104話 終幕
ソフィの全てを飲み込むような圧倒的な殺気が周囲一帯に広がった時、まともに冷静さを保っていられたのチトと、何となくソフィの反応を事前に予想し構えていた葵だけだった。それでも、想定を遥かに上回る濃度の魔力が瞬時に溢れ出していく様子に本能的な恐怖を覚えなかった訳ではない。事実、戦意喪失状態で震えるルシエやそれを支えるのに必死なヴィル、今にも気を失いそうな圧に抗いながら険しい表情を浮かべるオルコスの姿がなければ、葵もまた動揺を露わに何かしらの反応を示していたのだろうと理解していた。
それ程までに嘗てない状況を一瞬にして作り上げたソフィは、表情を変える事無く心底不思議そうに小首を傾げる人形を前に舌打ちを吐き捨てて一歩近づく。遠慮や配慮のない、圧倒的強者だからこそ許された傲慢な一歩だった。
「魔王は討伐された。そしてイブキちゃんの複製体は完全に機能を停止させた。それは全知全能であるこの身をもって、紛れもない事実であると認めよう。世界樹は複製体の策略によって見事欺かれ、本来あり得ない終幕を迎えた事を理解している。…ならば、君は一体誰なんだろうね」
結論の分かりきった問いを敢えて人形に向けて放ったソフィの瞳には嫌悪や憎悪と言った負の感情が無数に込められている。けれども最も目立っていたのは、底知れない後悔の色だった。嘗て共にあった人間の少女が最期に残した複製体、その結末がこんな惨めで残酷な事になってしまうと当時の段階で知っていれば。少しでも調べようと動いていれば、現状は全く異なるものへと変化していた筈なのに。あの日、封印ではなく破壊をはっきりと推奨していれば、複製体が望まぬ傀儡と化する事はなかったのに…。
「魔王の崩壊によって、複製体の制御機能は役目を終えた。だからこそ、奥深くで燻っていた、たった一度きりの憑依を持って植え付けられた魔人の残滓はその隙を逃さず全てを乗っ取った。…でも、どうして複製体は自決を選んだのかなぁ…」
眉を顰めて現状を並べていくソフィは、ふと一つの疑問に突き当たる。複製体は自決を選んだ。何となく、それが正解の行いであったことは理解していた。けれども、ならば一体何故なのかと説明を求められたとき、ソフィには答えられる決定的な部分が分からなかったのだ。どうしたものかと小さく唸っていれば、そっと杖を片手に隣に並び立ったのは葵だった。まさかこんな我ながら危険な精神状況を露わにしている中で、自己保身を捨てて自ら歩み寄ってくるとは想定もしていなかったソフィは素直に驚いて意図的に溢れさせていた魔力が僅かに弱まる。
「そんなの、複製体の主人であるイブキに対してあっさり悪性化した事実を与えたくなかったからやろ。複製体はあくまで製作者が居てこその存在。基本的に主人を崇拝するのは本能的で生物的な前提条件や。もし自分を生み出してくれた親が自分のせいで汚名を被る可能性が出てきたら、ソフィはどうする?」
「ふむ…その場合ボクの親は世界樹って事になるんだけどぉ、」
「ごめん、例えが最高に悪かった」
いつも通りのやり取りだった。確実に状況に合わないやり取りは、だからこそ怒りに茹で上がったソフィの感情を沈めてくれることに大いに役立ったのである。諸悪の根源ともいえる人形を前に何とも気の抜けた会話を続ける程、ソフィは自分自身が驚いてしまう程に冷静さを取り戻していく事に内心困惑していた。深呼吸一つで感情を切り替える、それは葵が常に得意としている感情の制御方法だ。けれども今気付いたもう一つの葵の特技。それこそが、敢えて日常を引きずり出す事で膠着状態を解除する事だった。思えば葵は、度々重苦しい空気や浮ついた状況をたった一言で沈めている。何気ないやり取りに彼女らしい、と思う事は何度かあったが、成程これは意図的なものだったのか。
「はいはい、その話は後ね。今はコッチ」
目の前の人形以上に既に限界まで惹かれていると思い込んでいた葵への興味が更に高まる現状に思わず吹き出しそうになったソフィは、静かにソフィの反対隣りに立ち並んだチトの存在に現状を思い出す。冷静さを失うことなく、今自らがすべき行動を思い出せ。そう命じれば、隣に立つ二人のお陰なのか何なのか、先程までは留まる事を知らなかった無数の感情は見事に整列して思うがままに操れるようになっていた。今度こそ隠し切れなかった苦笑は見逃されたらしい。手早く背後で空気の変化に崩れるようにその場に座り込んだ三人へ結界魔法を展開したソフィは、改めて問題の人形を見据えた。
