95話 初対面の再開
静かに空から舞い落ちてくる雪は、変わらず葵と対峙するイブキだけを避けてゆっくりと降り積もっていく。雪空に不釣合いな蒼い花々が広がる景色が確かに白一色へと変わっていく様子は、等しくこの空間が保たれる制限時間を示しているのかもしれない。直ぐではない、けれども近い間に必ず訪れる終幕を待ちわびる世界で、独り取り残されていた筈の少女は葵の心ばかりの反撃を直に喰らってピクリと頬を震わせながらも改めて笑みを浮かべた。深呼吸を挟んだのは、間違いなく瞬間的に積み重なった感情を一度吐き出して今必要な会話のやり取りをする為の転換点を作ったからなのだろう。手に取る様にイブキの行動の意図が読めていく葵は、何とも言えない感情を喉奥に溜め込みながらも話題提示をじっと待った。
「…伊吹 あおいさん、か。間違いなく私の血縁者だよねー…何となく、その可能性は考慮の内には居れてたんだけど…。残念ながら、私の封印を解いたのは、私本体ではなかった訳だ」
ワザとらしく呆けた表情を浮かべたイブキは、次いで机に両手で頬杖をついて大袈裟に肩を竦めた。椅子に座った足を宙に浮かせて幼い子供のように揺らすのは、現状を重く見ていないと誤魔化す為だと理解できてしまう。無邪気で能天気な笑みを浮かべたイブキは、残念、と何ともないように言い捨てて両手を伸ばし机に上半身を突っ伏してしまった。咄嗟に歪んだ表情を相手から隠すための言い訳だ。全部分かる、分かってしまう。彼女こそが、間違いなくイブキが嘗て残した複製体が保存し続けてきた記録を元に作られた、意識体本人である。
「本体はもう、この世界には居ないんだね。無事元の世界に還れたのかな?…いや、私そっくりの貴女がこの場所に現れたって事は、計画通り元の世界で馬鹿みたいに幸せになったのかも!小屋に仕掛ける予定の魔法陣は、本人もしくは本人以降の血縁者を辿る様に指定が施されている筈だからね。ねぇ、今本体は何をしてるの?元気?それとも、また馬鹿みたいなお人好しで割喰らってる?自覚はあるんだけどねー、こればっかりはいつまで経っても直らないんだ。…聞いてる?あおいさん」
「……死んだよ?」
「…え、」
「交通事故で、ウチ以外を残してみーんな死んじゃった。察しがついてるかもしれないけど、駆け落ち婚だったからね。残されたこっちはたまったもんじゃないよ。本家のあれこれに巻き込まれて毎日最悪」
「……」
驚きに顔を上げ、息を呑んだ複製体が次いで浮かべたのは全ての感情を押し殺した無表情だった。咄嗟に動揺できない、それはイブキがこの世界で積み重ねてきた哀しい処世術なのだろう。何もかもを隠す様に表情を消した複製体は、自嘲するように笑った葵の言葉を何度も咀嚼するように瞬きを繰り返して、それから机へと視線を落とす。何を言っていいのか分からない、そう分かりやすく表現された葵が投げられる言葉など、この瞬間どこにも存在しなかった。果たして、自分は目の前の母親が嘗て残した人形に何を求めているのだろうか。案の定自分そっくりの行動原理を見せる複製体は、あくまでこの世界で過ごしたイブキの記録しか保持していない。その先の未来の話も、当然葵が実の娘である事だって今の葵の発言によってようやく理解した位のものだ。母親としての彼女を求めるのはお門違いだと理解していて、ならば素直に結末を告げたのは一体何故なのだろう。謝罪を求めていた?何の?慰められたかった?どうして?
