101話 大きなお世話!
接吻…相手の唇や手などに自分の唇をつけること。愛情や尊敬の気持ちなどを表す。
混乱を飛び越えて完全に思考停止した葵の脳内に浮かび上がったのは、何かの辞書を引用した様な単語そのものの意味を再確認する為の内容だけだった。正気なのか、そう必死の願いも込めてソフィの方へ視線を向けたが、寧ろ満足気な様子冴え見せつけられてしまってどうしようもない。静かに燻っているだけだった筈の感情が浮上してくる感覚に頭を抱えたくなる一方で、零れたのは深すぎる溜息だった。
ここ最近の葵は、チトとどう足掻いても結ばれる未来が見えない現実に嘆いてばかりだった。何より前提としてチトの中に色濃く残され今も尚侵食している母親の影。その後継人としての立場を確立してしまった今の葵は、恋愛対象として見てもらえるはずもなかった。相手は千年以上生きる最強のマザコンであり、葵が直接指摘したその日まで確実にイブキと重ねられていた事は理解している。そもそもこの男に恋愛的概念が備わっているのかと言う前提から審議が必要な状態ではあるが、少なくとも母親とようやく重ねられなくなった今の葵の立場は完全に子ども扱いそのものだった。
きっと、チトがチトである限り永遠に葵の想いに振り向く日は来ないのだろう。最も彼が今の記憶を持ったまま人間に転生し人間らしい成長と経験を経たとすれば話はようやく変わってくるのかもしれないが、少なくとも今の価値観のままでは葵が望む未来が来ることは到底なかった。さて、改めてソフィの発言を確認しよう。恋愛的な好感を持っている相手に対して、その望みが一切ないにもかかわらず恋愛の象徴ともいえる接吻、つまるところキスをしろと、そんな虚しさに沈めとこのエルフはドヤ顔で言ってのけたのである。可笑しくない訳がない。折角沈めこんでいた感情が湧き上がってくるのだって、仕方がない話だった。今の今まで葵は確かにチトから告げられた発言に思う所があり過ぎて落ち込んでいた筈だったのに、その事実さえ、葵の生死をも握っている筈のこれまでの出来事でさえどうでも良くなってしまう程に、葵はソフィのたった一言に全ての意識が引きずられてしまっていたのだ。
「…チト君に、キスをしろって…?」
「そうだよぉ?だって葵ちゃんは、エトちゃんの事を好ましく、」
ソフィに人の心はない。恋する若者の難解な脳内を理解できる未来など永久に来る筈もないだろう。精々葵の恋愛が発展したら皆幸せだよねっ、背中を押してあげよう。元気になって欲しいなぁ!…程度の事しか考えていないのである。それは葵が必死に表に出さない様に、せめてチトにだけは悟られない様にと必死に握りつぶしていた感情をこんな夢も希望もない適当な場所であっさり明かしてしまおうとする位には、理解がないのだ。チトの一言によって全ての気力を失い自ら死を望もうとすら考えていた葵は、ソフィ個人としては一切想定していなかった形で悔しくも、確かな生きる気力を完全に取り戻したのである。
「…ちょ、ちょっとぉ!?どうしていきなりボクを攻撃したのぉ!?」
「やっぱウチ、ソフィの事ホンマ嫌いや」
「なんでぇ!!?!?」
ソフィは意気揚々と自身が人間を理解した一端でもある葵の感情の正体を言い切ろうとして、突如向けられた強力すぎる攻撃魔法が放たれる気配に大慌てで結界魔法を展開する事になった。あのソフィが、集中して杖を構えた上で発動しなければならない程に強力な魔法である。
「き、急になんだお前!!」
