109話 或いは生前整理
「…い、おーい。あれぇ?もしもぉーし」
「……別に聞こえとるから一々顔の前で手を振る為だけに中途半端な部分転移魔法なんて逆に高度な技術を使うのはやめて」
「あは、最近覚えたんだぁ。これがあればエトちゃんに完全な不意打ちで悪戯できちゃうの。いい魔法でしょお?」
長いようで実際にはとても短かった魔王討伐戦を終えた後の一連のやり取りを思い浮かべていた葵は、自分の目の前で不自然に振られる手首から下が途切れた手が顔の前で振られている事に気付いてわざとらしくその手を払った。どうやら最近人間観察に更に精が出ており、人間が使う魔法の失敗から新たな発想を得ては魔法の開発に勤しんでいるらしいソフィの新たな下らない魔法である。目的も特にないそれは、ただ手首から上だけを目的の場所に部分転移させるという傍から見れば自殺行為に等しい危険極まりない転移魔法の失敗行為だったが、ソフィに関しては何の問題もないのだろう。へらりと楽しそうに笑ったソフィは大人しく魔法を使うのを辞めて、手元のティーカップに口を付けた。その姿を見て自分もとカップの中に揺れる紅茶の水面に視線を落とせば、中身は既に冷めている。思いのほか個人的な回想に時間が掛かっていたのかもしれない。
「そろそろ帰らなくてええの?淹れたての紅茶が随分とぬるくなるくらいの時間はここにいるみたいやけど」
「確か…人間の尺度でいう所の三十分、程度だっけ。確かにそろそろ戻らないとルコちゃんに抜け出したことがバレちゃいそう。ありがとぉ、そろそろお暇させてもらうねぇ」
僅かに考え込んで無事正解の数に辿り着いたソフィは、残っていた紅茶を一気に飲み干してから小さく肩を竦めた。元は時間の概念などないに等しかったソフィは、ここ最近戦後処理で人間たちに振り回される仲ようやく時間を認識するようになってきた。分刻みどころか酷いと秒刻みの予定の山は幾らソフィでも勘や勢いで誤魔化せるものではなかったらしい。何度もオルコスに笑顔で叱られてヴィルやルシエに呆れられて、仕舞には愚痴を言う相手だったはずの葵にゴミを視る様な視線を向けられてようやく彼も折れたらしい。一日は兎も角一時間や一分の概念なんて理解が出来ないと喚いていたソフィが余りにも喧しかった葵は、見かねて数字ではなく事象で判断する認識法を提案した。
いきなり十分後にどう、なんて言われても応じられる訳がないソフィにたいして時間を物の例えに変えて説明したのである、例えば、灼熱の炎の前で氷が溶けるまでの時間。例えば、魔道馬車でヴィルが住む城からルシエが住む屋敷まで移動する時間。例えば、ぴったり真上にあった太陽によってつくられた影が目視で認識できる程伸びるまでの時間。始めは幾らなんでも抽象的過ぎる、と各方面からそう突っ込まれていあ方法だったが、結果としてソフィは葵の意図を素直に受け止め詳細な時間の概念を理解するのに大いに役立っている。今もまさに、紅茶が室温でぬるくなるまでの時間をある程度正確に判断し、小屋を移動する判断を見事達成して見せた。
憂いに小さなため息を零しながらゆっくりと立ち上がったソフィは、未だぬるい紅茶を無表情に飲む葵の方へ視線を集中させる。僅かに迷った様な表情を浮かべながらも結論を纏めたのか、意を決したように口を開いた。
「…エトちゃんは、彼なりに色々考えているみたいだよぉ?」
「ソフィはあの場所でチト君と言い合いになった時のウチに文句がある、の間違いでしょ。ソフィの感情をチト君で勝手に変換しないで」
「なぁんだ、分かってるのか。ボクもあの時のエトちゃんと全く同じ意見、君の生死に関する内容どころか、元の世界に還るのだって正直反対なんだけどねぇ」
「ソフィがそういう事言うと洒落にならへんって…。今回もイブキの時みたいに見逃してや」
「嫌だね。君自身が言っていたじゃないか、イブキちゃんと葵ちゃんは違うって」
退屈そうにソフィの真意をあっさり見抜いた葵は、カップから視線を上げる事無く発言をあしらった。以前のソフィであればその振る舞いを完全な交渉決裂だと受け入れ大人しくこの場を去っていたのだろうが、今のソフィにとってその選択肢は初めからないに等しい。苦笑に近かった表情をすとんと落としたソフィは、真剣な瞳を隠しもせずに自分自身の本音を包み隠さずはっきりと言葉に乗せた。呆れた様に肩を竦めた葵がようやく顔を上げニヤリと悪い笑みを見せれば、即否定が入る。挙句以前の発言を出汁に使うとは…本当に、良くも悪くもソフィは人間らしくなってしまったものだ。
