第7話 48時間、お時間をくださいませ
北の呪詛谷は、死の静寂に包まれていた。
すり鉢状にえぐれた巨大な岩谷。底には紫黒の濃密な瘴気が澱のように沈み、枯れ果てた大地の隙間から硫黄の煙が吹き上がっている。
断崖の縁に立つ私を見守るように、後方にはヴァルテン女辺境伯、大盾を握り直すガルド、そして武装した数十名の辺境兵たちが固唾を呑んで控えていた。
谷底の中央。
岩山と見紛うばかりの巨躯が、不気味に蠢いていた。
特級変異個体――《呪獣モルゴス》。
体長八メートル。黒鉄の甲冑を何重にも張り巡らせたような禍々しい呪殻を纏い、背中からは無数の骨棘が生え揃っている。その棘の根元には、かつての討伐隊長が佩いていたのであろう砕けた兜と、酸で半ば溶けた大盾の残骸が、肉と同化するように喰い込んでいた。
息を吐くたびに周囲の岩がジュクジュクと腐食していく、まさに生きた厄災。
「……あれがモルゴスだ」
私の隣で、ヴァルテンが腕を組み、鋭い眼光を谷底へ落とした。
「大火力の魔導砲を撃ち込もうと、皮膚を数センチ焦がすのが関の山。傷をつけても瞬時に塞がり、逆に怒り狂って突進してくる。三度挑んだ精鋭部隊は、いずれも三分と保たずに全滅しかけた。……どう見る、ノクティスの娘」
私は答えず、懐から銀の懐中時計を取り出した。
カチリ、と蓋を開く。
チ、チ、チ。
秒針が、冷徹に三拍子を刻み始める。
――《生命視》。
視界が白銀に冴え渡り、谷底の化け物の全容が、整然とした数値となって網膜に展開される。
位置条件。
半径八十歩の擂り鉢地形。退路のない円形闘技場――距離管理とマラソンには、これ以上ない舞台。
対象総量。
総生命量、十二万。
黒鉄呪殻による物理ダメージ九割減衰、属性魔法八割減衰。
持続変動。
異常超再生――毎秒二千四百。
暴走脈動周期、三・六秒。
「……なるほど。見事な肉体ですわね」
私は扇で口元を覆い、小さく呟いた。
王都の魔導士たちが放つ瞬間火力がどれほど高くとも、一撃の後に訪れる硬直時間の間に、毎秒二千四百の再生力ですべて帳消しにされる。
火力を足し算しようとするから勝てないのだ。
再生の蛇口を締め、損耗の重奏を積み上げる――引き算の調律さえできれば、この巨獣はただの巨大な砂時計にすぎない。
計算は、すでに完了していた。
《再生阻害》により、毎秒二千四百の再生を毎秒四百まで圧縮。
通常の魔導士ならば、二重、三重の術式を重ねただけで魔力の反発を起こして自壊する。だがノクティスの秘術は、多重の呪詛を和音のように調和させる。
そこに《毒霧》《呪蝕》《凍傷》を十八重まで重奏させ、継続損耗を毎秒五百まで引き上げる。
差し引き、毎秒百の純損耗。
総生命量十二万を、毎秒百ずつ確実に削り落とす。
敵意の減衰時間、魔力自然回復と維持コストの極限の家計簿、マラソンの周回速度――そして何より、一歩の踏み外しや瞬きの油断すら許されない、四十八時間の極限集中。
「どうだ」
ヴァルテンが低く問う。
「お前の術で、あれを殺せるか。……何分で決着がつく」
私は懐中時計をそっと傾け、振り返って微笑んだ。
「ええ、問題ございませんわ。――ただし閣下、分、ではございません」
「なに?」
「四十八時間、お時間をくださいませ」
「……は?」
ヴァルテンが眉をひそめた。
その背後で、息を詰めていた辺境兵たちから、一斉に失笑と怒号が噴き上がった。
「よ、四十八時間だと!?」
「バカ言え! 丸二日だぞ!?」
「我が領の精鋭が三分で壊滅した相手だぞ! 生身の令嬢が二日間もあの化け物の前で生き延びられるわけがねえ!」
「やっぱり王都の温室育ちは頭が湧いてやがる!」
罵声の嵐が吹き荒れる。
だが、ヴァルテンだけは笑わなかった。
篝火のような瞳で私を射抜き、低く問う。
「……四十八時間。一秒も足を止めず、一度のミスも犯さず、踊り続ける気か。瘴気に肺を焼かれ、足首を一歩でも挫けば即座に肉塊だぞ」
「ええ。拍を乱さなければ、天秤は必ず傾きますの」
私は扇を胸に当て、静かに一礼した。
「おい……正気かよ、お嬢さん」
蒼白な顔のガルドが、大盾を抱えて歩み寄ってきた。
「丸二日だぞ? 飯も食えねえ、一睡もできねえ。一発かすっただけでミンチになる化け物の前で、四十八時間走り回るってのか?」
「ガルド様。あなたには、適切な拍子で三歩前に出て、私の計算がズレないよう敵意を引き受けていただきますわ」
「……やっぱり俺も巻き込まれるのかよ!」
「ええ。死なない程度に、どうぞお付き合いくださいませ」
◇
太陽が西の山並みに沈み、空が群青から黒へと溶けていく。
日没。
呪詛谷の瘴気が最も濃く立ち込め、魔獣の凶暴性が跳ね上がる刻限。
私は一人、断崖の小道を降り、谷底の平地へと降り立った。
ザッ、と靴音が黒い土を踏む。
グルルルルル……ッ!
侵入者を感知した《呪獣モルゴス》が、地響きとともに立ち上がった。
八つの紅蓮の複眼が、暗闇の中でぎらりと私を捉える。
圧倒的な質量と、暴風のような殺意。
吹き荒れる夜風が、私の夜色の黒髪とドレスを激しく揺らした。
私は逃げることも、怯むこともなく。
右手に銀の懐中時計を掲げ、左手の扇を優雅に広げた。
カチリ。
秒針が、最初の拍を刻む。
――第一楽章。
「さあ」
闇の中、私は極上の微笑みを湛えて告げた。
「私とワルツを踊りましょう。――終曲まで、どうぞお付き合いくださいませ」