「…あおいさんは、」
「貴女の実の娘、やね」
「そう。…でも、あおいさん…いや、あおいちゃんは今生きてる。それだけでも、まだ、」
「丁度死のうとしとったんやで?その時、この世界に召喚されたんやけどね」
「っ、」
言葉を探して、言い淀んで。どうにか絞り出した最適解の筈が、数多の地雷を踏み抜いていく。葵は今の複製体がどれだけ大混乱の渦に呑まれているのか理解できていた。それでいて、助けるつもりにはならなかった。母親が呆気なく死んだことによって、葵は現代日本で様々な不幸を被った。それは紛れもない事実だ。ようやく終わるための決心がついたその瞬間この世界に呼び出されたのだって、半分は母親がこの世界に残した身勝手な魔法陣のせいだった。けれども最終的に自殺以外の道を探す様になったのも、現代日本で散々な目に合った挙句この世界に召喚されて新たな日常を享受したからだ。良くも悪くも、あった。だから葵はこれ以上目の前の複製体を苦境に立たせる事も、逆に救いの一手を差し伸べる事も、どちらの道も選ばなかったのである。
「私、は、」
何も言葉が見つからなかったのだろう。ついに分かりやすく動揺を表情にさえ表したところで、葵はようやく喉元までせり上がっていた無数の罵詈雑言を鎮める事に成功した。ここまで平常を乱してくれた。それだけで随分と気が軽くなったのである。まだ母親ではない目の前のただの記録を持っただけの人形。けれども、未来の母親であり今の自分を作るきっかけとなった存在の一つでもある複製体が葵の未来の話を聞いて常に身に着けていた仮面を完全に崩した。それは随分と歪んで不器用でありながらも、母親からの愛を声なき声で求めていた葵にとって十分満足が出来る結果だったのである。
「話を変えよう。深呼吸、していいから」
「ぁ…、…本当にあおいちゃんは、私の娘なんだね」
「深呼吸はもやもや全部を吐き出して、ゼロから新しい気持ちを呑みこむ儀式…だっけ。何回も教えてもらったからね」
「うん、その通り。そっか…、…そっかー…あはは、ごめんね格好悪い所を見せちゃって。切り替えるよ」
迷子の様な表情で視線をさ迷わせていた複製体は、葵の一言に僅かに瞳を輝かせてそれから言われたとおりに瞼を落として大きく深呼吸をした。次に瞳が見えた時、先程までの動揺や混乱、困惑、焦りの全ての感情は全て綺麗に見えなくなっている。自己催眠に等しいその言葉は、嘗て葵が母親から直接教わった知識の一つだったのだ。いつだったか、覚え始めたばかりだった嘘が上手くいかず落ち込んでいた時。直ぐに切り替えて新たな嘘をつけばいいと、そう言ってからりと笑った母親の言葉は痛いほど葵の根源に染み付いていた。いつだって葵の言動には深呼吸が付き物だ。最近はどうやらソフィが葵の真似をするようになった事には気付いていたが、指摘するまでもないと放置していたりもする。それくらい、身近な行動だった。
改めて姿勢を正し、杖を一振りすれば現れたのはお馴染みの紅茶一式。綺麗な銀装飾が施されたティーカップには、綺麗な紅茶の水面が静かに揺れていた。チトやソフィが時折使っているところを目にする魔法の一つ、それは幾度となく見てきた記録の中で何度も繰り返された魔法でもある。この魔法を考えたのはソフィなのか、イブキなのか、それとも過去の人類なのか。チトの様なタイプがここまで繊細な魔法を自力でわざわざ考えるとは思えないので最初から除外されているのは秘密だ。与えられた紅茶は果たして、この徐々に白一色に染まりつつある意識体が作り出した世界で口にすることが出来るのだろうか。そんな疑問と共に口に含めば、馴染みある柔らかい茶葉の風味が口内に広がって無意識にほうと息をついた。
そんな葵の様子を満足気に眺めていた複製体も自ら作り出した紅茶を軽く口に含んでから小さく息をつく。改めて互いに視線を結び合えば、次いで複製体が口を開くまでにはそう長い時間は要さなかった。
「恐らく、あおいちゃんが私からのプレゼントを受け取ってくれたんだよね?あれはもう理解していると思うけど、以前使っていた杖の柄の部分に記録を残して次の使用者に徐々に再生する魔法陣が発動するよう仕込んであったんだ。実験した上で使ったわけじゃないから、無事発動したなら良かった。一応、感想とかもらえたりする?今後に活かす…事はもうできないかもしれないけど、魔法陣製作者として使用者の声は積極的に聞いておきたいタイプなんだ」
