第3話 辺境行きの馬車にて
車輪が小石を踏み砕く、乾いた音が続く。
屋敷を出て半日。豪奢な王都の尖塔はとうに地平線の彼方へ消え去り、視界に広がるのは枯れ草と灰色の岩肌ばかりになっていた。
隙間風の吹き込む粗末な幌馬車の中、私は膝の上に置いた真鍮の懐中時計をそっと撫でる。
チ、チ、チ。
秒針が、規則正しく三拍子を刻んでいる。
裏蓋の真鍮には、古い文字で家訓が彫り込まれていた。
――『拍を乱すな。罪は必ず、利子をつけて戻る』
父が「不要な過去の遺物」と切り捨てたこの時計こそが、建国期より代々受け継がれ、三百年前の大戦でも戦乱を調律したノクティス家の形見。
忘れ去られた調律者の証。
「……おい、お嬢さん」
御者台から、不躾な声が飛んできた。
幌の隙間から覗くと、手綱を握る大男――私の護衛として付けられた騎士が、煙草の煙を吐き出しながら肩越しにこちらを見ていた。
ガルド・レイン。
元・王都第三騎士団の騎士。
背中には身の丈ほどもある無骨な大盾と大剣を背負い、岩を削り出したような強面には無精髭が伸びている。
「何かしら、ガルド様」
「様付けはやめろ。背中が痒くなる。……あんた、本当にノクティス伯爵家の令嬢なのか? 王子の婚約者だったって話だが、身包み剥がされて辺境送りだっていうのに、やけに落ち着いてやがる」
「取り乱したところで、馬車の速度が上がるわけでもございませんもの」
私が微笑むと、ガルドは「へっ」と鼻を鳴らした。
「肝が据わってやがる。……だがよ、噂じゃ『撃破数ゼロの無能』ってことで放り出されたんだろ? 弱体魔術の専門だとか」
「ええ。記録上は、その通りですわ」
「はっきり言うが、あんた、本当に戦えるのか? 俺たちが向かってるグレンヴェルド領は、王都の温室とはわけが違う。瘴気が立ち込め、傷口が数秒で塞がるような化け物がうろつく最果ての泥沼だ」
ガルドの口調はぶっきらぼうだったが、そこには侮蔑ではなく、現実を見据えた警告の色があった。
――視える。
《罪量刻印》。
私は扇の陰から、彼の胸の奥を静かに観察する。
アルヴィス殿下のような浅ましい自己顕示も、リーゼロッテ様のような底知れぬ黒い澱もない。
あるのは、職務に対する愚直な誠実さと、ほんの少しの不運の影だけ。
聞けば、この男は王都の騎士団で上官の不正と無謀な火力至上主義を真っ向から批判し、煙たがられて「追放令嬢の護衛」という名の左遷を押し付けられたのだという。
「ご心配には及びませんわ」
私は静かに答えた。
「戦う、というよりは……調律する、と申し上げた方が正確かしら」
「調律? なんだそりゃ。魔物の前で歌でも歌う気か?」
「ええ。相手の命が尽きるまで、丁寧に。――もっとも、聴き心地はあまりよろしくないでしょうけれど」
「……ますますわけが分からねえな」
ガルドは首を振り、手綱を握り直した。
「まあいい。俺の仕事はあんたを無事にグレンヴェルドまで送り届けることだ。道中で野盗や魔物が出たら、俺が前に出て盾になる。あんたは馬車の奥で大人しく縮こまってな」
「頼もしいことですわ」
私は扇を胸元で弄びながら、そっと目を細めた。
グレンヴェルド領。
王国北端に位置し、かつての大戦の傷跡が今なお色濃く残る不毛の荒野。
王都の魔導士たちが誇る「一撃必殺の大火力」が通用しない、超再生と強靭な耐性を持つ呪獣たちの巣窟。
父は「野垂れ死ぬ場所」として私をそこへ追放したつもりでしょうけれど――
私にとっては、ようやく私の術が真価を発揮できる、最高の舞台に他ならない。
その時だった。
ヒヒィン、と前を走る馬が甲高い嘶きを上げ、足を止めた。
「……チッ、なんだ?」
ガルドが即座に手綱を引き、鋭い視線を街道の先へ向ける。
緩やかな丘を越えた先、立ち並ぶ枯れ木の間から、黒々とした煙が一本、空へと立ち上っていた。
風に乗って運ばれてくる、焦げた匂い。
それから――怒号と、金属の打ち合う悲鳴。
「隊商が襲われてやがるな」
ガルドが御者台から身を乗り出し、状況を確認する。
街道の中央には横転した二台の荷馬車。
護衛の傭兵たちが血を流して倒れ伏し、それを取り囲むように十数人の武装した野盗が刃をギラつかせていた。
だが、ただの野盗ではない。
グルルル……と喉を鳴らし、野盗たちの足元に侍っているのは、体長二メートルを超える二頭の漆黒の野獣。
赤く光る複眼に、針のように逆立つ毛並み。
「ありゃ……《黒狂狼》か! 野盗ども、調教した魔獣をけしかけてやがるのか!」
ガルドが舌打ちし、背中から巨大な大盾を引き抜いた。
ずしり、と重い鉄の音が響く。
「おい、お嬢さん! 言った通り馬車の中に隠れてろ! あの魔獣は狂暴化してて手がつけられねえ。俺が前に出て時間を稼ぐ!」
大剣を抜き放ち、ガルドが地面へと飛び降りた。
屈強な背中を丸め、盾を構えて突貫しようとする。
その粗野で、しかし迷いのない背中を見つめながら――
私は静かに馬車の扉を開けた。
トン、と靴音を響かせて荒野の土を踏む。
冷たい風が夜色の黒髪を揺らした。
「おい!? 降りてくるなって言っただろ!」
振り返ったガルドが目を剥いて怒鳴る。
私はドレスの裾を払うと、右手に銀の懐中時計を、左手に扇を取った。
カチリ、と蓋を開く。
――《生命視》。
視界が澄み渡り、前方の賊と魔獣たちの生命脈動が、整然とした数値となって網膜に展開される。
野盗十二名。
黒狂狼二頭――総生命量、各一万二千。狂暴化による攻撃力二倍、痛覚遮断。
距離、四十歩。
風向き、北西。
こちらの陣形――前衛一、後衛一。
「ガルド様」
「あぁ!?」
「時間を稼ぐ必要は、ございませんわ」
私は扇を優雅に広げ、極上の微笑みを湛えた。
「ちょうど三拍子で、片付けましょう」




