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91話 決戦前夜


「あれ?チト君おかえりー、結構早かったね」

「おう……ただいまアオイ。小屋に仕掛けられていた魔法陣の解析はソフィと完了させた。アイツ、とんでもない魔法陣を残していきやがったな」

「んふ、発言の割に随分楽しそうな顔しとるけど?」


トート中央にあるチトが国から支給された別邸、その端にひっそり建てられた小屋の自分の部屋のベッドで古びた書物を眺めていた葵は、玄関の扉が開く音に顔を上げた。迷いのない足取りで葵の部屋の戸を軽く叩き返事を待たずベッドに倒れ込んできたチトの表情は疲れ切っている。どうやら久方ぶりの本気の魔法陣解読に相当頭を使う羽目になったらしい。ごく自然な動作で上半身を起こしていた葵をベッドに転がしたチトは、そのまま背後から抱え込むように捕まえて満足気に唸った。


「……なんで態々ウチのベッドに?チト君の部屋は隣やけど」

「んー、なんとなく?癒しが欲しい気分になったの」


人に懐かない飼い猫が突如としてデレて来たような、そんな甘える様な振る舞いを受けて葵はわざとらしくため息を吐く事しか出来なかった。イブキが小屋に残した魔法陣の仕掛けは、葵が見る限り相当滅茶苦茶なものだった。自己中心的で、共感性羞恥を強制的に引き出されるような下らない意図が透けて見えるそれ。けれども果たして、鈍感長寿人外二人組が力を合わせたところで正しく理解できるものだろうか。どうせ首を傾げるだけ傾げて諦めて解散したのだろう結論は目に見えていた。


ならば一体何故、チトは今こうして葵に対して甘える様な仕草を見せているのだろうか。そんなものは、葵から見れば一目瞭然だった。矢張り自分は、チトの中で嘗ての彼女と同じ立場になってしまったのだろうと、そんな秘かな諦観はため息事飲み込む。代わりに飛び出したのは、意地の悪い中途半端な文句だった。


「イブキの面影をウチに見出してたかと思えば、今度は何のつもり?」

「…その点は悪かったよ。確かに俺はこれまでお前とアイツを同一人物までとはいかなくても、重ねてみていた事は認める。でも、アオイは何百年もの時間を抱えて生きてきた訳じゃないからな」

「うわ、思いっきりガキ扱いやん…ほんまチト君って分かっとらんね、最低」

「はぁ…?お前をちゃんと見てるって証拠だろ、子供を癒しに使って何が悪いんだよ」

「全部悪いわこのドあほ…」


どうやら葵が想定していた以上にチトは疲れているらしい。普段なら多少なりとも意地悪かったり、茶化すような言動を混ぜて言葉を発する面影は一切なく、緩い活舌とのんびりとおぼつかない速度で紡がれていく間違いないチトの本心に葵は頭を抱える事しか出来なかった。どうしてこう、何もかもが上手くいかないのだろうか。これまではそれなりにやれていた筈なのに、チトの事を知れば知るほど思う様に物事が進まなくなる。知らなかった頃の方が場面に対する最適解を正しく導くことが出来ていた。今だって、自分が傷つくと分かっている言葉を自ら引き出す予定なんて当然なかったのに。


「お前、気付かねー間に随分デカくなったな。俺の身長追い越してるんじゃね?」

「まぁ成長期やし、この世界来てから沢山ご飯食べるようになったから…ってか、離して。ウチ子供扱いはほんまに嫌」


強引に藻掻いて身体の向きを変えれば、対して強くもないチトの拘束はあったり解ける。一体どんな表情を浮かべているのか、揶揄ってやろう。そんな事を考えて振り向いたはずが、チトとの距離感は少し首を動かせば額同士が重なってしまいそうな程近かったのだ。僅かに目を見開いた葵は、それでも距離を取る事無く無遠慮に額同士を重ね合わせた。驚いた表情を浮かべるチトに向けて、敢えて小声で囁く。



