第8話 終わらないワルツ
夜の帳が下りた呪詛谷に、地を揺るがす地響きが鳴り響いた。
グオオオオオッ!
黒鉄の巨躯が、砲弾のような初速で私へと突進してくる。
体長八メートル、重量数十トン。掠るだけで骨が砕け散る質量の奔流。
「お嬢さん、下がれぇぇっ!」
怒号とともに、ガルドが身を投げ出すように割って入った。
大盾を両腕で固定し、全身の筋力を鋼鉄へと預ける。
ズッガァァァンッ!
火花が散り、衝撃波が谷底の瘴気を吹き飛ばした。
巨獣の角を受け止めたガルドの身体が、十メートルも土煙を上げて後退する。足元の岩が粉砕され、分厚い盾の表面に亀裂が走る。
「ぐ、がはっ……! 重え……! 内臓が千切れそうだ……!」
「ガルド様、四歩左へ回ってくださいませ。敵意の角度を維持したまま、そのまま後退を」
「無茶言うな! 踏ん張るだけで手一杯だ!」
「計算通りですわ。――第一楽章」
私は銀の懐中時計を指先で弄びながら、円運動のステップを踏み出した。
一歩、二歩、三歩。
モルゴスの巨体を常に半径三十歩の外側に置く、正確無比な円弧の舞踏。
――《再生阻害》。
――《終曲まで(ダ・カーポ)》。
冷たい紫の光条が、巨獣の脈動する心核へと音もなく突き刺さる。
毎秒二千四百を誇っていた異常超再生の蛇口が、力任せに絞め落とされる。
毎秒二千四百から、毎秒四百へ。
「グルァッ……!?」
モルゴスが違和感を覚えたように巨頭を振った。
傷を負えば瞬時に肉が盛り上がっていたはずの身体が、重く、鈍く軋み始めている。
「さあ、ここからですわ」
私は扇を美しく翻し、不可視の旋律を紡ぎ続ける。
第二楽章。《毒霧》三重ね。
第三楽章。《凍傷》三重ね――足首の関節に氷結の楔。
第四楽章。《呪蝕》五重ね――黒鉄の呪殻を透過し、神経系を直接蝕む。
第五楽章。《裂傷》四重ね――歩くほどに筋肉が自己損壊する出血呪詛。
第六楽章。《衰弱》三重ね。
――全十八重・多重重奏完了。
通常の魔導士ならば、術式同士の魔力反発で術者ごと吹き飛ぶ領域。
だがノクティス千年の調律術は、十八の異なる呪詛を、完璧なポリフォニー(多声合唱)として巨獣の体内に調和・定着させた。
――《生命視》。
総生命量、十一万九千八百。
再生レート、毎秒四百。
損耗レート、毎秒五百。
差し引き――毎秒百の、確実な純損耗。
「純損耗は毎秒百。ですが、三・六秒ごとの脈動で再生が一時的に跳ね上がる局面や、術式維持のための魔力回復インターバルを挟みます。……一進一退の波を織り込み、予定通り四十八時間で確実に削り落としますわ」
「な……おい、あいつ、何にも派手な魔法撃ってねえぞ!?」
「ただ走って……時計と扇を振ってるだけだ!」
崖の上で見守る辺境兵たちが、呆気にとられた声を上げる。
だが、壇上のヴァルテンだけは、その恐るべき事実に息を呑んでいた。
「……攻撃を当てていないのではない。すでにあらゆる毒と呪いが、あの巨躯の体内で回り切っているのだ。……一発も撃たずに、毎秒確実に命を削り取っている……!」
だが――戦況は平穏のままでは終わらない。
戦闘開始から六時間。真夜中。
体内の損耗に苛立ちを募らせたモルゴスが、不意に足を止め、標的をガルドから私へと切り替えた。
敵意の自然減衰。
弱体を維持し続ける私の存在に、本能的な殺意を向けたのだ。
「グルルルァァァッ!」
咆哮とともに、巨獣の突進が私の進路を塞ぐように迫る。
距離、十五歩。
「しまっ……お嬢さんッ!」
ガルドが血を吐きながら叫び、大剣を地面に突き刺して叫んだ。
「――《挑発》! こっち見ろ、この化け物野郎ぉぉっ!」
ガルドの全身から膨大な殺気が噴き出し、モルゴスの赤い複眼が再びガルドへと引き戻される。
巨獣の尻尾が、鞭のようにしなってガルドの胴体を薙ぎ払った。
ドガァッ!
大盾ごと吹き飛ばされ、ガルドの身体が岩壁に激突する。
吐血し、大盾を取り落として地面に崩れ落ちるガルド。生命力ゲージが赤く点滅し、完全な戦闘不能へと陥った。
「が……はっ……くそ……ここまで、か……!」
倒れ伏すガルドの横を、私は扇を広げたまま、三拍子の軽やかなステップで通り抜けた。
「ガルド様。ご協力、誠にありがとうございました」
「は……?」
「敵意の誘導、完璧でしたわ。おかげで私の計算は一秒も狂いませんでした。……これ以上動くと本当にお命に関わりますので、どうぞそのまま倒れていてくださいませ」
「た、倒れてろって……俺を置いて、一人で走る気か……!?」
「ええ。ここからはソロでのマラソンですわ」
私は振り返ることなく、暗闇の谷底を再び走り出した。
背後から迫る巨獣の足音。
夜風が肺を冷たく刺し、喉は砂を噛んだように渇く。靴底は岩肌に削れて擦り切れ、ドレスの裾は夜露と泥で重く湿っていた。
足首にはじわりと鉛のような疲労が蓄積し、魔力の自然回復量と十八重の術式維持コストは、常に綱渡りの家計簿。一瞬でも集中を乱せば、十八の術式が一斉に弾け飛び、私が即座に肉塊となる。
だが――私の瞳には、完璧な勝機の針が見えていた。
一歩、二歩、三歩。
円を描き、距離を保ち、秒針の拍子に合わせて毒の浸透を深めていく。
そして――戦闘開始から十二時間。
東の空が白み始め、夜明けの光が呪詛谷の霧を照らした瞬間だった。
ズゥゥン……。
モルゴスの巨大な前足が、初めて力なく崩れた。
狂暴に突進し続けていた巨獣が、息を荒らげ、自らの意思で――私から一歩、後退したのだ。
崖の上の兵士たちが、総立ちになって息を呑んだ。
「お、おい……見ろ……!」
「モルゴスが……あの無敵の呪獣が……後退したぞ……!?」
「エルセリア様は……本当に一人で、夜通し削り続けてたのか……!?」
前回の討伐隊の生き残りである若い兵士が、震える拳を握りしめ、祈るように呟いた。
朝日を背に受けながら、私はドレスの裾を揺らし、扇の陰で静かに微笑んだ。
「ええ。夜想曲は終わりましたわ。――さあ、朝のワルツを踊りましょう」
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