82話 足音
葵は一人、転移魔法陣を用いて全ての始まりである小屋へと戻ってきていた。魔法学園に入学した当初こそ頻繁に戻ってきていた場所だったが、ここ最近は学園近くの家にヴィル達が頻繁に訪れて毎度賑やかしていく為に随分とご無沙汰であった。一人でこの小屋に居る事に関していえば、最早初めてにも近しい状況である。
基本的には小屋自体に取り付けられた管理の魔法陣が、住人が不在でも清掃や換気などを行ってくれる仕組みらしい。けれども、チトが世界中から搔き集めた書物が押し込まれた書斎だけは適当な管理では破壊の可能性が高い繊細な物や、古紙に書かれた乱雑な魔法陣でも重要な物など一歩間違えれば廃棄一直線に誤認されかねない物が多く魔法陣管理の範囲外に指定されているらしい。つまるところ、一週間でも人の手が入らなければ、扉を開いた途端埃臭い空気が襲ってくるような状況になってしまうのである。
そんな扉を恐る恐る開いた葵は、細心の注意を払って微量の風魔法で書斎の中の空気を入替え埃を事前に開いておいた窓の外へと流しながらその先へ踏み出した。何度片付けてもいつの間にか積み重ねられている書物の山にため息をつきながらも、目的を果たす為に奥へと進んで行く。記憶に残る古い木製の机の前に立つと、重力操作魔法で丁寧に位置をずらせば案の定目的物を発見して、座り込んだ葵はじっと床を見詰めた。
「記憶の通りだ…よく見れば床の消耗具合も違うけど、意識しなきゃ分からん程度やな。これが例の魔法陣か」
非常に小さな、意識しなければ床に付いた傷かただの消耗痕にすら見える魔法陣が直接床に刻み込まれている。使用可能回数が一度きりに指定されているらしく、既に発動後らしいそこからは一切の魔力が感じられなかった。ゆっくりと魔法陣を指先でなぞった葵は、薄っすら黒く汚れた自らの掌をぐっと握りしめて立ち上がる。
「もう一つ…小屋自体に設定された管理の魔法陣に組み込まれていたらしい項目も役目を終えたと同時に消滅しとるっぽいし…ほんま、よく考えられとるなぁ。ウチも同じ状況だったらやっただろう、完璧な工作。嫌になっちゃうくらいウチとそっくりや」
深いため息と共に表情を歪める。けれどもそこに込められた感情は決して嫌悪に塗れた負の感情だけではなかった。暫く役目を終えた小さな魔法陣の跡を眺めていた葵は、不意に背後に感じた気配に振り替える事無く口を開く。
「…例のイブキが作り上げた複製体の封印魔法に関する解析、完了したよ」
「そう、なんだねぇ」
少なくとも、オーフで再開した時点では見せなかった普段と大きく異なる、何かに堪える様な怯えを含んだ曖昧な返答に違和感を覚えたから。思わず振り返った葵は、そこに立っていた人物が浮かべている表情に思わず目を見開いた。そんな葵の反応も事前に予測済みだったのだろう。余裕の一つもない自嘲に塗れた疲れた笑みを浮かべた最古の生命体、ソフィは僅かに視線を逸らしながら、それでも言葉を続けた。
「…はは、やっぱり変な顔してるみたいだねぇ。どうやら今のボクって、随分迷っているみたいで」
混乱、困惑、動揺…そして、恐怖。どこまでも人間臭い表情を浮かべたソフィは、未だ驚いて言葉を探す葵を前に小さなため息を零した。葵の反応は最もだろう、ソフィ自身もそれを痛いほど理解していた。これまで一度だって感じた事がなかった様々な感情、それを総称するなら恐らくは、ソフィがこれまで一切理解出来なかった不安と言う感情。例え浮かべた事はあれど理解にまで至っていなかった不安と言う感情に、ソフィは自ら辿り着く事に成功していたのだ。
「…らしくないね、ソフィ。大方ウチらがオーフに行っている間に済ませようとしていた用事が原因なんやろうけど」
大きく深呼吸をした葵は、普段と決して変わらない調子で問いかけた。こてりと首を傾げ、純粋無垢で何も知らない子供の様な瞳を向けられたソフィは力なく笑う事しか出来なかった。初めて、葵が日常的に器用な事をしていた事に気付いたのだ。無数の感情に意識を支配された状況でそれでも普段通りを維持する事は非常に難しい。現に今のソフィは、自身を渦巻く感情に振り回されるままいつも通りを取り戻せないでいる。葵とて今のソフィを前に思う所がある筈なのに、それでも深呼吸一つで日常を引き出して見せたのだ。事実余裕だったからこそいつも同じ表情を浮かべてきたソフィとは決定的に違う、長寿種だからこそこれまで理解しきれていなかった葵の強さだった。自分に向けてため息をついたソフィは、肩を竦めて葵と視線を改めて合わせる。
