれは!」
崖の上で戦況を見守っていた老練な魔導士が、顔色を変えて叫んだ。
「《浄化の咆哮》じゃ! 体内のあらゆる魔術干渉を吹き飛ばし、敵意を白紙に戻す厄災の全体咆哮! 前回の討伐隊も、あれで陣形を崩されて全滅したんじゃ!」
特級変異個体――《呪獣モルゴス》。
自らの生命が限界まで削られ、このままでは死に至ると本能で悟った巨獣が、ここまで温存していた切り札を解き放ったのだ。
ヴォォォォォォォンッ!
空間を裂くような高周波の絶叫。
衝撃波が谷を舐め尽くし、私が張り巡らせていた十八重の術式が、一瞬にしてすべて霧散した。
同時に、モルゴスの赤い複眼から私への敵意が完全に消失する。
敵意の白紙化。
ターゲットを見失った巨獣は、最も近い位置――倒れていたガルド、あるいは崖の上の兵士たちを一網打尽にすべく、狡猾な殺意を滾らせて前足を振り上げた。
「くそっ、術が全部消えたぞ!」
「あんなのどうすりゃいいんだ!」
崖の上がパニックに包まれる中――私は息を整え、懐から一枚の黄色い紙符を取り出した。
ノクティス家秘伝――《甦醒符》。
肉体に生命の火種が微かに残る「絶命後数秒」の間だけ、魂を肉体に縫い止めて強制再起動させる禁忌の術。蘇生のたびに神経を焼き焦がす激痛が走るため、平時では到底使えない代物。
「ガルド様。出番ですわ」
「……あ?」
岩壁の下で気絶しかけていたガルドの額に、私は走り抜けざまにペタリと紙符を貼り付けた。
バチィッ!
電流のような魔力が走り、ガルドの目がカッと見開かれた。
生命力ゲージが、ピクリと「1」だけ点灯する。
「がはっ……!? な、なんだ!? 全身が焼けるように熱ぇ……!」
「生命力1の強制蘇生ですわ。ガルド様、そのまま三歩前へ出て、最大出力で《挑発》を」
「はぁ!? 俺いま息してるだけで限界だぞ! かすり傷で死ぬわ!」
「ええ、ですから死んでくだされば結構ですの。死ぬ直前の0・5秒で敵意さえ固定していただければ、私の術式再構築が完了いたしますわ」
「人の命をなんだと思ってやがるぅぅぅっ!」
ガルドは血を吐きながら叫び、だが騎士の本能で、震える腕で大剣を地面に突き立てた。
「――《挑発》! こっち見ろ化け物ぉぉぉっ!」
グオオオッ!
咆哮を上げたモルゴスの巨腕が、容赦なくガルドを叩き潰した。
ドガァン!
ガルドの身体がくの字に折れ曲がり、生命力は瞬時にゼロへ。即死。
だが――そのわずか一秒の隙に、私はすでにモルゴスの死角へ回り込んでいた。
――第一楽章《再生阻害》、再付与。
――第二楽章から第六楽章、全十八重スタック即時再展開。
再びモルゴスの心核に、毎秒百の純損耗が突き刺さる。
「よし。――《甦醒符》、二枚目ですわ」
私はすれ違いざまに、倒れたガルドの背中へ二枚目の紙符を貼った。
バチィッ!
「ぎゃあああっ!? ごほっ……! 痛ぇ……! 心臓が千切れそうだ……!」
「ガルド様、あと十歩右へ誘導を」
「くそっ……! 死んでたまるかぁぁぁっ!」
ズドォォォンッ!
再び吹き飛ばされて絶命するガルド。
「蘇生!」
「が、はっ……!」
「挑発を!」
「こんの……化け物がぁぁっ!」
「蘇生!」
「うおぉぉぉぉっ!」
谷底に響き渡る、死と再生の壮絶な狂詩曲。
血を吐き、全身を痙攣させながらも、蘇生のたびに敵意を繋ぎ止めるガルドの凄まじい執念。
崖の上で見守る辺境兵たちは、もはや言葉を失い、全員が青ざめて震えていた。
「お、おい……あの騎士、もう十回以上死んでるぞ……」
「なんて野郎だ……。骨が砕けてるはずなのに、一歩も引いてねえ……」
「魔物より……あの令嬢の計算の方が恐ろしい……」
だが、ヴァルテンだけは、その恐るべき光景に魂を震わせていた。
「……あれを人と呼んでよいのか。常識に縛られた凡夫を何百人並べたところで、あの厄災には届かん。……冷徹に命の天秤を使いこなし、誰一人死なせずに戦況を支配する。あれこそが――我が辺境が血を吐いて求めた、真の怪物だ」
戦闘開始から四十二時間。
幾度目かの蘇生を果たし、泥と血にまみれて地面に這いつくばるガルドの横で、私は懐中時計をパチンと鳴らした。
――《生命視》。
モルゴスの総生命量――残り一万二千。
ついに、あと一割。
「お疲れさまでした、ガルド様。あなたの献身のおかげで、敵意のリセットを完全に制圧できましたわ」
「……頼むから……二度とあの札を……俺に貼らないでくれ……」
掠れた声で地面に突っ伏すガルドに、私は優雅に微笑みかけた。
「ええ。もう必要ございませんわ。――ここからは、フィナーレですもの」
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