ようやくソフィが展開した結界魔法から解放され、攻撃の機会を窺っていた意識が過去に引きずられているチトでさえ、突然の暴挙を前に杖を構えて後ずさった。明らかな強者である筈のエルフが必死の形相を浮かべて結界を展開する事だけに集中しなければならない程の魔法がただの人間、それもつい先ほどまで戦闘意欲を完全に消失していた葵から放たれたのだ。先程の様子はチトの油断を誘う為の作戦だったのだろうか。…因みに答えは否であるが、普段以上に人間の価値観から程遠いところに居るチトは二人の会話の中心が自分である事すら気付いていないし、察せる訳もなかったのでそう勘違いしてしまう事は仕方がなかった。ここで知れた方が良かったと、誰かは思うけれど。
スタスタと無言で突如チトへ近づいた葵を前に慌てて杖を握り直したチトだったが、何故か魔人である筈の自分よりも圧倒的に禍々しく鋭い圧を受けて素直に怖気づいてしまった。どうする事も出来ずに固まっていれば、殺気にも近い何かを身に纏った葵に至近距離まで距離を詰められてしまう。
「…あ、あのぉ…?」
絞り出した声音は、これまでで一番情けない腰が引けたものだった。無意識でヒクつく口角、僅かに震える手元、気付いたら後ろに掛かる重心。チトが生まれて初めて感じる、男性的恐怖心…所謂本能からくる怯えであった。そんな男に対して終始無言を貫いてきた葵は、ようやく口を開く。その瞳に感情の色は一切なく、しいて言うなら諦観にも似た何かを浮かべている。呆れさえ含んだような振る舞いに、チトは怯んだ。
「……チト君のばーか、あほ、マザコン野郎。情けないクズ男」
「は、はぁ!?」
「でも……」
困惑気味に声を裏返したチトのシャツの襟を強引に掴んだ葵は、迷うことなく自身の唇をチトの震えた唇に押し付けた。その先に続いた言葉は気持ちだけで押し付けて、目を見開いて引きはがそうと暴れるチトを拘束魔法でとらえて。どうしようもなく気が遣えないダメなソフィや、こうでもしなきゃ行動一つ起こせないどうしようもない自分自身、更には憎き愛しい恋愛対象であるチト、思う様にいかない人生全てに対する怒りを込めて全力で注ぎこむのは、葵だけの純粋な魔力だった。色気も何もない、傍から見ても医療行為にしか見えなかったのは唇同士を合わせる二人が見る先の景色が全く異なるものだったからなのかもしれない。葵は過去を、そしてチトは…存在しない筈の未来を。
魔力で溺れる、そんな感覚にチトの視界が揺れた頃、魔王によってかけられた魔法陣の効果に葵の干渉が強まり強制的に術式は崩壊する。そうして元の状態に戻った頃には、唇は離され至近距離で額を触れ合わせる二人がそこに立っていた。
「…っあ、おい…?」
「何」
「いや、その…何か怒ってる、のか?」
「…別に」
何故か葵と至近距離で見詰め合っている。そんな状況をようやく理解して疑問符を大量に浮かべるチトは、どうやらつい先ほどまでの記憶を持っていないらしい。何故か人一人を殺した後の様な目付きで睨みつけてくる葵を前に疑問を口にするも、解決しないままもごもごと視線を逸らす事しか出来なかった。泳いだ先の視線が合わさったソフィは、何故か大量の冷や汗をかいて落ち着きがない様子だ。大方このクソエルフが葵の怒りを爆発させたのだろうとあたりを付けて、永遠に振れない事を誓ったチトは空気が読めるという方向性において矢張り少し人間に近付いたのだ。ソフィよりも、数歩余分に。
「……あれ、なんでソフィがここにいるんだよ!今魔王討伐作戦中だろう!?おいアオイ、ヴィルは!?アイツはどうなった!!」
「っは、そうや、ヴィル君…!!」
思考が回り始めようやく現状確認に辿り着いたチトは、声を荒げて周囲を見回した。つられて焦り始めた葵と共に感じる魔王の魔力の先を見て、思わずその目を見開いた。
―――