「ボクは今、自分が自分である事を多方面から恨んでいるんだ。こんな事、これまで一度だってなかったのに」
「へぇ…ソフィが自分である事を?それはエルフ…長寿種だから?それとも、ソフィが世界に対して持つ役割が原因なん?」
「そのどちらも、かなぁ。ボクは全知全能な最古の生命体であり、世界の調整者。何をしたって、ある意味世界から許されるような立場なんだぁ。唯一つ、世界樹による循環活動に手出しする事を除いて、だけどねぇ。正直この話は、エトちゃんにこそ伝え難い。だからと言って、エトちゃん以外に対処できる存在が現状の世界には存在しないんだ。……ねぇ、ボクは一体どうしたらいいんだろうねぇ?」
葵の回転が速い優秀な脳内は、ソフィの発言を受けて急激に回転を始める。チトに最も伝えたくなくて、けれどもチトにしか解決できないだろうとソフィが判断する事象。世界樹の循環活動に手出しできない。それらの行動を総合して辿り着く回答とは。ふと過ったのは、葵が以前ソフィから誕生日の記念品と称して渡された一冊の書物。その題名は世界循環説。世界循環説、歴史、そして……世界戦争。世界戦争の実質的な内容は。
「……魔王?」
「本当に君は優秀な人間だねぇ。一を言えば十を理解した上で正答を導き出してくれる。完全な結論には辿り着けていないようだけれど…その方向性は正しい」
杖を一振りし一冊の分厚い書物を空間魔法で取り出したソフィは、重力操作魔法を用いてそれを宙へと浮かばせた。葵が見た事がない、非常に古びた書物はそれでも何度も読み込まれた形跡があり、所々が破れている中現状を保っている時点で奇跡に等しいものに見えた。パラパラと独りでに内容が移ろっていき、目的の項目に辿り着いたのかピタリと動きを止める。無意識で身を乗り出した葵はその内容に目を通して、知らない言語ながら相変わらず高機能を発する言語理解の魔法陣の恩恵を最大限受けながら本文を読み込んでいった。
「世界は世界樹及び指名を司る調整者によって、完璧な周期計算で管理されている。内部の生命個体数が一定量に達すると、自動的にその数を間引く削減機能が開始される。一定の条件を満たす無機物に強大な魔王の種を植え付け、成長を促す。そして完成するのが…」
「人類と敵対する悪の王、魔王…だよね」
「その通り。新たな魔王の誕生が確認された。現在は成長過程の最中らしく活動は確認されていないけれど、それも時間の問題だろうねぇ。でも、ただ魔王が誕生した程度であればボクもここまで困惑する事にはならなかったんだ」
ソフィが掌を空中で握る動作をすると同時に書物は閉ざされて消えた。パタンと音だけが響いた後、小屋の中を支配するのは葵が換気の為に開いた窓の外から聞こえてくる野生生物の生活音や木々が風に揺れて葉を鳴らす音だけ。ひと思いに続けるつもりだった言葉に詰まってしまった事実に気付いたソフィは、目を瞑って天井を仰ぐと再び深呼吸をした。それは、呼吸法一つでいつも通りを取り戻して見せる葵を真似たものだったが、大した効果は得られなかった。一体どんな強靭な精神状態を持てば葵の様な切り替えが行えるようになるのだろうか。そんな本題から逸れた考察を始めかけた脳内を引き戻して、ソフィは改めて口を開いた。
「今問題になっているのは、今代の魔王の憑代に選ばれた無機物について。このまま放置し自然な活動再開が行われた場合、世界は間違いなく滅亡するだろうねぇ。本来であれば最低限の均衡が保たれている筈の善と悪の調和が、憑代となった無機物によって狂わされてしまった」
真っすぐにソフィを見詰める葵から目を逸らせないまま、説明は続いていく。未だ正解には辿り着けていないらしく口を閉ざしたままの葵を前に、一体自分は目の前の子供に何をどこまで期待しているのだろうか、なんて自嘲の笑みを浮かべたソフィはその先を口にしようとして、杖を構えた。驚いた葵が目を見開くと同時に部屋の中に渦巻いたのは転移魔法陣が発動する際に周囲に広がる光。
「…盗み聞きとは、褒められたことじゃないかなぁ」
「全世界を常に盗み聞きしてる様なクソエルフが今更何を言ってやがる。そっちこそ、くだらねー事やってる場合か?」
現れたのは、ソフィと同様に杖を構え鋭い表情を浮かべた大賢者だった。一触即発、そんな雰囲気でも尚魔力が込められないのは、現在地が特別な記憶で溢れる小屋だったからなのか。それとも。背後で困惑気味な表情を浮かべ小屋の中を見回す三人の魔法使いの卵の存在があったからなのかもしれない。いうまでもなく、ヴィルとルシエ、そしてオルコスの三人である。
