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121話 三歩進んで五歩下がる


仲直りと称していいのかは不明だが、一先ずソフィは葵の意志を尊重する事に決めた様子である。とは言えそれ以上の話は一切お断りの姿を見れば、チトに対する葵の個人的な説得に力を貸すつもりは毛頭なさそうだ。全てを受け入れた訳ではない、これもまた人間らしい複雑な結論に見事辿り着いた証だった。それでも、物理的に高い壁だった最難関のソフィから口出ししない判断を捻りだす事に成功した事実があるだけでも、葵にとっては非常に大きな一歩である。何せ、相手は改めて実質世界そのもののチートエルフだったのだから。


オルコスからは休憩を兼ねた暫くの滞在を提案されたが、丁寧に断った葵は独り来た道を戻る一人旅を無事完了させた。家に帰るまでが遠足、小屋に帰るまでが一人旅…そして、元の世界に還るまでが葵の大きな分岐点なのだ。片道に要した時間を素直に漏らせば若干引き気味に必要分の完成された食料を馬車に押し込んだのは矢張りオルコスで、最後まで多少明るくなったとはいえどこか不安気な表情を浮かべたまま葵を見送ってくれた。一人旅の目的達成は間違いなく大成功を収めたのだ、と意気揚々と小屋に近付いた頃、その奥から感じる隠されない魔力の気配に再び気合を入れ直す事にする。


「…最終試練、やね」


肩を竦めた葵は正直な話、ソフィの説得に関してはどうとでもなると思っている節があった。大変である事は前提として、これまでの関係値の中で培ってきた人間性を上手く刺激する事さえ出来れば事実、反対意見を押しのける事に成功しているのだ。一方で最も考えが読めず未来が推測できないのが他の誰でもない、チトだった。


肺一杯に酸素を取り込んで深く吐いた葵は、玄関の扉に背中を預け静かに帰りを待ち侘びていたらしいチトに導かれるまま、いつもの席に腰を下ろす。片手一振りで用意された紅茶に直ぐ口を付ける事はしないまま、嘗て二人きりの世界だった頃と同様に向き合う状況に僅かな懐かしさを覚えながらもゆっくりとその深紅の瞳を射抜く。



ついに、葵がこれまでとこれからの全てに対する結論を得るための会話が、始まるのだ。



―――



「…チト君がお迎えしてくれたって事は、ウチの言い分を理解してくれたって解釈で間違ってないの?」


静かに葵の瞳を見つめ続けるばかりで中々初めの一歩を踏み出せないでいたチトに変わって、葵は言葉を発した。僅かに緊張感を見え隠れさせながらも、それでも余裕がある様に見える葵の姿に背筋を伸ばしたチトは、小さく息を吸う。これまで抱えてきた全ての迷いを、負の感情を、受け入れるかのように葵は見えた。


「お前は…俺の呪いを、解こうとしてるんだよな」

「…どうして急にそんな話に?」


葵は元の世界に還るか否かの話題は提示したが、チト呪いに関してこれまで一切態度や言葉に表してきたことはなかった。第三者から見れば、チトは葵が呪いの存在自体を知らないと判断できる程、完璧に触れてこなかったのだ。勿論優秀な頭脳と圧倒的な時間にものを言わせた経験値を持つチトが相手だ。様々な状況、周囲の反応、そして葵の現状を顧みればある程度の答えは導けるのかもしれない。そう理解していながらも、葵の口から零れたのは一体何故その問いかけに辿り着いたのかを知るための疑問だった。チトは表情を変える事無く僅かに言葉をため込んで、それから静かに話し始める。


「それしか、お前が元の世界に還ろうと考える理由が思い浮かばなかったからな。あのクソエルフは世界樹の力さえ行使すれば確実に俺の呪いを解除できるだろうが、本人にその気がないのはここ千年近くアイツを見てきて十分理解してるつもりだ。…じゃあ、この呪いを解除できる存在はアイツ以外の誰かになる」

「……へぇ?呪いと解除する方法に自力で辿り着いていたんや」


それは、チトが自身の呪いの正体とその解除方法を正しく理解していた事を表す発言だった。本人にも未だその内容に迷いや戸惑いがあるのだろう。瞳は僅かに揺れていたが、それでもチトは自身が置かれていた状況を全て正しく判断した上で、一切行動に移そうとはしてこなかったのだ。否、移せなかったのかもしれない。母親を通して愛の魔法を呪いと認識して長いチトが、そう簡単に他人の愛を受け入れる事なんて出来るはずもなかったのだから。


