124話 あいしてる
暫くの間沈黙と共にそれぞれ部屋の内装を見回していたが、ついに小さな深呼吸と共に喉を震わせたのはチトだった。視線の先は空っぽのベッドに向けられており、そっと近づいていく足音だけが甲高く部屋に響き渡っている。
「…魔王がさ、あったままの状態を保っておくよう当時城に仕えていた術死に命令していたらしいんだ。当時の俺は、現実を直視させる事で更に自分を追い詰めようとしてるのかって腹が立って仕方がなかったけど…今なら、分かる。俺が記録として流そうとした過去をいつか受け入れられる日が来る為に、敢えてそうしてくれたんだろうなって」
自嘲の笑み、それから苦笑。似て非なる表情を並べたチトは、それでも決して魔王の存在を馬鹿にするような事だけはしなかった。淡々と事実を語っているように見せかけて、自分自身に言い聞かせている様な。そんな曖昧な口調と表情で静かに自身の考えを並べたかと思えば、今度は葵の方に視線を向けて肩を竦める。方向性のまとまっていない、落ち着かない振る舞いこそが未だチトがこの部屋で起きた嘗ての出来事に全ての理解が及んだわけではない事を示しているような気がした。
「魔王は…父さん、は…どこまでも魔王らしい男だったんだ。でも、悪人でもなかったんだと思う。俺の頭を不器用な力加減で撫でてくれた手も、最期の言葉も、一度だって嘘だとは感じられなかったから」
無意識なのだろう、震えた手元でそれでもしっかり握りしめたのは普段は遣わない銀色の杖。嘗て魔王軍の一員として戦闘行為を繰り返していた時代は、常に手元にあった杖。僅かな躊躇いと共に小さく振れば、途端に部屋の中に柔らかな風がどこからともなく吹き抜けた。途端に部屋そのものを固定していたのだろう、時空魔法が込められた魔法陣の魔力が空気中を溶け出し、はめ込まれた窓をすり抜けて空の彼方へと旅立っていく気配に気付いて葵は思わず目を見開いた。それは、この部屋の状態を保存し時空を留める役割を果たしていた、父親の意志を尊重する魔法陣を自らの手で解除した合図だったからである。
「この部屋の…まさにこの場所で、母さんは例の魔法を使ったんだ。対象者に不老不死の…祝福を、与える魔法陣。オーフに古くから伝わってきた真実の愛を象徴する魔法」
静かに枕もとを撫でたチトの掌は、人だけが忽然と姿を消したようにベッドに広がっていたドレスを手に取って丁寧に畳み始める。手元が覚束ないのか、何度も畳み直しを繰り返しては小さく息を吐き、ついには抱きしめる様な素振りすら見せた。
「怖かったんだ。どうしてって、ずっと聞きたかった。きっと母さんは、本当に俺の事が見えなくなっていたんだと思う。いや、違うな…父さんを愛することでしか、自分の居場所を見つけられなかったんだと思う。俺じゃ、母さんの拠り所にはなれなかったんだ」
遂にドレスを畳み終えたチトは、そっとベッドの端に腰を下ろして皺になっていた部分を整えるように触れる。葵の位置からチトの表情を窺う事は出来なくなっていた。
「ある時、呪いの解除目的で歴史を調べた事があった。母さんが勇者パーティーの一員、聖女として戦っていた時代の話。圧倒的な武力を誇る魔王を前に壊滅状態へ陥った仲間たちを生かし、次代に繋げる為には誰かが犠牲となって魔王城に留まる以外の方法は確かに存在しなかった。全滅すれば、折角命懸けで集めた情報も、功績も、何もかもが無駄になってしまう状況だったから。元々自力で本国に帰れる余力があったのは勇者しかいなかったらしい。だから当時の聖女は…母さんは、他の仲間たちを勇者に保護させる条件で自ら魔王城に残る決断を下したらしい」
それは、葵がオルコス伝手で聞いたよりもっと詳しい当時の魔王討伐に挑んだ人類の話だった。説明を続けるチトの表情は相変わらず見えないが、その声色はどことなく自らの母親を誇らしく思っている様に聞こえる。気のせいなのかもしれないが、葵はそう信じたいと確かに思ったのだ。