「あんまウチの事舐めんといてな?いつまでも純粋無垢な子供やと思っとるなら、足元掬われるからね」



強がりと、小さな期待。これじゃあ結局、自らの欲望のままに魔法陣を残していったイブキと同じではないか。自分の存在を僅かにでもチトに刻みつけたくて、きっと目の前の大きな子供がこれまで一度だってかけられたことがないだろうと分かっている言葉を敢えて投げ掛ける。不思議そうに瞳を瞬いたチトの前には、分かりやすく疑問符が浮かんでいた。こんなささやかなやり取りすら、長寿種であるチトの中では少なくとも記録として後世に残っていくのだろう。絶対に見返してやる。先に壁を取り壊してきたのはチトの方だ。葵はずっと葵のままであろうと藻掻いてきた。努力してきた。それなのに、この男は。ひっそりと深呼吸をした葵は、自分の中に渦巻く無数のどうしようもない感情全てを押さえつけて改めてチトと至近距離で瞳を見合わせる。



「———分かった?チト君」



悪戯っ子の笑みを浮かべてその額に口づけを落とす。困惑気味に咄嗟に触れられた額を撫でたチトを鼻で笑って、葵は再び身体の向きをベッドの外側へと変えた。年頃の少女からここまでされても、チトはその意味を理解する事が出来ないのだろう。それはチトがこれまで経験してきた全ての出来事が原因だ。無責任な女たちがチトに残していく物理的、精神的双方の呪い。葵にはそうされる理由がはっきりと理解できてしまった。チトが悪いのだ。これがただの不運だと言うならば、一体チトは前世でどんな大罪を引き起こしたのだろう。それくらい、チトは女を狂わせる何かを持っていた。理解しないからこそ、つけあがる。自分も、嘗ての母親も。いつかその全てをチトが理解した日が来たら、この男は一体何を思うのだろうか。


…嫌だな、これじゃ結局母さんと一緒じゃん。



未だ混乱するチトに背を向けたまま眉を歪めた葵は、背後から感じる吐息から自らの身を守る様に縮こまって強引に眠りについた。



―――今はまだ、その時じゃない。



―――



「いよいよ明日、か」



ルシエは独り、中央でも王城寄りに建てられた巨大な屋敷の屋根上に登って夜空を眺めていた。満天の星空がどこまでも広がり、満ちた月が灯りの消えた街を照らしている。両手の親指と人差し指で長方形を作りその一瞬を枠に収めようとすれば、景色を塗り潰す様に薄暗い雲が入り込んできた。無粋な雲だと肩を落として不意に自らの指先に気が向いて、そこで初めで自分の身体が震えていたことに気付いた。落ち着かない歯がゆさに瞼を細め、暫くの間忙しない掌を見詰めていたルシエだったが、結局苦笑を浮かべながら強引に伸びをして屋根に寝転がった。


「これまではヴィルが、ルシエが知らないところで沢山守ってくれてた」


それは、オーフ訪問が決まった頃から怒涛のように押し寄せてきた世界の様々な真実に直接触れたからこそ辿り着いた結論である。元より守られている自覚は痛いほどあった。それが悔しくてやるせない気持ちになるのは日常だった。けれども、それ以上に自分はヴィルの助けになれているのだと思い込んでいた。その認識は全てが間違っていた。ルシエはただ、ヴィルの背中を押していただけだった。最終決定までが下された完成した結論に頷いていただけだった。居ても居なくても、きっと何も変わらず国は回っていたのだ。ヴィルは本当に、個人の感情だけを理由にルシエを全ての悪意から守り抜いてくれていたのである。


二国の大賢者が共同声明を発進した事によって浮き彫りになった国内外の貴族たちによる直接的な干渉は、ヴィルが庇いきれる範囲を大きく超えてルシエ自身に降りかかる様になった。家名も知らない他国の貴族、歴史だけは無駄に長い国内の中位貴族。果てには一介の騎士や官僚、商人に至るまでがルシエの目の前に現れた。卑しい意志に晒されて、翻弄されて、恐怖を覚えて初めて、ルシエは身をもってこれまでの考えの甘さを自覚する事になったのだ。


