113話 聖地巡礼
豪勢な魔道馬車に運ばれる葵は、静かな道中でぼんやりと考え耽っていた。
手元に握り締められているのは、無数の日本語で乱雑に書き重ねられて真っ黒になった用紙。時折ぐちゃぐちゃに塗り潰されている部分も多く、まさに研究者の覚え書きの様な様相をしている。
「答え合わせ、って言う程でもないんだけど」
窓に取り付けられていた豪勢なカーテンを避けて眺めていた景色から視線を落とし、手元の用紙を改めて眺めた葵は最後の最後に大きく丸が打たれた一文を指先でなぞる。それは、葵がようやく見つけ出した恐らく正解であろうと言える一つの答えだった。九割型理論は完成しており、残るは問題文の背景にある課題が生まれた理由そのものだ。それさえ判明すれば、ついに葵は憂いなく一つの魔法を使う事ができる。
緩んだ口角を正すことなく、ゆっくりと瞼を閉じて馬車の揺れに身を任せた葵は、自身が掲げる一番の目的、終着点を誰も居ない馬車の内部に響かせた。
「チト君の呪い、ウチが完璧に解除しちゃうんやからね!」
敢えて弾まされた言葉尻に、深い意味はなかった。
チトの母親が残した呪いと称される魔法、真実の愛。オーフ固有且つ既に禁忌指定が施されているらしい対象者に不老不死を与える魔法の詳細は、当然オーフのごく一部にしか残されていないのだ。現在のオーフ国内ですら御伽噺だと言われるその魔法に関する情報は、気合を入れて調べた程度では到底何一つ見つからない。そこで、葵はオーフの頂点に君臨する聖人の妹であるオルコスに頼んで残された資料を見せてもらおうと考えたのだ。
きっと、オルコスは…否、オーフは提供を拒否できない。自国が長らく隠し続けてきた歴史上の重大過失を生産できる可能性が少しでもあるのならば、拒む理由など何処にもないのだ。寧ろ、進んで提供さえするべきだろうと理解している筈である。
現在の葵は既に解除の方法について、自分が得た知識と一部の憶測で辿り着いていた。しかし、実際この魔法が作られた背景や意図、そしてオーフの意志を確認せず迂闊に魔法を使う事は、先人にも、そしてチトやオルコスにも失礼に値すると考えたのである。所謂日本人的な思考回路の一端だったが、本来葵が気にする必要もないだろう背景を求める行為に、葵自身が疑問を抱かなかった。それはすなわち、この世界に対する一定以上の敬意が葵の中で確立された証明でもあった。
答え合わせ、と言うとまるで呪いを解除する方法を求めている様に聞こえる。実際のところは、例の魔法を生み出した国の想いを聞きに行くにすぎないのだから。いざ、オーフへ。この世界での終幕を決める答えを、確実なものにする為に。僅かな憂いも残さず元の世界へ還る為に。
「———あ、この場所」
不意に視界の端に写った色とりどりの景色に、葵は遠ざかっていた意識を連れ戻す。 直ぐに乗ってた馬車を止め、迷わず外へ飛び出した。
「花弁を降らせる魔法、使ったところや!」
森の脇道を抜けた先に現れたのは、辺り一帯を埋め尽くす美しい花畑が広がる空間だ。迷わず近付いた葵は、足元の赤色の花を一本手折りそっと唇へ寄せた。
「ふふ、あれからそれなりに時間が経っているのに、景色が全然変わっていない。やっぱり悔しいけどあの人の魔法は凄いなぁ…」
―――あの人の、イブキの、自らの母親の。正しい呼び名すら曖昧な存在は、それでも世界や葵にすら大きな足跡を残していた。
杖を片手に軽く振れば、花畑の範囲を覆うように心地よい風が吹き始め、一気に花弁が舞い上がった。
暫くして、はらはらと舞い落ちてくる花弁は色とりどりだ。赤、水色、桃色、紫、黄色……そして、釣られて舞い上がった緑の葉。
「まるで、今の私達みたいやね……」
手に持っていた赤い花を風魔法に乗せて空高く舞い上げる。空中で散った赤い花弁がゆっくり降りてくると同時に地面に滴が落ちた事を知っているのは、美しい花畑だけだった。
「……うん、きっと…またね!」
小さく花畑に言い残した葵は、今度は静かに馬車へ乗り込んだ。
―――この世界に残した、最後のやり残しを終える為に。
―――
「あ、ごはんの事すっかり忘れとった。…いや、忘れて困る状況でもないんやけど」