複製体にとっては純粋無垢で、素朴な問いかけ。葵にとっては、地獄の蓋を今更相手から開けられた瞬間的な絶望。折角建設的な会話をする為に場を整えたつもりだったのに、自らそれを崩してしまう自覚があった葵は僅かに眉を歪め言葉を呑みこもうとしたが、結局深呼吸をするより先に飛び出してしまった為に止める事は諦めてしまった。
「あの記録…」
「うんうん、」
「チト君が貴女のモノだって主張したかったの?それとも、チト君を人間に近付けたきっかけは自分だったんだって次の杖の使用者に分からせたかった?」
「…、へ?」
純粋な研究者として葵の言葉に期待を寄せていた複製体の表情が瞬時に固まった。けれども一度言い出してしまえばもう止められない。複製体の返事を遮る様に、冷めた目つきで睨みつけた葵は動揺する姿を決して気遣うことなく言葉を畳みかけていく。言葉の全てに負の感情が込められた鋭い刃は、一本残らず複製体に突き刺さった事だろう。言葉を失った複製体を前に、葵は止まらなかった。
「貴女がチト君の事を恋愛的に好きで、最終的に自らの意志で諦めたって事は理解できた。だって、チト君は最後まで貴女の事を”家族”として見ていても、恋愛対象として見る事はなかったんだから。だから、自分を逃したことを後悔させてやる、誰よりも幸せになるって一心で元の世界でお父さんと結婚、ウチが生まれた」
「ちょ、ちょっと待って、」
「ウチはどうしたって貴女の娘や。貴方と同じようにチト君を好きになって、チト君にも好きになってもらいたいって…対等な立場に並びたいって当たり前のように思った。でも、その度に貴女の影がいつもいつも邪魔をした!チト君やソフィの言動だけじゃない。貴女が見せつけてくる記録の数々が、いっつもウチを苦しめたんや!!」
果して、自分はこんなことを言いたいが為に複製体の前に立ったのだろうか。激情する感情とは裏腹にどこかで冷静な自分が、俯瞰的に状況を見てぽつりと脳内で呟いた。葵は最早自分が何を言いたかったのか、何を目的としていたのか、それすら見失いかけていた。まるで上手く物事が進まない現実に喚く幼い子供の様な自分自身の言動に呆れる反面、どこか嬉々としている自分が居る事実がとても信じられなくて、それでも葵の中にある冷静さは決して感情のまま叫ぶ現状を止めようとは考えなかったのだ。
「貴女はどこまでウチの気持ちを弄べば気が済むん!?どれだけ時間が経ってもチト君から忘れられない様にしてもらう為だけに身勝手な布石をばら撒いて、その全てを丁寧に回収していかなくちゃいけないウチの身にもなってよ!!」
感情のまま机を叩く。ティーカップが揺れて、紅茶が溢れる。卓上に溢れる中身が、半分以上の中身を失ったカップが、まるで葵の心の内を示しているようで無性に惨めな気分にさせられた。家族を失って以降の葵は、どれだけ注がれても結局今の僅かに残っただけのカップの中身の様な埋まらない穴を抱えていたのだ。折角縋りたい相手が出来ても、失った母親の影がちらついて塞がらない。それが惨めで、情けなくて、どうしようもなく寂しくて。積み重なった葵の負の感情は、爆発先を見つけられずに只管山となって行くばかりで。ようやく見つけた、母親じゃない母親。知っているのに知らないお母さん。全てをぶつけずにはいられなかったのである。
葵は日々見せつけられる過去の記録を、常に忌々しいものだと認識していた。折角チトに近付けたのだと期待しても、いつかの記録から嘗てイブキが全く同じ行為をしていたからこそ積み重ねられた上で、ようやく理解に達し受け入れられていたのだと理解させられては苦しむ毎日だった。
葵にとってイブキが残した記録は呪いであった。ただ只管に、イブキとチトが二人だけの世界で積み重ねていった関係性を見せつけられる行為は、はっきり言って苦痛でしかない。そして、それ程までに好きだった相手を残して身勝手にも地球に還り、自分と言う存在が生まれてしまった事実がどうしても許せなかったのだ。