「結構前に、オーフを調べた事があったからな。元より呪いに対抗する術は基礎と対になっている事が殆どだ。真実の愛、誰かを愛する気持ちと発動者が持つ覚悟……つまり、その者の生涯を賭けて作り上げられた魔法なら、全く同じ方法で解除できても可笑しくはないだろうと推察していた時期もあったし。……核心に繋がったのは、割と最近の話なんだけどな」

「そこまで理解してて、一切行動してこんかったの?」

「お前…解っててその質問してるだろ、意地が悪い奴め」


半目になったチトは、肩を竦めて呆れたため息を吐き出しながらも葵から視線を逸らす事だけはしなかった。葵とて反射的に口から零れた言葉はまるで自分自身と碌に向き合わないチトを通して自分を見せつけられている様に見えて腹が立った故の八つ当たりの様なものだったが、チトは果たしてどう葵の軽口を受け止めたのだろうか。沈黙が支配する小屋の中でようやく少し冷めた紅茶に口を付けたチトは、ゆっくりと視線の先を紅茶の水面へと向けて口を開いた。


「誰からも愛されていないと、そう考えてきたからこそ永遠に解除のしようがない呪いなんだと…そう思ってたんだ。正攻法が意味を成さない以上、それ以外の解除方法を探すべく只管研究を続けてきた。最も、途中から本当に呪いを解除する意味があるのかも曖昧になってきてたけど…。なぁ、アオイ。お前は俺の呪いを解除できると判断してるのか?俺の事を……、愛しているのか?」


その言葉と共に顔を上げたチトの瞳の奥底に困惑や戸惑いが含まれているのならば、これまでと全く同じように邸宅蹴散らしてやろうと葵はそう決めていた。しかし、己を見詰める深紅の瞳は何処までも凪いでおり、全ての発言は確信を込めた上で吐き出されたものだと嫌でも理解させられてしまった。


嗚呼、もうお手上げだ。


わざとらしくため息を吐いた葵は、少しの間両手で自身の顔を覆い隠した。こんな二人きりの箱庭で堂々と正面から問い詰められて、それでも白を切れる程葵の精神は成熟して等いなかったのだ。永遠に、墓場まで胸の奥底に沈めておこうと決めつけていた筈の気持ちが一度暴れ出せば、最早制御など不可能に等しかった。


悔しい、苦しい、辛い。イブキだって最後まで直接口にする事はなかったのに。その言葉こそが、チトを取り囲む呪いの本質であると十分に理解しているというのに。


くしゃりと前髪を握りしめた葵は、やがて観念したように肩を落として視線だけをチトへ向けた。目の前で葵がこんなにもかき乱されているというのに、相変わらず冷静で全てを見透かしたような顔。何も分かってないくせに。こっちの気遣いも、意図も、何もかも知らないくせに、随分と身勝手なものだ。


「——————そう、やね。イブキは良い子だったから最後まで直接告げる事はしなかったみたいやけど…。ウチは、チト君の事を心の底から愛してるよ。恋愛的にも、勿論家族的にも。チト君にウチだけを見てもらいたいし、他の人に優しくしている姿だってほんまは見たくない。チト君の全てをチト君の口から知りたい。強い所も、弱い所も、本音も、何もかも…全部」


どうにも素直からは程遠い愛憎入り混じった末に自己嫌悪すら見え隠れする発言は、静まり返った小屋の中で良く響いた。結局気の抜けたどうしようもない自嘲の表情を浮かべた葵は、今すぐにでも逃げ出したい気持ちをどうにか押しやってはっきりと胸の内を明かして見せる。刹那の動揺すら見せず、未だじっと葵を見詰めるばかりのチトは何の反応も示さないまま、もうすでに限界だと言うのに更に葵の言葉の続きを待ち侘びているように見えた。何だコイツは、そんな暴言を喉奥に押しとどめて荒々しくカップの中身を飲み干した葵は、行儀悪く音を立ててカップの底をソーサーに叩き付けながらも一切の隠し事を取り払う覚悟を決める。