「…アハ、チト君ダ!ねぇネェ、チト君を苦しメル世界樹なンテ、私がぜーンぶやッツけちゃウからネ!ソフィだっテ、この世界の在リ方に飽き飽きシテたデしょ?つマリ、世界樹ヲ破壊するクライどうって事ナイよネ。二人とモ私の事大好キでショ?だったら、邪魔…シナイデくれルよネ??」
無垢、無邪気。否、邪悪、愚鈍。まるで自らがイブキ本人であるかのように振る舞う言動は、恐らく複製体に存在する過去の記録を参照し継ぎ接ぎしているにすぎないのだろう。何せ、言葉選びの方法が余りにもイブキからかけ離れていたのだ。彼女であればこの言葉は多くの比喩で覆い尽くして告げてくる。彼女であればその提案はチトやソフィに対してしない。彼女なら、彼女だったら。余りにも醜い言動を続ける人形は、誰からの返答も得られない現状にようやく気付いて口を噤んだ。けれども浮かんでいる表情は変わらず笑みの一点張りで。
「あの複製体って魔人の残滓すら制御できるのかよ…相変わらず禁忌一直線だな」
「エトちゃん、戦えるのぉ?」
「誰にモノ言ってやがる、クソ相棒」
「……ふふ、そうだったねぇ。思う所があるかもしれないけど…ごめんね、葵ちゃん。ここはボク達大人に任せてくれないかなぁ?代わりに、全力で結界魔法を展開して三人の子供達を守って欲しい」
「ウチも一応子供側の筈なんやけど…まぁいいや、じゃあ…ウチの母さんの無念、ここでちゃんと晴らしてな」
「おう…任せろ」
本当は葵が先頭に立って目の前の人形を殴り飛ばしてやりたかった。自らの母親が残した複製体を、完全に停止させる悪因となった残滓。母親が何を願って複製体を作り上げ、この世界に残そうとしたのかは今の葵にとって痛いほど理解できてしまう明確な情報の一つだった。そんな複製体を、たかが魔人如きの残滓が破壊の結論に結びつけた。許せなかった、悔しかった。最後の母親との繋がりがあっさり絶たれた事実が苦しかった。思う所がない訳がない。それでも何も言わなかったのは、偏にこの人形に対して様々な感情を抱いているのが自分だけではないと十分に理解しているからだった。
静かに人形から背を向けて、既に結界の中にいる三人の元へ近づけば瞬時に結界は範囲を広め葵も包み込んだ。その中で丁寧に魔力を練り上げた結界魔法を、いつかの記録で見かけた魔法陣の通りに再現してみれば、存外あっさりと成功してしまったらしい。そんな魔力の流れを背後で検知したらしいソフィが僅かに振り返ろうとする素振りを見せたが、結局視線が重なる事はなかった。
「…いい加減、俺達のイブキを侮辱するのは止めてもらおうか。今の俺は相当機嫌が悪いんでね、満足するまで暴れさせてもらうぞ」
「君はもう、魔王じゃない。つまり、ボクが直接手を下す事になんの問題もないんだよぉ?」
チトは随分と久方ぶりに、その割に口によく馴染んだその名前を自らの意志で口にした。イブキ、最近何度も飛び交ったその名前を自ら口にする事は、どうにも彼女が完全に亡き者へ変わった事実を肯定してしまうような気がして、妙な矛盾を抱えながらもチトはこれまで決してその言葉を発する事は避けてきたのである。嗚呼、イブキは本当にもういない。この世界にも、元の世界にも、何処にも存在しない死者なんだな。そんなありふれた言葉がチトの脳内を駆け巡る。彼女の存在を、確かにチトは認め、受け入れていたというのに。
ゆっくりと杖を人形へ向けたチトは、緻密に制御した魔力を持って圧倒的な強度を手に入れた特別な爆発系の攻撃魔法を迷わず放った。慌てた様子で杖を構え結界魔法を展開しようとした人形に対して、すかさずソフィが風魔法による補助追撃を行えば折角の結界はあっさり砕かれて攻撃が命中する。
イブキは今日、確かにチトの中で死んだ。…だからこそせめてもの、弔いに。
「どう、シテ……??ナンデ、ナンデなんデどウしテどうシテドドドドウシシシテ???????」