「きっと、恐怖で震えて正常な精神状態なんて碌に保てない状況だっただろう。面白がった強力な魔物たちに弄ばれて、完全に精神を崩壊させる寸前で…手を差し伸ばしたのが敵対していた筈の魔王、つまり父さんだった。勿論方法は強制的に手籠めにして城の奥深くの部屋に押し込むなんて滅茶苦茶なもんだったけど…それでも、絶望しきった母さんの中であの頃の父さんの存在は、希望の光そのものに思えたんだろう。当時の俺は全く気付いていなかったけど、魔王の手付きとしての母さんは破格の扱いを受けていたらしいし…なんて、まぁ過去の事実なんて何もかも、既に終わった話に過ぎないんだけど」
先程畳み終えたばかりのドレスを再び手に取り自らの胸元に摺り寄せたチトは、まるで本当に母親がその場所に居て自らを抱きしめてくれているかのように見えた。そうして暫く黙り込んでいたチトは、ようやくドレスをベッドの脇に置いて立ち上がると葵の方へ視線を向けた。その表情はどこか寂しさを見え隠れさせる、頼りない幼い子供のように見える。咄嗟に口を開きかけた葵は、それでも何も言わない事を選んだ。今はまだチトの番だと、そう胸に刻み付けて。
「…母さんも、父さんも、イブキも、この世界にはもういない。皆過去の存在なんだ。葵をこの場所に連れ込んだのは、はっきり言って俺個人のけじめのためだな。イブキの複製体すらもういない世界で、この部屋を…全て片付ける。それは、俺がこれから人間とそう大差ない生を歩んでいく為の分岐点を自らに刻み付ける為なんだ。終点が存在する道乗りで、過去ばかりを振り返っている訳にはいかないだろうからな」
「……、……そ、っか」
隠し切れない震えに抗う様に下手糞な笑みを浮かべたチトを前に、葵は矢張り碌な言葉を返す事は出来なかった。自らの意志で葵の結論を尊重する選択をしてくれたチトにその場しのぎの言葉を投げ掛ける事が、酷く不誠実な事のように思えたからだった。チトも何も求めない。ただゆっくりと窓の方へ歩き出し、静かにその扉を開けば外から吹き込んだ風が脇に避けられたカーテンの裾を揺らした。
美しい満月が、満天の星空の中心に浮かんでいる。
「…さぁ、今宵は満月だ。世界を繋ぐには相応しい絶好の日和であり、従来の勇者召喚の儀を行う日時の目印とされていた状態でもある。いつまでも現状を引きずっていたって仕方がないしな。他の奴らも…勝手に察したみたいだったし?」
「んふ、熱烈な愛の告白されちゃった。チト君とは違って、皆自分の感情に素直な人たちやからね!」
「おい、今する話じゃねーだろ」
「じゃあいつするの?」
「……、」
いつも通りの軽口の応報の筈だったのに、葵の何気ない問いかけを前にチトは正しい答えを見つけることが出来なかった。薄っすらと、自分が悪い自覚位は流石に出来ているのだ。葵が最大限の許容を持ってチトの回答を認めてくれた事実に、気付いている。だからこそ、その問いに答えがない事実を指摘することができなかったのだ。
「んふ、冗談やって!そんな真面目な顔せんといて。…あーあ、あの時は驚いてまともな言葉返せんかったけど、チト君が代わりに皆に伝えといてよ。ウチの方が皆の事もっと、もーっと大好きだし……めーっちゃ愛してる、って!」
チトが困ると分かって、敢えて向けた問いかけ。案の定口を閉ざしてしまった馬鹿な愛しい男を前に思わず吹き出した葵は、いつものように強引に茶番を終了させようとした。わざとらしい大ぶりな手つきを言葉に重ね、最後には可愛らしいウインクのオマケを付けたというのにチトは曖昧な表情のまま黙り込んでいる。はて、意地悪し過ぎてしまっただろうかと僅かに葵の意識が逸れた瞬間、チトはようやく口を開いた。
「俺の事は、どうなんだ?」
息を呑んだのは、自分自身ですら想定していなかった問いかけが口から零れたチトだったのか、完全に油断していた葵だったのか。兎も角、沈黙を邪魔するのは窓の外から吹き込む高所風の音だけだ。僅かな混乱と共に葵の口から飛び出していたのは、もっと意味不明な疑問に疑問で返す最悪の状況。