満足するまで思い出の花畑を楽しんだ葵は、魔道馬車に戻ってふと目についた大きな包みに瞳を瞬かせた。これまで足を止める事無く真っすぐに進み続けて早二日、思い返せば口にしたのは片手間に魔法で作り出した水程度で、固形物を口にする事を完全に忘れていたのだ。
元の世界でも食事を摂らない日々が日常に近かった葵は、この世界に来て初めて他人と同居することになり規則正しい生活習慣を意識することになった。何せ、存在自体殆ど居ないものとして扱われていた身である。深夜や主たちが寝静まった頃にこっそりと夕飯の残りを摘まむか、最低限の体裁の為だけに渡されていた小遣いで日々購入する昼食程度しか口にしていなかった葵は、碌な食生活を送ってきていなかったのだ。この世界に来た当初に比べて葵の身長が随分と伸びたのは、間違いなく大きく変わった食生活によるものが大きいだろう。
実際の所、この世界に来たばかりの頃は食事の存在をすっかり忘れて一日を過ごす事も多々あったが、同じように食事の概念というより時間の概念が抜けているチトが同居相手だった事もあって特に問題になる事はなかったのである。チトが人間の生態をある程度理解する頃には葵も自らの手で食事を作りチトの口元に押し付ける事が日常になっていたので、葵本人ですらすっかり忘れていた。
葵は、自身に生じる諸々の異常に気付きにくい体質だった。
体調不良を例として挙げると分かりやすい話だが、本人が気付かずさえいられれば不調などなかったこと言出来るのだ。熱がある事を自覚して初めて、頭痛や気怠さに気付いていく現象そのものである。家に居る時は与えられた小さな物置部屋に息を殺して閉じこもって過ごしてきた葵が体調不良になったところで、発覚が学校でもなければ世間体を気にするだけで葵自身を碌に居ていない家の者たちは一切関わろうとしないだろう。もし病院に連れて行ってもらえたとしても、嫌悪の感情を向けられる事は目に見えていた。だからこそ、葵の身体はいつからか体調不良に対して随分と認識が鈍くなるように退化していったのである。
果して、嘗ては感じる事が多かった頭痛や胃痛と言った痛みに慣れてきてしまったからなのか、それとも本能的な防衛機能が働いた結果なのか。兎も角、空腹による腹痛の感覚も曖昧になった葵は、独りになると食事の存在を忘れがちだったのである。事実、魔王討伐が完了し小屋で疑似独り暮らしが始まってからも食事を忘れかける事は多々あった。
「えぇっと、何を持ってきたんだっけ…」
自信の鞄を漁ろうとして、この馬車を用意してくれたヴィル顔が浮かぶ。ここまで豪勢で立派な馬車だ、食料は当たり前のように積み込んであるかもしれない。適当に探知の魔法を使えば、矢張り近くの椅子の下に収納を見付けた。開けてみれば干し肉や足の遅い果物、調理器具が所狭しと詰め込まれている。とは言え自分一人の為だけに、旅の道中で料理をするのは面倒臭い。
「お、果物あるやん。リンゴ擬き~…リンガ、やっけ?」
この世界の果物が元の世界と若干異なっている事を葵は既に身をもって学習済みだ。手元にあるのは、リンゴの味がするにも関わらず見た目が完全に桃である不思議な果物だが、それを躊躇なく口に放り込める程度には葵の感覚はこの世界に馴染んでいる。
「しっかし…なんでこの見た目でパリッとするんや?物理法則どうなっとる?」
一般的なリンゴを口にした際のシャクリとした音ではなく、パリパリと嚙む度音を立てる不思議な果物に小首を傾げながらも、再び視線を向けたのは既にオーフの町並みが遠く離れた場所から見え始めた窓の外だ。二度目となる美しく整えられた町並みでの出来事は、昨日のことのように思い出せる。実際、以前訪問した時からそう時間は経過していない筈だ。ただ魔王討伐以降の諸々が濃かっただけで。
「あ、」
ふと視線を下ろすと足元に落ちていたのは黄色の花弁。それは、これから顔を合わせる予定のオルコスの第一印象ともいえる繊細な色合いをしている。リンガを食べきって軽く手を浄化魔法で綺麗にした葵は、そっと手を伸ばして花弁を拾い上げてみた。この輝きが、永劫失われなければいいのに。そんな呟きは喉奥に押しとどめられ、少しだけ迷った葵はその花弁を自身の空間魔法で収納し再び窓の外へと視線を向けた。
―――
「はい、とーちゃーく!魔道馬車様々やなぁ、外で待っとる他の馬車も放って直ぐ入れてもらえたわ!中の確認すらされんかったけど、この国色々大丈夫なん…?」
