第35話 父と、家督と
薔薇庭園の冷たい石畳の上に、一人の男が崩れ落ちるように膝をついた。
「……儂は、何という過ちを犯してしまったのだ……」
ノクティス伯爵家当主、グレアム・ヴァン・ノクティス。
かつて夜会の壇上で私を見捨て、家訓の時計一つを持たせて辺境へと追放した実の父親が、いまや震える両手で顔を覆い、子供のように涙を流していた。
「我が家の術は……日陰者の呪いなどではなかった……。王国の因果を支える、誇り高き『裁定者』の技であったというのに……。儂は宮廷での保身に怯え、世間の火力信仰に媚びへつらい……その真価を受け継いだ最愛の娘を、この手で切り捨ててしまった……!」
石畳に額を擦り付け、慟哭する父。
国王も、重臣たちも、静まり返ってその姿を見つめていた。
かつて栄華を誇った名門の当主が、自らの浅ましさと愚かさに打ちのめされ、衆目の前で地に伏している。
私はゆっくりと父の前へと歩み寄り、冷ややかに見下ろした。
胸の奥に湧き上がったのは、激しい怒りでも、復讐の快感でもない。
ただ、淡々とした「清算」の調べだった。
「顔をお上げなさい、父上」
「エ、エルセリア……! 許してくれ……儂を罵ってくれ……! お前を辺境へ追いやった儂は、父親としても、当主としても失格だ……!」
「ええ。失格ですわ」
私の静かな肯定に、父は息を呑んで顔を上げた。
「ですが、貴方を恨んではおりません。……貴方もまた、二百年前に仕組まれた欺瞞の水槽の中で、呼吸の仕方を忘れてしまった哀れな一人に過ぎませんもの」
私は懐から、あの古い銀の懐中時計を取り出した。
辺境行きの馬車の中で、父が無言で手渡してきた唯一の遺産。
蓋の裏に刻まれた、ノクティスの家訓――『拍を乱すな。罪は必ず、利子をつけて戻る』。
「父上。貴方が私にこの時計を託したのは、家から追い出すためではなく……心の奥底で、我が家の真実を私に託したかったからではありませんこと?」
「そ、それは……」
「その期待には、完璧にお応えいたしましたわ」
パチン。
私は銀時計の蓋を閉じ、毅然として胸元へと掲げた。
「ノクティスの家督は――これより、私が継承いたします」
「……っ!」
「保身のために権力に阿り、時代に惑わされた貴方は、領地の奥で静かに隠居なさいませ。……この国に真実の拍を取り戻し、王家との『裁定者契約』を真に結び直すのは、辺境の調律者たる私です」
罵倒すらなく、ただ冷徹に、絶対の格の違いをもって下された世代交代の宣告。
父グレアムは、ただ涙を流しながら深々と頭を垂れ、その決定を受け入れた。
「……異論はない」
庭園の沈黙を破り、国王陛下が重々しく口を開いた。
その瞳には、一国の王としての深い慚愧と、責任を引き受ける確固たる覚悟が宿っていた。
「二百年前に王家が盟約の拍を乱し、真の守護者であったノクティスを日陰へと追いやった不義……王を代表して心より詫びよう。二度とこの国の拍を狂わせぬためにも、王家は過去の過ちをすべて清算し、盟約の再建を果たす責務を負う」
国王は息を整え、厳かに宣告した。
「ノクティス家の名誉を完全に回復し、エルセリア・ヴァン・ノクティスを新当主として承認する。……いや、八百年の負債を清算した功績を鑑み、伯爵から『公爵』へと陞爵いたそう。エルセリア公爵、王国の真の調律を、改めてそなたに託す」
「こ、公爵だと……!?」
「弱体使いの家系が……筆頭公爵へ……!」
重臣たちから息を呑むようなどよめきが走り、父グレアムは自身のはるか高みへと昇り詰めた娘の姿に、さらに蒼白となって地に伏した。
「謹んで拝命いたしますわ、陛下」
私が優雅にカーテシーを捧げると、庭園を取り囲む近衛騎士たちが一斉に剣を掲げ、最敬礼を捧げた。
ノクティス家への二百年越しの冤罪が雪がれ、真の頂点へと返り咲いた瞬間だった。
◇
だが――庭園の歓声の陰で。
回廊の暗がりを逃げ延びた宰相オズワルドは、自らの執務室に鍵をかけ、血走った目で金庫の隠し扉を開けていた。
「おのれ……小娘が……調子に乗りおって……!」
オズワルドの震える手から取り出されたのは、禍々しい紫黒の光を放つ鉱石の破片。
討伐されたヴォルグレイドの心核から、彼が秘密裏に回収させていた――《厄災の核片》。
「八百年の権力を……この余が手放すと思うか……! 貴族院を動かし、あの娘を『王権を脅かす処刑人』として告発してやる……! そして――」
オズワルドの唇が、狂気じみた笑みに歪んだ。
「失脚寸前の、あの哀れな偽聖女を使ってな……!」
チ、チ、チ。
真の断罪劇の最終幕へ向けて、秒針は止まることなく刻まれ続けていた。
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