「チト君はどうなん?ウチの事、どう思っとる?」
口にしてから、間違えたと思った。問いかけに見せた葵の言葉は、明確なたった一つの解答だけを求めた疑問符だった。その疑問に答えを求める事は、目の前のチトという存在においてのみ本当に残酷な事であると、葵は確かに理解していた筈だったのに。目を見開いて言葉を探す様に視線を落としたチトを前に、大混乱に陥っているのは葵の方だった。チトを苦しめる様な発言をしたかった訳ではない。ただ、いつも通りのやり取りを通して少しでも緊張感をほどこうと、その程度の軽い気持ちだったというのに。咄嗟に訂正しようとして、喉が動かないことに気付く。だって、葵だってその解答を喉から手が出る程聞きたかったのだから。どうしよう、どうすればいい。そんな言葉がぐるぐると葵の脳内を駆け巡っていたころ、一歩を踏み出したのは矢張りチトの方だった。
「言葉にするのは、中々難しいもんだな。…あい、ね。……ふは、俺もアオイの事、あい…し、」
自身にとっては呪いの等しい言葉。それでも、今この瞬間こそ葵に向けて音にするべきだとチトは理解していた。だからこそ振り絞った言葉は、突如無表情で近付いてきた葵によって強制的に塞がれる。
―――それは、互いにとって生まれて初めての口付けだった。
目を見開いたチトは、それでも葵を拒むことはなかった。緊張しているのか強く瞼を閉じて唇を押し付けてくる葵を暫くぼんやりと眺めていたチトは、いつの間にかゆっくりと開かれていった宝石の様な蒼い瞳と視線が絡み合う。
「…、ずっと見てたの?チト君のえっち」
「どっちの台詞なんだか」
名残惜し気にチトの肩を押して距離をとった葵は、窓に手をかけ満月を見上げる。片手には嘗てのイブキが愛用していた杖、杖先の美しい魔法石は魔法学園の入試に合格した際チトが葵に買い与え自らの手で取り付けた魔法石。首元に輝くのは入試を受けるより前、葵の無欲さに慌てたチトが買い与えた苦い思い出付きのネックレス、身につけている服だってイブキを意識して口にしてしまった普段着と化したローブである。耳にはルシエから送られた雫型のイヤリングが月光に反射して煌めいている。
全ては、葵がこの世界で得たものだった。
召喚前と全く同じ座標、時間軸に戻される予定である葵は、その全てを持って帰る事が物理的に不可能となる。元の世界に戻った葵は、何も持っていなかった孤独へと逆戻りする事になるのだ。
せめて、何か一つでも土産物を持っていけるよう魔法陣の調整を重ねればいいのに。そう思わず口にしそうになったチトは、葵がこの世界で物以上に沢山の”モノ”を手に入れた事を知っている事実を思い返す。
知識、友人、沢山の記録や記憶。何よりも、生きる意味。
嘗て箱庭と称された森の奥深くに佇んでいた小屋から始まり、終幕を迎えようとしている物語。葵はこんなにも沢山のものを得たというのに、更に形に残る物を与えられてその根本が覆らないとはチトも思えなかった。物は未練へと繋がるのだ。それは今、葵の目の前で嘗ての部屋を片付けようと誓ったチトと全く同じことだった。
「……きらきらひかる、おそらのほしよ」
葵の喉奥から振り絞る様に響き出した歌詞にのせて杖を振れば、チトの周囲を取り囲む様に魔法陣が浮かび上がった。頭では理解していながら、それでもと魔法陣の向こう側に手を伸ばそうとしたチトは、見えない結界に拒まれた感覚に宙に浮いた手を自身の胸元に引き寄せ拳を握る。
「「まばたきしては、みんなをみてる」」
どうしてだか、その歌を葵一人に奏でさせてはならないとチトは思った。葵一人の責任にしてはならないと、自らが認めた結末を肯定するために。僅かに目を見開いた葵を前に、どうにも熱くなる瞼を必死で閉ざしたチトは握った拳を震わせながらそれでも歌を紡ぐ。何度も聞いて、何度も歌った曲。教えてくれたのは、他の誰でもないイブキだった。けれども、自ら歌おうと思えるようになったのは葵と出会ってからの事である。