「甘かった、本当に。こんなんじゃ誰かの隣に立つ事すらままならない」


ヴィルだけじゃない、他の誰の隣に立つにも自分は相応しくないと本気で思った。弱いのだ、自分が持つ全てが。優秀な魔法能力を持つ、それがルシエの強みであり、逆に言えばそれ以外の価値がルシエには存在しなかった。嘗てはヴィルの婚約者という立場を持っていた。けれどもそれは、自らの手で捨ててしまった。ヴィルはその気になればいつでも立場を戻そうと言ってくれている。でも、それではダメなのだ。何も変わらない、変われない。意味がない。そもそもルシエが護衛の立場を選んだのは、ヴィルに守られるだけの自分が嫌になったからだった。決心した事件は過去にあっても、その想いはずっと抱えてきていたものだったのだから事件はあくまできっかけに過ぎなかった。ヴィルを護りたかった、ヴィルの背中を預けてもらえる人になりたかった、ヴィルに頼られる存在になりたかった。自分の世界を変えてくれた存在に、恩返しがしたかった。


きっと、ルシエは選択を間違えた。婚約者と言う立場を自ら手放したからこそ、余計ヴィルに守られるだけの存在に成り下がってしまったのだ。葵と出会って、様々な経験をして、ずっと見ないふりをしてきた疑念は確信に変わった。婚約者であれば、ヴィルと同じ秘密を抱える事が許されたのに、今の自分はそれすらない。客観的に見れば自分はただ一国の第二王子に大切に守られるだけの愛玩動物だ。


だからこそ、魔王討伐の話を自らの意志で引き受けた。本当の意味でヴィルを護るために、役に立つ為に、認めてもらうために。自分は守られるばかりの存在ではないと、知ってもらうために。きっと人生で初めて、本当の意味でヴィルの隣に立つ日が来るのだ。それが嬉しくて、同じくらい恐ろしくて。この討伐が無事に終われば、きっとヴィルの周辺は騒がしくなる。今でさえ落ち着かないのに、魔王を討った勇者と言う立場を手に入れれば今度こそヴィルはルシエを守るなんて”わがまま”が通用しなくなってしまう。政治的な意図で婚約者があてがわれる日も近いだろう。当然だ、ヴィルは第二王子で、今彼の隣に婚約者は存在していないのだから。勇者夫人で、しかも王家の血を引く相手との婚約を拒む女性なんてこの世界のどこにもいる筈がない。そうなれば本当にルシエは、ヴィルと一緒に居られなくなる。居る理由もなくなる。忘れられてしまうかもしれない、それは等しく、見捨てられるという意味を持っていて。


「……こわい。皆の中で一番何もできないのは、自分だ」


考えが深まるほど激しく震える身体が落ち着きを取り戻す様子はなく、自らの身体を抱え込むように小さく転がったルシエは普段であれば決して吐き出さないだろう本心を敢えて零した。それは自分自身を奮い立たせる、一種の呪いだった。


だって、死ぬかもしれないのだ。失うかもしれないのだ。これまで全てがヴィルによって作り出された生暖かい世界で生きてきたルシエにとって、その本能的な恐怖心は余りにも強すぎた。平気なフリを独りで居る時さえ続ける事すら難しい程に、彼女の精神は限界寸前まで追い詰められていたのである。


「いっそ…誰もルシエを知らない場所に、逃げてしまいたい」

「いいんじゃないかなぁ?」

「んっ!?…そ、ソフィ……」


絞り出された心の声に、まさか協賛者が現れるとは思っても居なかったルシエは身体の震えも忘れてなれたはずだった気配無く表れたエルフの存在に肩を落とす事しか出来なかった。



「やっほールシエちゃん、元気ぃ…ではなさそうだねえ。いい加減世界樹へ発とうとしていたら、君が独りで夜空を眺めるだなんてロマンチックな事をしていたから、来ちゃった!」