いっそ葵が男であればそんな苦難に立ち向かう必要はなかったのかもしれない。けれども、葵はどこまでもイブキの生き方を引き継いだイブキそっくりの少女だった。先に出会ったか、後に出会ったか。どう足掻いても埋められない明確な差は葵にとって最も恐ろしい現実そのものであり、永遠に解放される事等ない苦悩そのものだったのである。
「なぁ…今、どんな気持ちなん?後から現れたウチがアンタの思い通り散々苦しんどる様子を見て満足?やっぱり自分がチト君の中で一番なんやって、優越感にでも浸っとるの!?」
「それは違う!!」
「何も間違ってなんかいない!そうじゃなきゃ、どうしてあんな記録なんて残したの。どうして私がこの世界に召喚される可能性を残したの。どうして…死んじゃったの、ねぇ…っ!!」
小屋でチト達に対して見せた暴走とは全く異なる、感情の爆発。暴走と異なるそれは、葵の心の内、その奥深くに丁寧に沈められていた筈の言葉に出来ない苦悩の全てが吐き出されたものだった。何故今になって初めてこの場で口にするに至ったのかと言えば、それはどうしようもなく目の前の相手が…葵の母親となる少女の顔をしていたからである。
それは所謂、子供が親に向ける反抗期や思春期と言った本能的な感情に等しい、酷く人間臭いものだった。
しかし、残念ながら目の前の複製体は元の世界へ戻り葵を生み育てた母親としての記録を持たない。それどころか、母親本人ですらない母親の写し人形でしかなかった。ただこの世界に囚われて長く生きただけの、独りの少女の記録。彼女は確かに沢山の人間の醜さを知ったが、この世界において恋愛と言う感情を正しく抱いたのはチトが初めて出会ったのだ。そんな少女の複製体が突然ぶつけられる感情の波に素直に怯え、無意識で涙を浮かべたまま振るえる喉で必死に吐き出したのは、問いに答えるだけで精いっぱいである証拠だった。
「ウチ、は…っチト君の!呪いを、解いて欲しくて…っ!!ウチじゃ見付けられんかった、それだけなのっ!!未来の貴女を苦しめたかった訳じゃない、この世界に自分を残そうとしたのは確かにウチの傲慢やった。でも、貴女がそこまで苦しい目に合うんだったら…何も、何一つ残さなければ良かった!!」
「なんでっ!!どうして、なんで一度決めた事を貫いてくれないの!?やめてよ、私が悪いみたいじゃん!!」
口調が逆転する。それは、互いが隠し持っていた本音が正面から衝突したからこその現象だった。複製体の感情が大きく揺れたからなのだろうか、静かに降り積もっていた雪は次第に豪雪へと変わり、辺り一帯の蒼い花々を一瞬にして埋め尽くしてしまった。最早この世界に残る色は複製体と葵、そして机や椅子、倒されたティーカップとその中身位である。
「約束、したんだもんっ…!ウチ、チト君の呪いを絶対に解く方法を見付けるって、でも、でもっ…!ウチにはウチの責任があった!キーフを、あの国にちゃんと終幕を与えるって立場の責任が!だから残したの、せめて力になれればって、でもっ…!!」
「…っちょっと、そんなに泣かないでよ!泣きたいのは、私の方…なの、にぃ…っ!!」
喉の奥から絞り出すような声。嘘つきで、不器用で、下手糞な泣き方まで全く同じだった。大きな声も出せずに、しゃくりあげてただ只管涙を零す。不規則な呼吸に喘ぎながら、感情を吐き出す様に水分を絞り出すのだ。
「ウチやってチト君が好きやった!でも、いつまで経ってもチト君はウチの事を家族としてしか見てくれんかった!!そんなの、諦めるしかないやん…!悔しくて、哀しくて、寂しくて、辛くて、だからもっといい恋をして見返してやろうって思った!ウチが幸せになれば、チト君は自分の幸せを取り逃したんだって気付いてくれるかもしれんと思ったから!!アンタがウチの娘やって言うなら、それはチト君への復讐の証明や!!お前が取り逃した幸せはここにあるって、ウチの初めての勝ちやって!!」
「そんな事全部分かってる!それでも私は、私だってチト君に見てもらえなかったの…!!ずっと貴女を通して見られ続けて、ようやく治まったかと思えば今度は子ども扱い…!もう、本当にあの男、アイツが全部悪い!!」
幼い子供同士の喧嘩染みた言葉の応報。次第に矛先が話題の中心人物であるチトに向けられるのは、女の喧嘩としては正しい終着点なのかもしれない、震える身体で苦悩を吐き出して、それでもこのままでは終わらせない。次に進むための言葉を、確かに葵は自ら口にした。