「ボクにとってイブキちゃんはあくまで興味を抱いた人間であり、君はこれまでで初めてボクの友人として隣に立った特別な子だ。全く持って、認識が違っている」
「何それ、状に訴えかけるつもり?」
「さぁね、そう思うなら思ってくれて構わないよぉ。ボクはただ…君相手に会話するときは思った事は全て伝えた方がいいって考えてるだけ。誰が何を話そうと、その人の勝手でしょお?少なくとも葵ちゃんにボクの発言を制限する権利はないと思うけど」
にこりと上位者の余裕をもって笑みを浮かべるソフィと、無表情のままじっとその表情を見詰めていた葵の視線が絡み合う。どちらかが切り上げなければ永遠に終わらないのだろう軽口の応報を前に、先にわざとらしいため息と共に終止符を打ったのは葵だった。
「交渉決裂。ウチは、自分の未来は自分で決めるから。例え誰が邪魔をしようと、容赦しない」
「君がこの世界においてボクに抗う事は不可能だよ。世界の調整者を見くびってもらっちゃ困るなぁ」
「ソフィこそ人間…いや、異世界人を舐めとるんとちゃう?過度な立場に対する自信は、足元を掬われる未来と並行だよ」
「丁寧な警告どうも。生憎、ボクはこの立場についてから随分と長い時を過ごしてきているからねぇ。ボクの立場に対する自信は、最早過度でも何でもない事実そのものだ」
それは、以前の二人が初めて友人と言う立場を定めた互いを認め合った迷宮探索へ向かうより前に交わされた会話の様な刺々しさを放っていた。互いに一歩も譲らない、相手に警戒心を露わにし常に真意を探り続け敢えて煽る発言を重ねる葵と、圧倒的な経歴と自信をもって愉快そうな笑みを浮かべ全てを圧に重ねて口を開くソフィ。互いに絶対に譲れない物があるからこそ、嘗ての関係性が再現とでも言わんばかりに顔を出したのである。葵とて、自分のやりたいことを例え友人相手でも邪魔されるのは気に入らない。絶対に許せなかった。
「そろそろ本当にルコちゃんに怒られちゃいそうだから、今日はこの辺で失礼するねぇ。しっかりと考えを改めておくといいよぉ」
「丁寧なお気遣いどーも」
もう話す事はない、そう言わんばかりに意味もなく背を向けて転移魔法で小屋を去っていったソフィ。今さっきまで彼が座っていた席と空になったティーカップを暫く無言で見詰めていた葵は、少しして無表情をあっさり変えて緩やかな笑みを浮かべた。
「やっぱり…ソフィは本当に人間に近付いたな。さっきのウチの干渉も、余計なお世話やったかも」
先程まで繰り広げられていた一歩間違えば殺気が飛び交っていただろうやりとりが嘘のように呑気に伸びをした葵の表情は、先程までの一切の感情を読ませない無表情とは程遠い。それは幼い子供の成長を見守り、素直に喜ぶ親の様な穏やかなものだった。間違いなく、人間としては小学生にも満たない情緒を持っていたソフィに対して向けられたものである。悔しいながらも、以前のイブキがチトやソフィに対して保護者の様な表情を向けていた理由の一端を理解できてしまったのが少しだけ腹立たしくて肩を竦める。
「生前整理…とか言うとまた怒られそうやけど、折角この世界から去るならやれる事は全部やってあげたいもんなぁ…。その結果ウチがどう思われようが、まぁどうせ居なくなる身じゃ関係ない話な訳やし」
敢えてソフィを煽る事で、その真意を引きずり出した。それでも嘗てのソフィであれば言わなかっただろう完全に個人的な感情すら素直に発してくれた時は、思わずガッツポーズでも浮かべてしまいそうだった。先程まで無表情を貫いていたのだって、油断すればソフィの大規模な変化に口角を緩めてしまいそうだったからである。ソフィが居なくなった席に残されたカップを片付けて机に頬杖をつき、目の前に残る中身が空の自身のカップの縁を指先でなぞる葵の機嫌は相当よかった。