「あーあ、折角ウチが言わない様に、言わない様にって必死で我慢してきたのに…自分から言わせる矢なんて、チト君ってほんま最低、しかも自虐癖持ち。今のウチの言葉は、チト君を縛る新たな永遠の呪いの仲間入りを果たす事になるで?だって、チト君は未来を歩む日常の矢先で不意にウチの言葉を記録として思い出しては、その意味を推察する羽目に合うんやから!!」


チトにとって、愛とは呪いの象徴だった。母親に求めた愛、父親に無意識で求めていた愛、母親が父親に向けた愛、父親から不器用に向けられていた愛。イブキが残してくれた愛、そして目の前の少女が正面からぶつけてくれた愛。そのどれもが同じ意味を持つわけではない事くらい、チトでも理解できていた。けれども、一体何がどう違うのかまでは今のチトでは到底判断が付かなかったのである。葵もそれを理解しているからこそ、口にしない様に気を張っていた。イブキだって、チトの為に全ての言葉を飲み込んでこの世界を去ったのだ。そんな思いを言葉として直接向けられれば、もっと色々な負の感情が暴れる筈だった。少なくともチトは、そう考えていた。けれども不思議と自分の内側はいつまで経っても冷静なままで、無反応と言うには感情は溢れていて、けれども表に出す事も出来ない曖昧な感覚に支配されているのだ。


一方で葵はチトから何の反応も得られない現状に無性に不安を感じて居てもたっても居られなかった。元々何を考えているのかよく分からなかったチトの視線は、いつまでたっても葵から逸らされることはないままだ。仕方なく普段の調子で言葉尻を上げても、やっぱり変わらない様子を前に一体自分の発言に何を感じられているのか全く分からなくなった葵は最早泣きたい気持ちにすらなっていた。


「ち、チト君、」

「母さんとイブキに向けていた感覚と、アオイに対して向けている感覚は絶対に違うんだ。でも、何が違うのか今の俺では分からない」

「…、はぁ?」


しびれを切らした葵が戸惑い交じりに話題を切り替えようと口を開いた瞬間になって、ようやくチトは喉を震わせた。相変わらず感情の読めない平坦な声音で紡がれた言葉の意味が理解できない葵は、どうにも真意が掴めないまま首を傾げる事しか出来なかった。


「多分、俺は永遠に愛を理解できないと…今の俺は思ってる。それは、今のソフィがどれだけ人間的な価値観を取り込もうとも人間にはなれない事に近いものがある気がしてる。俺にとっての愛は、間違いなく呪いそのものだ。千年の時を掛けて、本能がそう理解し納得してしまった。…でも、この瞬間の俺は呪いを向けられていると分かっている筈なのに…どうして、嫌だと、やめろと、止める気にもなれないんだろう?」


表情が特に変わる訳でもない。ただ純粋に紡がれた疑問に乗せてチトから打ち出された答え。それは、葵の心の奥底を満たすには十分すぎる回答だった。だって、その解答は葵の想いを決して拒絶する事無く受け入れる者だったから。もしチトが正しく愛を理解できていたのだとすれば、間違いなく彼は顔を真っ赤に染めてその場を逃げ出していただろうと、理解できてしまったから。


チトは間違いなく、葵の事を愛しているのだろう。


しかし、それを理解できない程に愛と言う感情を嫌悪の対象へ直結させてしまっている。そんな壁を強引に押しやってでも葵から向けられた感情を理解しようとした結果、葵は無事チトの内側へと滑り込むことに成功していたらしい。脱力したように行儀悪く机に上半身を預けた葵は熱くなってきた顔を隠す様に腕に埋めて僅かに唸る。一体葵の何がチトをそう思わせたのか、それは彼が正しく愛を理解していない現状では永遠に解き明かされることがない謎なのだろう。


「…アオイ?大丈夫か?」


こんな状況でも、平凡に葵の心配なんてしてる。正直なところ、嫌悪の視線を向けられたり全力で困惑される可能性だって葵の脳裏には過っていたというのに。何も変わらない、そのままのチトが極普通に葵の心配を言葉に乗せていた。