ソフィが葵の元へ降り立ったばかりの頃、ルシエとオルコスは満身創痍のヴィルの元へ一直線に駆け寄った。碌な警戒心もないままヴィルに寄り添う一心での行動であり、邪魔が入るだろうと予想していたが魔王の視線は新たに戦場に現れたソフィだけに向けられており、干渉はなかった。直ぐにオルコスから全身を回復してもらったヴィルは未だソフィから視線を離さない魔王を警戒しながらも、静かに距離を取る。
「…ヴィル、説教確定」
「そう言えばそうだったな…どうして気付かれてしまったんだ?脱出に関してはまあ、ソフィが何かしたんだろうが…あの二人が本気で仕掛けたものだったのに」
「アオイちゃんは兎も角、チトさんはわたくしの存在に油断し過ぎです!わたくしはこれでも現世界で聖属性魔法における世界一とすら謳われる存在ですよ?あの程度の睡眠効果、自力で打ち破れます」
警戒心は一切緩んる事無く、それでも丁寧に現状を把握していく三人から零れるのは普段通りの軽口だった。あえていつも通りの調子を作り出したのは、意識が向けられていなくとも圧倒的な威圧感と禍々しい魔力を常時発している魔王を前に、尻尾を巻いて逃げ出したくなる自分自身を各自が誤魔化す為だった。むすりと口を噤むルシエに頬を膨らませてご立腹なオルコス。二人が隣にいるだけで、つい先ほどまで完全に死を待つばかりだったヴィルの気が瞬時に切り替わるのだから困ったものだ。ヴィルが下す結論はいつだって最終決定であり、即ち確定事項であった。結論が出てから覆されることなど本来あってはならない筈だったのだ。それでも、学園入学以降ヴィルはひっそりと決定を歪め続けている。良くはないのだろう、それは理解していても、結局意志が揺らいでしまうのだからどうしようもない。苦笑を浮かべるだけに留めたヴィルは、先程までとは大きく違って見える魔王を改めて見据えた。
「…あれが、魔王」
「話には聞いていましたが、アオイちゃんにそっくりです」
「実の母君との話だったが…俺も初見は酷く驚かされたな」
葵とよく似た顔立ち、碧眼、けれども銀髪。本来であればその髪色は生まれ持った美しいものであると判断されるはずだったが、彼女の過ごした日々を聞けば苦労の連続が故に変色してしまったのではと考えてしまう。発する魔力は禍々しいが、いつだって明確な殺意が感じられなかった妙な存在。先程までは時間を稼ぐ方向性でしか物事を考えられなかったが、仲間が増えた以上新たな方向性を見付ける良い機会かもしれない。時間が経てば葵やチトの援護だって見込める筈。そんな事を高速で思考し続けていたヴィルは、黙り込んでいた魔王がゆっくりと視線をヴィル達三人に向けた事で無意識に杖を構える。
口角を上げた魔王は、ゆるりと微笑を浮かべて首を傾げた。
「……ねぇ、良い事ヲ教えてあゲル」
警戒心を一層引き上げた三人は、無言でその続きを待つ。魔王は相も変わらず殺気を三人に向けないまま、口を開いた。
「魔王とハ世界が作り上げた傀儡。世界樹ガ望むまマニ動く事しか出来ナイ哀レな魔物」
どこかからミシリと何かが軋むような音が響き渡る。その音は、結界魔法が破壊される際の音とよく似ていた様な気がした。警戒を向けたまま杖先を向ける三人の前で魔王は、穏やかに”笑った”。確かに、人間らしい不格好で美しい表情で。
「世界樹ガ望マナイ動きをすれバ、芽生えタ自我ガ奪わレテいク。お願イ、チト君とアオイちゃんのオトモダチ。ワタわワタシシシはモウ、ジジジ自ィ我ををを保っテいイられナナナイ。複クク製体イイイのジャジジシャ弱テ点ンンハハハ、アハハハハハッ、アタ、アタタタラシシシイ、……魔法、」