矢張り完全な一人旅だったからなのか、あれから一度も魔道馬車を停止させなかったからなのか、直ぐ目的のオーフへは到着した。検問に近付けば一切何の確認をされることもなく通行を許可されてしまい、素直に困惑する。ヴィルが手を回してくれたおかげで、確かに豪華絢爛であからさまに要人が乗っている馬車だとは認識できるだろうが、ここまであっさり検問を流されてしまうと反応に困った。オルコスが何かしら動いてくれたのだろうか。いや、つい最近まで実質的な鎖国状態に近かったオーフが、果たしてトートの上位者色全快の馬車を確認もなく通してくれるものだろうか?…ヴィルは一体この馬車と通行許可に何を使ったのだろう。
薄ら寒いものを感じながらも近くの詰所に魔道馬車を押し付けた葵は、先程の出来事を忘れるべく再びオーフの地に降り立ったのだった。
―――
「…わぁ、あおいちゃんだー!」
「あおいちゃん!」
そのままの足で向かったのは、以前の訪問から大した月日も経っていない筈なのに随分と様相を変えた旧貧困街地区だった。道の舗装も碌にされず尖った石や地面が剥き出しになっていた通路は、全て磨かれた煉瓦で埋め直されて整えられている。土を盛っただけの家も木造が目立つとはいえ新築のものに建て替えられて、集まってくる子供達の衣服や清潔さも段違いに良くなっていた。何より、葵達が訪問最終日に残した花弁を振らせる魔法によって、通路脇は見事な花畑の道が飾り付けているのだ。下手を打てば中央の所謂観光客向けとされる地区より美しい街並みが広がっていた。
とてもまともな環境には居られなかった子供達の表情も随分と明るくなっており、普通の洋服を身に着けても違和感がない位にはなじんできている。短い期間でここまで変革を達成するとは、オルコスは何もしていないと笑う裏で相当力を入れて貧困街脱却に取り組んでいたに違いない。
「久しぶり、皆元気にしとった~?」
「うんっ!あのね、オルコス様がたくさん来てくれるの!」
「こまったことはありませんか?って聞いてくれるんだ!」
「オルコスさまいいにおいする~」
わらわらと集まってくる子供達に以前見え隠れしていた怯えの感情は一切感じられない。純粋な笑顔とオルコスへの感謝の言葉が止まらない様子に肩を竦めつつ聞き役に徹していれば、いつの間にか初対面の子供達までつられ集まり始め、いつの間にか四方を完全に囲まれてしまった葵は戦闘だったら完全に失格でチトに失望されているだろうな、なんて見当違いな事を考えながらも子供達の相手をやめなかった。
手遊びを教え、言われるまま歌を奏で、知識がないなりに疑問の解消に付き合い、そしてまた歌う。葵が到着した頃はまだ太陽が頭上にあった筈だったのに、気付いた時には空がほんのり赤く染まり始めていることに気付いて慌てた葵が解散の声を掛ければ、子供達は案外素直に各自の住処へと散っていった。自分の家がある。教会に身を寄せていた子達だって、楽しそうにそれぞれの家に帰っていった。これが本来あるべき子供の形なのだろう。…自分とは違う。
「これが子供を本気で大切にする世界ってやつか」
「そうですね、誰一人取りこぼさない…全ての子供達に心からの幸福を。これが、世界の常識ですから」
名残惜しそうに離れていった、教会で纏め役になっていた少女の後ろ姿に手を振った葵が小さく息を吐くと共に呟いた言葉には返事があった。わざとらしく驚いた素振りを見せ大袈裟に振り返った葵は、教わった礼の姿勢を構える。
「これはこれは…聖女様が治安の悪化する夕方の街に護衛もなく降りてくるとは…一体何事でしょうか?」
「なっ…も、もう!アオイちゃんが当初の予定より随分早くオーフに到着したと話を聞いて大慌てで探しに来たんですよ!」
「あは、ごめんごめーん!ルコちゃんはいっつも反応がおもろいから、つい揶揄いたくなっちゃうんよな~」
「そんな事言うの、アオイちゃんだけなんですから…」
頬を膨らませて葵の腕を抱え込んだオルコスは、呆れたような表情と共に近くに止まっていた質素な魔道馬車へと葵を導いた。
———冗談交じりだった表情を、真剣な眼差しへと変えて。
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