記録の中のチトが、イブキやその複製体に対してどんな視線を向けているのか。それを視た人形は少なくともチトとの勝敗は既に決まっていると思考していたのに。想定を大きく外れた場面展開に機能が異常を発してやまない。最早言語機能でさえ正常から外れつつある人形に対して、チトは静かに瞼を閉じ深呼吸をしてから再びその深紅の瞳を開いた。
「どうして、って…。そりゃあ、人間の…それも複製体を憑代に選んだ魔人の残滓が、多少魔王としての力を得た程度の事で俺達に敵う訳がねーだろ」
「そうだそうだぁ!ふふ、さっきまでの戦闘でエトちゃんが使い物にならなかったのは、あくまで君がイブキちゃんの複製体であると認識していたからにすぎないんだよぉ?でも、今の君は一体どうだろう、少なくとも彼女から遠くかけ離れているよねぇ」
「そういうこった。お前はもう複製体じゃないんだ。無意味に怯えた演技をする必要も、首を傾げる理由も、本当は何もないって気付いてるんだろ。それでも少しでも現状を打破しようと、必死で記録を探って再現している。でも、お前は分かってるみたいだけど…記録にちゃーんと残ってるだろう?」
二人の口撃を前に、ようやく人形はイブキの”フリ”をやめた。本当に意味がないと理解したからだった。すっと表情を失い、ただ人間のふりをしてそこに立ち竦む人形は何処までも哀れで、どうしようもない無機物でしかないのだる。そんな人形は、瞬き一つ、呼吸の一切すら真似る事を辞めて忌々し気な魔力を発しながらチトの言葉を遮ろうと攻撃魔法を放った。当然のようにあっさり防いだチトは、迷わずその先を口にする。
「———イブキは、一度だって俺に勝った事がない。本体ですら勝てなかったのに、弱体化している複製体を憑代にしたお前が俺に勝てる訳がねーだろ」
ましてや、頼もしい相棒も隣に居るわけだし?そんな言葉を視線だけを隣に向け肩を竦める事で呑みこんだチトは、再び人形に向けて杖を突き付ける。
一方的な蹂躙が始まった。
矢張り、複製体は相当自身の能力を制御して魔王として君臨していたのだろう。ヴィル達三人が一撃でも受ければひとたまりもないような攻撃が人形によって乱発されるが、一切掠る事すらなく見事にソフィが作り上げる魔法に相殺されていった。一方でチトが放つのは、得意の爆発系の攻撃魔法を極限まで制御し尽くした最早芸術作品に等しい攻撃だ。丁寧に作り上げられた一撃は確実に人形に傷をつけ、それが即死にはならない部位にばかり当たる様子を見ていれば、弄ばれている事は明らかだった。気付いた人形が怒りを露わにしても、全ては丁寧に叩き潰される。
「俺達が人間だったら、お前の作戦の一端位は通用したのかもしれねーな。でも、結局俺達は人外の長寿種だ。お前の身体は確かにイブキの複製体だったけど…今は存在するだけでも気に障る、永遠に邪魔な羽虫と変わらない」
「いくらボク達が複製体が持っていた記録に比べて随分人間らしい変化を見せていたとしても、本質はどこまでも人外なんだよぉ?情けで味方に出来ると思われていたなら、随分と舐められていたみたいだねぇ」
無慈悲なほどの一方的な攻撃によって、人形は核の部分だけを残して完全に胴体を消失させられてしまった。核が破壊されない限り人形はいつかは復活することが可能だったが、それさえ許さないという様に一歩踏み出したチトは、靴裏で全力で核を踏み潰した。最後の最後に選ばれたのは、魔力を一切使わない物理手段だったのだ。僅かにソフィは眉を動かしたが、結局何も言わず嘗ての友人が残した魔法の最期を見届けた。
先程までは躊躇すらしていた存在を相手に、平気で魔法を打ち込む姿は人外染みていた。
けれども、大切な嘗ての友人を怪我された事実に怒りを隠さない姿は何処までも人間らしかった。
人外種でありながら、人間を理解する。それこそが、人外種に出来る最大限の人類に対する理解の表れだと気付けるのは、実のところ相当先の未来の事だ。今それを察することが出来たのは、呆れた様に無意味だった結界魔法を解除し怒りでいっぱいの二人にどんな言葉を駆けるべきかと肩を竦める葵だけだった。
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