「ろま…ち、く?まぁ、碌な意味ではなさそうだけど…。何、茶化しに来たなら早く出発したら?」

「相変わらず誰相手でも冷たいねぇ」


意味もなく杖に腰を下ろして上空に現れたソフィは、月の影に怪しげに瞳だけを輝かせながら重力操作魔法でゆっくり降りてルシエの隣に腰を掛けた。わざとらしく上半身を起こし膝に顔を埋めたルシエに何を思ったのか、僅かな間を経て伸ばされた手のひらは確かに頭の上に乗せられる。


「…は?」

「よしよーし、ボクは恐怖って感情はまだ理解できていないけど、こういう時は余計な事は言わず寄り添う事が正解だって学習したからねぇ。因みにボクが誰かを慰めるのは、イブキちゃん、エトちゃんに続いて君が三人目なんだよぉ?褒められたことは一度もないけど、頑張ってみるねぇ」

「……光栄、とでも言えばいいの?」


状況が理解できず驚いて完全に固まったルシエの様子に気付いているのかいないのか、そのまま強引に肩を引いて自身の懐に収めたソフィは、意外とルシエが小柄であった事実に僅かに目を瞬きながらも静かに星空を見上げた。緩やかな声、普段であれば自分が動揺している時にこんな気の抜ける言葉をかけられて腹が立つのは当然だったが、今晩に限ってはルシエの心の隙間にすっと入り込んでくる。結局反論も何もできずにされるままになったルシエは、諦めて膝を抱えたままソフィに背中を預ける様に体重をかけた。


「ふふ、人間ってあったかいねぇ」

「……変態臭い」

「えぇ~?」


静かな吐息と、虫の音。そして僅かに吹き抜ける風の音だけが暫くその場を支配する。不意にソフィが零した緩やかな感想は、無意識に肩の力が入っていたルシエの緊張を解いて見せた。怖い位にいつも通りだ。否、ソフィにとってはこの程度の危機日常茶飯事に等しいのかもしれないけれど。ソフィと言う規格外のエルフと一緒に居ると、全てのしがらみがどうでも良くなってくる。だからこそ、ルシエはこのエルフと二人きりになる事を極端に恐れていた。自分を形作る生ぬるい世界を平気な顔で否定し、心の弱さを追求されてしまえば立っている事さえ難しいかもしれない。それは本能的な恐怖に近い感覚だった。けれども案外、ソフィは余計な事を言う訳でもなく小さく空気を吸い込んだ。


「…きらきらひかる、おそらのほしよ……、確か、こんな歌詞だったかなぁ?」

「慰めるって、まさか歌?」

「うん、定番じゃないの?」

「少なくともルシエは初めてだけど…、結構上手だね」

「ほんとぉ?初めて誰かに聞かせたけど…よし。じゃあ、いつか来る次の文明では歌手でも目指そうかなぁ?」


抵抗したところで意図も容易くねじ伏せられるだろう未来を察していたルシエは、大人しくソフィのやりたいようにさせることを決める。まさか人間の娯楽である歌を慰めに持ち出されるとは思わず口出ししてしまったが、特に気にした様子もなく流された。当然のように飛び出した次の文明の言葉に、自分を慰めるエルフがどうしようもない程長寿種であり、今回の魔王討伐で万が一でもルシエが恐れる死が訪れる可能性が一切存在しない事実を突きつけられて、無性に苦しくなった。ただの人間で、きっとソフィにとってはちっぽけ何だろう悩みを抱える自分が惨めに思えて仕方なかったのだ。腰をひねって見上げたソフィの顔は相も変わらずいつも通りで、何も変わらない。そんな精神性に憧れたのだろうか、気付いたらルシエの口から零れていたのは本当に思っているのかも怪しい子供の妄想だった。


「ルシエも…ソフィとかチトみたいに長寿種だったら、良かったのに」

「おやぁ?エトちゃんとは真逆の事を言うんだねぇ。彼はボクが初めて会った頃から今日までずっと自らの死を渇望し、死ぬ為だけの研究を執念で続けてきたような子だよぉ?…まぁ、すこーし事情が変わったみたいだけど」