「「きらきらひかる、」」
嗚呼、曲が終わってしまう。チトの周辺に展開された膨大な葵の魔力は、同時に魔法陣の構築完了を示していた。
嘗ては永遠にさえ感じて居た魔法陣が組み上がるまでの時間が、これ程まで短く惜しいものだと気付く日が来るとは。もっと長く続いて欲しい、このまま永遠に歌が終わらなければいいのに。そんな無意味な願望を脳裏に浮かべたチトはそれでも自ら葵に追従して奏でる歌を止める事だけは絶対にしなかった。走馬灯のように駆け巡る、これまで葵と過ごした日常。小屋から始まり、学園に通う様になって、キーフを訪問する姿を見送って、オーフに同行して、そして魔王を討伐した。全て日常とは言い難い重大なものばかりだ。短い期間で、これだけの事を葵はやってのけたのだ。千年以上に渡って変わらなかったチトやソフィを、あっさりと変えて見せたのだ。無力である筈の人間が、被害者でしかないただの少女が。その事実のなんと素晴らしい事か、尊い事か。
震える瞼をどうにか開けば、目の前の葵がボロボロと大粒の涙を溢れさせている。その姿を見るのは、以前葵に改めて誕生日の記念品を贈った際にチトが用意したオルゴールの音楽を聴いた時以来二度目の事だ。その雫を拭いたい、何か声を掛けてやりたい。そう思うのに、チトの喉は震えた空気を押し出すばかりで言葉を紡ぐまでには至らなかった。
嗚呼、それでもどうか、この言葉だけは今だからこそ伝えてやりたい。葵は止めてくれたけれど、自分は伝えるべきだと本気で思えたから。
「禁忌魔法特例発動、」
翠の炎は現れない。それは、この場に居ないソフィが葵がその魔法を発動させる事を認めたからだった。誰しもが素直に安眠の魔法を受け入れたのは、自身の感情に引きずられてこの場に飛び込まない為だった。チトが自ら呼び出したのは、覚悟の表れだった。二人きりのように見せかけて、六人全員の想いを背負って発動する魔法。チトがこの場で躊躇する理由など何処にもなかったのである。
「アオイ…っ、愛してるよ」
「っ、真実の愛…!!!」
チトが忌むべきものとしていた嘗ての記録と同じ、眩い閃光が部屋中を包み込んだ。
―――
「おはよぉエトちゃん、寝相悪すぎて部屋まで移動しちゃったのぉ?」
丁寧に片づけられた一室は、嘗て魔王軍でも高い地位の女性が過ごした場所らしく華美な装飾品が目立つ。けれども、生活感は一切感じられない一室でもあった。中央に配置されたベッドに一人転がっていたチトは、目元を擦りながら近付いてきたソフィの気配に緩慢な動作で起き上がる。
「…はよ。夜に寝ぼけて部屋を出ちまったらしーな」
「ソフィ、チトは見つかったか…って、自分一人結局ベッドで眠る事を選んだのか?敷き布団もなかなか快眠だったぞ?」
「夜中に廊下を歩いて、元の部屋に帰ってくれなくなった?ん、元からチトが管理してる城なのに…情けない」
「酷い言われようだな、おい」
チトの姿を視界に入れたヴィルとルシエが言葉とは裏腹に僅かに眉を寄せた表情を隠しもせずに近付いてくる。暫く言葉を探そうか迷ったチトだったが、結局口をついたのは散々な言われように対する文句だけだった。
「チトさん、おはようございます!一番の御寝坊さんが決定しましたね…!」
「はいはい。…よし、これで全員…揃ったか。んじゃ、撤収作業を始めるぞ!」
オルコスの登場に肩を竦めつつ赤い目元を擦ったチトは、手元に大切に握りしめていたいくつかの装飾品をそっと胸元に寄せてから立ち上がる。騒がしく部屋を出ていく四人の後に続いて、部屋から抜けた。
扉の狭間でほんの一瞬足を止め振り返ったチトは、小さく笑って扉を閉める。
―――城の中に、一つの過去が終わる音が響き渡った。
評価やブックマークで応援して頂けると励みになります。次回も是非御一読下さい。