「…失恋、って訳ではないけど…いや、これは失恋なのか?」


チトの言葉を無視して葵は現状の理解に励む。愛の告白に対する答えは肯定でも否定でもない、まさかの疑問符だった。果たしてこれが成功と言えるのだろうか。チトが相手だからこそ成功に近い現状維持という答えが正しかったが、本来の告白であれば間違いなく失敗に終わったと言えるだろう状況である。これまで築いてきたチトとの日常が走馬灯のように葵の脳裏を駆け巡っていく。出会い、変化、記念、挑戦、訪問、そして終幕。期間に表せば記憶の大半は一年にも満たないごく短い時間で作り上げられたものである。それでも、葵はまるで一生分の思い出を作り上げたような錯覚に襲われているのだ。全てを経て、今。果たしてやり取りはどう結論付けるべきだろうか。


「チト君に愛を理解させてあげられなかった時点で、ウチの負けか」


暫く一人で百面相に励んでいた葵は、ようやく唯一の結論を導き出して顔を上げた。思考が落ち着けば普段の調子を取り戻すまでも一瞬だ。いつの間にかチトの手元のカップは空になっており、短い時間だと思い込んでいた思考時間がそれなりに長かったことを察した葵は一先ずへらりと気の抜けた笑みを僅かに不安そうな表情にようやく無表情を変えていたチトに向ける。それだけで、いつも通りだった。


無邪気さを装って満面の笑みを浮かべる裏で、誰にも聞こえない小さな舌打ちを零す。


…ほんまに、サイアクや。今なら地球で幸せを掴んで自分を産んだイブキの気持ちが理解できてしまう気がする。全力で幸せを謳歌して、再びチトの元へ現れる為の算段を立てていた行動の意味に納得がいってしまいそうだ。


現状のイブキと葵ではそもそもの前提条件が大きく異なっていた。母親に近しい対象としか最後まで見てもらえなかったイブキと、両想いに近い状況でありながら失恋してしまった葵。それでも確かに、結ばれないという結論だけは全く同じ場所に既決した訳である。自分自身の気持ち一つ理解できない馬鹿な男に悩みの種を増やしてやろう、理由は悔しいから。たったそれだけの為に悪戯を仕込みたくなる気持ちは痛いほど理解できてしまったのだ。


「はぁ~……決めた。うん、ウチ元の世界に還っても絶対に自殺しない」

「へ、」

「チト君に一泡吹かせるまでは、死んでられんからね!死ぬ気で、チト君に完璧な嫌がらせをする方法を考え続けてやる。その時は、覚えろよ?」

「ちょ、はぁ…?お前何言って、」

「ウチ、世界循環説に賭ける委員会の委員長なんよね。きっと、元の世界でもチト君に出会えるような気がしとる。てか、絶対会ってみせる。そこで出会ったチト君に好きになってもらえるように全力で振る舞って、チト君から告白させて、それを堂々と降ってやるの!はっはーん、中々の悪女やろ?」

「いや何を…って、そこじゃなくて!お前……生きてくれる、のか?」


つい先ほどまで淡々とした無表情を浮かべ続けていた癖に、葵にとっては割とどうでもいい問題の一つだった生死に纏わる話になった途端目を見開いて驚いている。告白には一切動じなかった癖に。全く、本当に気に食わない男である。自分に向けられる感情以上に、何れ姿を消す異世界人の生死にばかり関心をもつだなんて。葵の告白すら押しやって、葵が元の世界に無事還る可能性の先に待っている生死ばかりに意識をとられているその姿のなんと腹立たしい事か。矢張り自覚がないだけで、葵の事を相当気にしているではないか。


「だって、なんかもう生きるのとか死ぬのとか、どうでもよくなっちゃったんやもーん。今は兎に角、元の世界でチト君に一泡も二泡も吹かせる方法を考える事しか出来なさそうやし?よし、他の皆にもこの結論をしっかり報告しよう!ほうれん草、ホウレンソウ!報告、連絡、そうだーん!」

「な、何をそんな怒ってるんだよお前、俺にも分かる様に説明しろよ!」

「ふふん、絶対にやだね!ってか、チト君に説明したところでどうせ伝わらんから意味ないもーん!」


チトは、果たして葵の掻き回された乙女心を理解できる日が訪れるのだろうか。否、例え愛を正しく理解できたとしても、葵の繊細な心の内までもを理解する日は永遠に訪れないのだろう。だからこそ、わざとらしく舌を突き出して瞳の下を指先で下げた葵は、やけくそ交じりの上機嫌で杖を振り回し歌い始めるのだ。お決まりの、きらきら星を。


…ご丁寧にチトを馬鹿にする替え歌込みで。


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