「……そうなの?」

「うん。最初はボクに殺してもらおうと色々作戦を立てていたみたいだけど…その内ボクにその気がない事に気付いたのか、自力でどうにかしようと頑張ってるらしいねぇ。長寿なんて碌な事がない、とかなんとか?」

「へぇ…」


愉しそうな口調に思わず呆れ顔を浮かべながらも、不可抗力で新たに知ってしまったチトの真実を前にルシエはため息を吐く事しか出来なかった。あの大賢者、一体どれだけの秘密を抱え込めば気が済むんだ。しかもその秘密の全てが、本人にとっては秘密ですらない。聞かれなかったから答えなかっただけ、そういう男なのだ。こんな自国の大賢者が自殺志願者だなんて真実を片手間で知らされてしまって、今後大賢者に関する会話を国の人とするとき一体どんな顔をして向き合えばよいというのだろう。そんな風に頭を抱えるルシエが可笑しかったのか、くすくすと笑いだすソフィの腹を肘で打てば素直に呻き声が聞こえた。


「いたいよルシエちゃん…全く、女の子って暴力的だよねぇ。イブキちゃんも、ルコちゃんもそうだし。仕方がないから、最古の生命体ソフィ先生が少しだけ長寿種の弱点について教えてあげる。まずは何より、死ねない事が一番の問題だねぇ。それはすなわち、誰かが死んでも置いて行かれてしまうって意味がある身体よぉ」

「…ん、当然だね」

「愛する家族、大切な友人、生涯を誓い合った恋人。誰だっていいけど、人間が作り出した唯一無二の相手は簡単に死んでしまうんだ。それでもエトちゃんみたいに不老不死だと後を追いかける事、世界から逃げる事すら許されないんだよ。これはボク達長寿種の宿命だねぇ」


緩やかな笑みを浮かべたソフィは、ルシエに説明しているように見えて、その言葉を自分自身で噛み締める様に僅かに視線が落ちている。人間から見れば何の目的もなくただ只管に長寿な存在である彼らにも、彼らだからこその悩みがあるのは当然だった。今のルシエがどれだけ頭を捻ろうとも、実際に彼らが持つ考えの一端にすら触れる事は出来ないのだろう。一方で長寿種の者たちが、人間を根本的に理解できない事と同じように。


「長寿である事は、望みを手に入れる為には非常に優秀な事なのかもしれない。けれども、手に入れた先に待っているのはいつだって虚無だ。目的の為に生きる者たちにとって、目指す先が無くなる事程恐ろしい事はないんだよ。こんな話をしているボクだって、過去の文明では王や現人神として世に君臨していた事もあるんだよ?調整が面倒なら、直接世界事管理したらどうかなぁってそれくらいの理由だったけど…」

「今のソフィは大賢者」

「その通り。結局世界はボクが何かしてもしなくても勝手に滅亡へ向かっていったし、意味がない事を続ける理由なんてどこにもなかったからねぇ」


ルシエは少なくとも自分が知る歴史の中で、エルフが世界を支配しただなんて話や御伽噺ですら聞いた事がない。そしてソフィから統治者の風格を感じた事も一度もなかった。ソフィの生きてきた時間の中でも、相当昔の話なのだろうと理解できた。オーフの大賢者であるソフィが積極的に政治に参加した話は聞いた事がない。そもそも、大賢者に納まったのだって噂じゃオルコスに興味を持ったからだと言うのは有名な話で、今の二人の関係性を見ていればそれが真実である事は一目瞭然だった。それだけ政治どころか世界への興味も希薄なソフィに、理由はともあれ支配の感情が存在していた事の方が寧ろ驚きだったのだ。退屈そうに星空を見上げたソフィを見上げたルシエは、無意識でいつ見ても精巧に作り上げられた人形の様な美貌を持つエルフの顔立ちに呆けていた。ここまで間近で見たのは初めてだったかもしれない。


「…少なくともボクは、長寿種を望む事は勧められないかなぁ」


ルシエの視線に気付かずへらりと笑って肩を竦めたソフィは、ルシエを抱え込んでいた腕を離して屋根に転がった。先程までのルシエの様だ。考えなければならないのにそれが面倒で、億劫になって逃げだした時と同じ姿勢。ソフィがその姿勢を取った理由が自分が転がった理由とそう変わらないような気がして、ルシエは身体の向きを変えてソフィを見下ろした。