葵は、正直なところ自身が元の世界に還ってからの生死に関しては今でもどうでも良かった。帰ってから考えよう、とさえ本気で思っているのだ。そんな彼女がこの世界でやるべき事として並べた計画の一つが、生前整理改め葵の存在によって良くも悪くも変革の途中であるチトやソフィ、各々面倒事を抱えているヴィル達に発破をかける事で方向性を導き出す行為を繰り返す事だった。自分が居なくなった後更に大切な仲間たちがより良い方向へと進んで行くならば、どんな最低最悪な悪役に堕ちたって構わないと、葵は本気で思っている。魔王討伐直後の自身の失言は正直完全に想定外のやりとりだったが、それ以降の発言は全て意図して場を搔き回すべく並べたモノだった。
まぁ、全てが葵の思惑通りに進むほどこの世界は単純に作られている訳ではないのだが、今はその話は置いておこう。
彼女が先ほどのソフィに対して敢えて挑発する言動を繰り返し嘗ての空気を引きずり出したのは、人間に近付きたいと強く願っているソフィの現状を把握し、自覚を導き出す為。チトに対して完全な不干渉を貫いているのだって、チト自身が自分で答えを見つける時間を捻出させる為だった。ソフィに関しては発破をかける様な扱いが正しいとして、問題は残る一人…チトの方である。
「チト君は、ウチの事をどうしたいんやろ」
現在のチトと葵の間には言葉では上手く説明できない絶妙な距離感が確かに存在した。少なくとも現状のまま身勝手に元の世界へ還れば確実にチトの中で変わりつつある何かを拗らせてしまうだろう不安定さがチトの反応から滲み出ていたのである。どこか曖昧で、それなのに切実で、僅かに息苦しい曖昧な感情。それを一身にチトから向けられる葵は、一体自分に何を求められているのか一切理解できていなかった。
始めこそイブキの代わりとして扱われていた事は身をもって知っている。続いてチトから見た年齢的相応な子供として扱われる物へ変わった事も理解できた。ただ、その先…あの時異様な怒りを向けられた状況に説明がつけられなかったのだ。今のまチト本人に内情を聞き出そうとしても、恐らくチト自身が理解できていない状況に見える。それが時間を作り答えを探させる判断に至った要因だった。他人が他人に向ける感情に関して葵は高い理解力を持つ。けれども自分に向けられる感情だけは家族を失って以降負の意図が込められるものばかりだったせいで感覚が鈍ってしまっているのだ。そんな彼女を変えられるのもまた、葵が結論を導き出す瞬間を待っているチトだけなのかもしれない。
「うーん…やめた。考えても分からんし、必要性も薄い。一先ず今は、目的を達成するために行動を始めなくちゃ。計画通り、ルコちゃんに会いに行こう…うわ、さっきまでソフィが居ったんやから直接時間作ってもらえるように頼んどくべきやった…!」
自分一人しかいない静かな小屋の中で、深呼吸。それだけでチトに関するもやもやとした感覚の扉が閉ざされる。切り替えた先の葵は、自らの結末を定めるべく答えを求めて行動を始める決意を固めた。
「今のオーフ、かぁ……」
誰もが葵だけが放棄した魔王討伐の功労者と言う立場によって生じた戦後処理に忙しくしている事は重々承知している。たった独り小屋でのんびり魔法陣の研究に勤しんでいるのが申し訳ないとさえ感じているくらいだ。チトと顔を合わせればおのずとどちらかが送り出してもらっているらしいヴィルやルシエはまだしも、一番小屋に訪れる機会が少ないのがオルコスだった。彼女は魔王討伐後祖国に戻り、革命の余波で未だ慌ただしい教会勢力の沈静化や問題を抱えた上層部の一掃作戦、更には葵とチトによって発覚した貧困街改革への対応と休む暇もなく大忙しだと聞かされている。そんな中葵の個人的な我儘で小屋まで無理に足を運んでもらう訳にはいかないのだ。無理に約束を取り付けるよりは、葵自身が直接彼女を訪ねて空き時間を貸してもらった方がより効率的だろう。
「おやまぁ…ウチ、異世界で初めての一人旅ですか!何それ、めっちゃファンタジー!!」
敢えて調子よく元気に立ち上がった葵は、そんな能天気な発言を茶化す魔法使いの返事がない静かな小屋にほんの僅かな寂しさを感じながらも鼻息を荒くする。旅支度を始める瞳には、確かな決意の色が濃く映っていた。
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