第4話 回復はいたしません
「三拍子だと!? ふざけてんのか!」
ガルドの怒鳴り声とともに、荒野の空気が爆ぜた。
獣の荒い息が白く濁り、血の匂いを孕んだ冷風が頬を刺す。
二頭の《黒狂狼》が紅蓮の瞳をギラつかせ、低く唸りながら左右へ散開した。群れで獲物を狩る、狡猾な連携。
大男が地面を蹴り、身の丈ほどの大盾を構えて突貫する。元・近衛騎士の技量に曇りはない。
だが――狂暴化した魔獣の初速は、人間の反射神経の限界をわずかに上回っていた。
ガキンッ!
重厚な鉄の衝突音。
一頭の牙を盾の面で完璧に弾いたガルドだったが、もう一頭が視界の死角から鋭利な鉤爪を振り下ろした。
分厚い鋼鉄の籠手が裂け、鮮血が宙を舞う。
「ぐっ……! おい、お嬢さん! 治癒魔法はあるか!? かすり傷だが、止血しねえと盾が支えられねえ!」
血を滴らせながら叫ぶガルドに、私は歩みを止めることなく答えた。
「回復は、いたしませんわ」
「……はぁ!? あんた、護衛を見殺しにする気か!?」
「今あなたに治癒の光を注げば、生じる魔力の圧で魔獣の敵意が私へ跳ね上がりますの。そうすれば私の計算が三秒ズレますわ。余計な筋力を使わず、そのまま倒れていてくださいませ」
「倒れてろって……おい!?」
目を剥くガルドの横を、私は扇を広げたまま滑らかにすり抜けた。
一歩、二歩、三歩。
ワルツの歩幅で、風上を取る。
魔物は「殺意」と「魔力の圧」に反応する。
大火力の攻撃魔法は巨大な標的となるが、私の弱体術式が帯びる魔力圧は、朝露の蒸発よりも微弱。
狼たちの赤い瞳には、いまだ大盾を構えて荒い息を吐くガルドしか映っていない。
――《生命視》。
視界の端で、世界の理が数字へと変換される。
位置条件。距離、十二歩。風向き、北西から風速三メートル。
魔獣二頭。総生命量、各一万二千。狂暴化により攻撃力二倍、痛覚遮断。
野盗十二名。平均生命量九百――疲労度六割、恐慌閾値まで、あと二拍。
「さあ、私とワルツを踊りましょう」
私は扇を胸元で小さく回し、指先から紫煙を放った。
第一楽章。《鈍重》および《凍傷》。
風に乗った冷気が、二頭の黒狂狼の四肢へ音もなく絡みつく。
跳躍の初速が半分に落ち、しなやかな筋肉がキシキシと音を立てて硬直を始めた。
「グルァッ……!?」
着地に失敗し、前足を崩す魔獣。
だが、狂暴化で痛覚を遮断されている彼らは、己の脚が凍りつき始めている事実にすら気づかない。
続けて、第二楽章――《呪蝕》二重重奏。
黒い霧が狼たちの毛並みに染み渡る。
毎秒二百の継続損耗。
派手な傷口も、爆炎もない。ただ、生命力のゲージが一定の拍子で、確実に削り取られていく。
「総生命量一万二千。毎秒二百の損耗――あと五十八秒で、綺麗に沈みますわ」
「な、なんだあの女……!? 何もしちゃいねえぞ!」
「おい、狼どもが動かねえぞ! やっちまえ!」
何が起きているか理解できない野盗たちが、抜き身の剣を振りかざして私へと雪崩れ込んできた。
距離、八歩。
――《罪量刻印》。
男たちの胸の奥、略奪と殺戮で積み上げられた真っ黒な澱が、鮮明に浮かび上がる。
ノクティスの秘術が、彼らの負債を正確に計測する。
「積み重ねてこられたのでしょう?」
私は扇を広げ、風下へ向けてそっと一息を吹きかけた。
第三楽章。《毒霧》――罪量増幅展開。
不可視の毒が、突進する野盗たちの肺腑を満たした。
罪の重さに比例して、毒の浸透圧が十倍に跳ね上がる。
「ガハッ……!? げ、下水……喉が、焼け……!?」
「目が……前が、見えねえ……!」
刃を振り上げたまま、先頭の男が血を吐いて膝をついた。
二歩進むごとに、一人、また一人と武器を取り落とし、地面を転がり回る。
生命量九百の脆弱な肉体。
毒による毎秒百五十の損耗に加え、呼吸困難による恐慌閾値の突破。
物理的な斬り合いなど、最初から発生し得ない。彼らはただ、私が広げた「毒の檻」の中へ自ら飛び込み、自壊しているにすぎなかった。
「ヒッ……ば、化け物めが……!」
最後尾にいた頭目の男が、恐怖に顔を引きつらせながら懐から毒塗りの短矢を抜き放った。
手負いの獣のような、自暴自棄の投擲。
「死ねぇっ!」
「くそっ、お嬢さん伏せろ――!」
倒れていたガルドが激痛を堪えて身を起こそうとする。だが、間に合わない。
私は歩みを緩めることすらなく、手元の扇をわずかに傾けた。
カチリ、と懐中時計の秒針がひと目盛り進む。
――《魔力漏出》および《神経麻痺》。
投げ放たれる直前、男の右腕の魔力筋が完全に遮断された。
力なく足元へぽろりと落ちる短矢。男は自らの痺れた腕を見つめ、泡を吹いてその場へ崩れ落ちた。
その時、瀕死の黒狂狼の一頭が、狂乱のまま最後の力を振り絞って私へと首を伸ばした。
死に際の無軌道な突進。
「あ、危ねえっ――!」
私は扇の先端で、狼の鼻先をわずかに撫でるように受け流した。
三拍子の円運動。相手の運動エネルギーをそのまま円の外側へと逸らす。
「おや。風向きの乱れで、二歩ズレましたわね」
ドサリ。
狼は私のドレスの裾に触れることすら叶わず、勢い余って地面へ激突し、そのまま二度と動かなくなった。
もう一頭の狼も、ちょうど五十八秒を刻んだ瞬間に、糸が切れたように息絶える。
街道に、完全な静寂が訪れた。
転がる十二人の野盗は、全員が痙攣しながら白目を剥いて昏倒している。
横転した荷馬車の陰から、救出された商人たちが、腰を抜かしたまま震える瞳で私を見つめていた。
パチン。
私は扇を閉じ、手元の銀の懐中時計を収めた。
「お疲れさまでした。ちょうど三拍子――いえ、風のいたずらで二秒ほど遅れてしまいましたわ」
私は懐から清潔な麻布を取り出し、座り込んだままのガルドの足元へそっと落とした。
「傷口は浅層。失血も軽微、腱の損傷もありませんわ。……戦闘中に治癒魔法で敵意を集めるより、終わってからこうして清潔な布で圧迫止血する方が合理的でしょう?」
「……」
右腕を押さえたまま、地面に座り込んでいたガルドが、呆然と口を開けていた。
その顔には、先ほどまでの荒々しさは微塵もない。
すべてを秒単位で計算し尽くし、「血を流さずに場を解体した」令嬢の底知れぬ凄みに、言葉を失っていた。
「おい……」
震える声で、ガルドが私を見上げる。
「あんた……一体、何者だ?」