窓ガラスが砕ける様な、甲高い音。それは、イブキが厳重に保護していた自我を確立させる機能が崩壊させられた音だった。あたりに響き渡る音と裏腹に、魔王は全ての表情を失ってそこに立ち竦んでいる。先程までとは決定的に違う要素、それは突如として広がる肌を刺すような殺気が全てを物語っていた。
―――イブキの複製体は、魔王として振る舞いながらもこれまでずっと自我を奥底で保っていた。チトの戦闘に巻き込まれる可能性があるヴィルを引きはがし、意図的に現れた三人を分断する。対立を促し意識を集中させる裏腹で、敢えてただの人間であるヴィルを弄ぶという体裁で孤立させ、遊んでいるフリで決して殺さない様に舞おうとして無尽蔵に溢れ狂う殺戮衝動を抑え続けていたのだ。
世界樹は、直接規定に抵触しなければ確実に審判を下す事はない。下す事が出来ないのだ。だから複製体は敢えて、チトが葵の手で正気に戻る瞬間を今か今かと待ち構えていた。それは過去を乗り越える事でイブキを背負う複製体自身への抵抗心をなくし、確実に人類を勝利へと導くための複線でもあったのだ。けれども時間が経つにつれて二人の戦闘は暗雲が立ちこみ始め、ついに葵は一時的に再起不能へと陥ってしまった。一体どうすれば現状を打破できるのかと自らが討伐されるための方法を必死で考えれいれば、確実に干渉してこないだろうと事前に予測を立てていたソフィが登場したのである、
ソフィであればチトを意図も容易く勝機へと戻してくれるだろう。チトが戻れば、葵もどうにか調子を取り戻してくれるかもしれない。そすれば、自身が討伐されるための算段も新たに建てることが出来るはずだ。複製体は自身が本体の劣化版でありながら魔王と言う絶対的な力を経て非常に高い能力を持っている自覚があった。だからこそ、どうにかして討伐に繋がる重大なきかっけを人類に与える必要があると考えた。けれども討伐に安易につながるきっかけを与えてしまえば、確実に世界樹に世って審判が下され自我を飛ばされることもまた同時に理解していたのだ。
ソフィの到着は、複製体にとって完全に時が満ちるのと同義だったのである。
砕け散る意識の外で困惑の表情を浮かべたまま固まっている三人の子供達。どうか、彼らがイブキの最後の自我をもって伝えた言葉の真意を理解してくれれば良いのだけれど。崩れ行く自我の片隅で、複製体は未だソフィと対峙するチトへ視線を向けた。
―――本当は、直接伝えたかったなぁ。
元よりイブキの複製体である彼女は、最初から最後まで一貫して与えられた目的を達し続けてきたのだ。理論上永遠に作動する事が可能である複製体は、イブキがチトの為だけに残した最高傑作だった。もしイブキがチトの元を去ったとしても、複製体と言う記録媒体によって寄り添い続ける事が可能だと考えて作り出されたイブキなりの”愛の魔法”こそが、複製体の正体だったのである。
チトの母親が彼に残した魔法とは大きく異なる、けれども何かと共にあり続けたいという本質は全く持って同じ唯一の魔法。犠牲が自らの命であったか、完成に至るまでに自らが積み重ねてきた時間であったのか、それだけの違いだった。そんなイブキがチトと出会ってから殆どの時間を掛けて作り上げた複製体に向けて放った命令は、最期までたった一つだった。
”チト君の力になって欲しい”
薄れゆく作り物の自我は、自身がチトの為だけに本体の意志を叶えるべく崩壊してしまう矛盾を少しだけ申し訳なく、けれども愛する者の役に立ったまま機能を停止する事実に心からの充足感を覚えながら、今度こそ完全にその意識を絶つのだった。
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