「母さんの馬鹿、阿保!」
「ウチはアンタのお母さんやない!」
「うぅ~~~っ!!どうして死んじゃったの!母さんが死ななければこんな事ならなかったのに…!!」
「そんなの知らんわ!元の世界に戻ってから死んだなら、単純に魔法がなかったからやろ!魔法は夢の力や、これさえあれば全ての願いは叶う!」
「……母さんも、そう思ってるんだ」
最早互いに何が言いたいのか分からなくなってきた頃、ふと我に返った葵は複製体の一言に自分の嘗ての発言を重ねて小さく息を吐いた。その様子に落ち着きを取り戻したらしい複製体も深呼吸を繰り返して苦笑を浮かべる。ゆっくりと再び顔を上げ視線を重ねる瞬間すら全く同じだった。訳も分からず赤い目で笑い合って、先に小さく頷いた複製体は口を開く。
「———チト君の呪いを解いて。それだけが私の本体が最期に残した想いだから」
「…勿論、最初からそのつもりやし」
「ヒントはもう見つけてあるの。チト君の呪いを解く鍵は、恐らくチト君自身の嘗ての記録に残されている。だから、チト君の過去を知るための作戦を迷宮攻略の最中から本体は計画していた。全ての魔法陣において、解除する方法は発動させた魔法陣に残されている、これはこの世界の法則であり確実な規定。この迷宮で記録の共有が止まっている私には実際チト君がどうして不老不死の呪いを受ける事になったのか知らないけど…あおいちゃんは視たでしょう?」
「うん…」
「よし。最後に、今の私自身を取り巻く状況は、封印が解除された直後に設定されていた自己審査機構によって理解しているつもり。まさか、私が魔王に選ばれるなんて流石に考えた事もなかったけど…やっぱり、こんな身勝手な魔法は禁忌指定されるべきなんだよね。一応当初の目的は、私があらゆる理由で居なくなった後もチト君を独りにしない為ってそれだけだったんだけど…」
「知ってる…って言うか、察してた」
「やっぱり?」
真剣な表情を崩して悪戯っ子のように肩を竦めた複製体は、どこか気恥ずかしそうに視線をさ迷わせながらも直ぐに冷静さを取り戻した。流石の切り替えの早さである。自らを魔王であると認めている、それは非常に厄介な問題だ。魔王は最終的に魔王の立場に至るだけで、生まれながらに魔王という訳ではない。ただ魔王になる事が決まっているだけの状態なのだ。だから不用意に消滅する事は世界が絶対に許さないし、許されない。けれども今回の複製体のように、最初から自分が魔王になるべく育てられている存在だと認識している場合、話は大きく異なってくる。魔王の力を手に入れていると認識が既に定まっているのだ。その能力を最大限に利用されれば矢張り戦線は苦境を強いられることとなるだろう。僅かに表情を鋭く変えた葵を前にどこか困ったような表情を浮かべた複製体は、言葉を探しながらもはっきりと言い切った。
「私がどれだけ意識を保てるかは分からない。そもそも、魔王の意識がどんなものかも全くの未知数だからね。それでも…最大限、力を制御して見せる。だから……必ず、私を討伐して」
「………うん、分かった」
同じ男に恋をした少女たちは、嘘で固める事で守ってきた本心の奥底を馬鹿みたいに晒し合った結果互いを理解するに至った。自分たちがどうしようもない、愚かな人間である事を再確認したのだ。人間的に如何に愚かでも、やれることは決まっている。葵は魔王の討伐を、複製体は魔王としての自分の制御を。只管に重ね、目標を達する。その為の犠牲は厭わない。複製体に至っては、本体譲りの自己犠牲精神などお手のものなのだから。
遂に視界に広がる色は、互いと紅茶の零れた水面だけだ。不思議と机や椅子が消えた世界で、紅茶だけが残されているのはまるで残りの命の灯を数えている様にすら思える。不謹慎だろうか、果たしてどちらの命の話なのだろうか。そんな下らない事を葵が独り考えていれば、複製体は静かに歩み出し背後に立った。
「チト君の事、よろしくね。…貴女は私の可愛い娘なんでしょう。だから…あおい、頑張ってね!」
「っかあさ、」
そっと背中を押された刹那、視界全部は白で埋め尽くされて無へと切り替わる。残されたのは、何もない空白だけだった。
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