「不老不死…それはつまり時間が無限にあるって言う事。魔法を極めれば、守りたいと思った時守りたいと思った相手を完璧に守れるようになるんじゃないの?」

「自分が納得できる程度まで極めている間に、守りたい相手は死んじゃってると思うよぉ?」

「……往生際悪く余計なこと言ってごめんなさい。ルシエの発言が気に入らないなら直接言って、ソフィはそういう所が判り辛い」

「ふふ、そう言ってる時点で理解できているんだからいいの。ルシエちゃんも見ないうちに随分と賢くなったねぇ」


一度自分から言い出した発言をあっさり取り下げるのはどうにも気に入らなかった。そんな幼い子供の様な下らない感情の為だけにソフィの言葉に食い下がれば、表情は一切変わらない笑みである筈なのに無意識で背筋が振るえる感覚に気付いてルシエは素直に謝罪の言葉を口にした。以前であれば気付けなかった、本当に些細な違い。ただの圧じゃなくて、自分の思い通りにならない歯がゆさに苛立ちを覚えているからこそ発される違和感。自分の変化にばかり目が向いていたが、思えばこのエルフも相当変わってきている。魔王討伐を決定した小屋での会話の時もそうだが、それ以外でも実感できる機会は少なくないのだ。今もどこか不満そうに僅かに瞼を細めているのは、本心からルシエが長寿を望む現状を良くないと思っていて、その理由をルシエが正しく受け止めきれていない事に気付いたからなのだろう。


けれどもソフィは一つ勘違いをしている。どれだけソフィが心の底から不老長寿が良い事ばかりではないと考えていても、それは長寿だからこそ理解できる問題なのだ。ただの人間にとっては結局それは永遠の憧れで、何よりも叶わない夢でしかなかった。多分ソフィの考えを理解できる日は一生来ないよ、そう呟きかけて咄嗟に言葉を呑みこんだルシエは、折角目の前のエルフが大きな成長を見せているのだから余計な水を差すのは止めようと決めてソフィの隣に改めて腰を下ろす。視線だけで一連の動きを眺めていたソフィは、何か思う所があったのかクスリと笑った。


「ルシエちゃんは本当に変わったねぇ。まるで何か、新たな知見を得たみたいだ。ここ最近予知夢でも見たのかい?」

「……遠い先の可能性の未来を、少しだけ。そこにはソフィも居た」

「え、ほんと?どうだった?」

「んー…多分、普通の人間みたいに見えた」

「おやまぁ……」


瞳を瞬いて素直な反応を見せたソフィは、それ以上ルシエが予知夢の話を説明する気がない事を察して引き下がった。夜空だけを見上げるルシエの隣で目を瞑って、沈黙を破る様に歌うのは星の歌。ソフィにとっては曲名も知らない、ただ嘗てイブキが歌っているところを何度か聞いただけのその曲は、偶然にも満天の夜空が広がる今日に相応しいものだった。静かに聞き入るルシエの隣でしばらくの間歌は続く。いつの間にか、ルシエの震えも完全に止まっていた。



「…さて、そろそろボクは出発するねぇ」

「皆に挨拶、していかないの?」

「なんでぇ?今生の別れって訳でもないのに、いらないでしょ。じゃあまたねぇルシエちゃん」



体感で一時間ほどが経った頃、静かに立ち上がったソフィはルシエの引き留める声も気にせず颯爽と去って行ってしまった。一人残されたルシエは暫く呆然としていたが、結局肩を竦めて苦笑を浮かべる。拙い慰めは、確かに自分の荒ぶる感情全てを落ち着かせてくれたのだ。下手に復活する前に今夜は眠ってしまおう。完全に遠く見えなくなったソフィが飛んで行った方向を眺めていたルシエは、ようやく自分も立ち上がって屋根を降りていく。



「……やっぱりソフィは、エルフだね」



そんな言葉を呟きながら。



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