ソフィを睨みつけたチトは、驚いたままの葵の手を引いて自身の背後へと強引に移動させた。有無を言わせない割にその手つきは優しかったが、浮かぶ表情は何処までも険しいまま。無言で葵が引き離される様子を見詰めていたソフィの前に立ち塞がる様に杖を構え、強く柄を握り直したチトは静まり返った小屋の中で一人口を開いた。
「お前、アオイの事を一体何だと思ってやがる。コイツは百年も生きていないただの人間だ」
「何って…それは、分かってる。でも彼女はこの世界とは異なる世界から来た、」
「それがどうした、でもじゃないだろう!お前は悠久の時を生きるエルフだから、どんな問題もあくまで問題でしかないかもしれねーけどな…人間は世界を揺るがす問題を正気で背負えるようにできてねーんだ。たった一人の人間に世界を預けようとして失敗した例を知らないとは言わせない、そんなだからお前はいつまでも人間に近付けないんだ」
「……今その話をする必要はないんじゃないかなぁ?君は随分葵ちゃんの味方をしているみたいだけど…何か心境の変化でもあったのかなぁ?オーフに行く前と随分変わったみたいだ、君の変化を見逃したようで残念でたまらないよ!」
「その話こそ、今するべき話じゃないだろ。俺が言いたいのは、何故アオイ一人に全てを背負わせようとしたのか、それだけだ」
徐々に息苦しくなっていく重たい会話は、いつの間にか言葉一つ一つに相手を威圧するような魔力が乗せられるようになっていく。ソフィは意図的なようだが、チトは完全に無意識で言葉に魔力を乗せ周囲の家具を揺らしている。咄嗟に自分達と家具を守る様に結界を張った葵は、これまでにない高濃度の魔力を一瞬でも真正面から受ければ気をやるだけでは済まないだろうと無意識で縮こまった背筋を正す様に意識的に肩の力を抜いた。ヴィル達も現状に混乱しつつ良くない状況である事を理解したのか、険しい表情を浮かべている。けれどもそんな子供たちの様子にさえ気づかない二人の言い争いは永遠に続くのだろうか、そんな考えに至りかけたところで口を挟んだのは、意外にも呆れ顔を浮かべたルシエだった。
「……ん、二人とも一度落ち着いて。はっきり、ルシエ達にも分かる様に説明して欲しい。いきなりチトに連れ出されて、しかも世界とか、背負うとか…意味が分からない。この場に居合わせるだけの、最低限の事情を説明してもらわないと時間の無駄」
「じ、時間の無駄って…仮にも各国の大賢者相手でもルシエはブレないな。だが、彼女の言う通りだ。アオイは俺達の大切な友人で仲間だ。アオイ一人に何かを背負わせるなど断固として許さん。特にチト、俺達に何かを聞かせるつもりがあるなら、まずは現状に関する説明をする事が筋じゃないのか。聞いている限り自体は一刻を争うんだろう?この場で事情をある程度把握しているらしい二人が喧嘩を始めれば、それこそ時間の損失は計り知れない」
ある意味何も知らないからこそ告げられた、完全に第三者から向けられた言葉に完全に頭に血が上っていた長寿種二人の意識が引き戻される。ばつが悪そうに顔を見合わせた様子を見て同じく呆れながらも言葉を続けたのは、事態が困窮し自己中心的な意見が飛び交う国家議会を何度も乗り越えてきた、冷静さを売りにしているヴィルの言葉だった。事態の解決を望むわけではない、一先ず内容を聞いた上で議論を続けようという何処までも進行染みた発言を素直に受けたチトとソフィは、ようやく自分たちが周りを一切見ずに魔力すら揺らして言い合いに集中していた事実に気付いたのだ。そんな様子に幼い子供同士の喧嘩を見詰める様な表情で柔らかく微笑んだオルコスは、葵に視線で結界を解除させると自ら二人の間へと向かって口を開いた。
「何があったのか、何が起こるのかはわたくし達には分かりませんが…アオイちゃんは、大きな問題を抱えても誰にも相談せず独りきりで、自らを犠牲にしてでも解決しようとしてしまう悪癖があります。自己犠牲など一切気にせず、全力で。ソフィはアオイちゃんが貴方の話を聞いた上でわたくし達にも情報を回してくれることを期待していたのかもしれませんが、彼女がそういう方ではない事も知っている筈です。ソフィ、貴方は本当にアオイちゃんにそんなことをさせたいのですか?」
長寿種であり、千年を超える時を生きてきた二人が、まさか百年だって生きていない赤子同然の人間に宥められる日が来るとは到底考えた事もなかった。二人の世界の運命をかけた意見のぶつかり合いも、完全に子供の喧嘩のようにあしらわれてしまっている。事実、何も知らない彼らから見れば二人のやり取りは喧嘩の一言で片づけられたのかもしれないが、そんな人間染みた結論を付けられてしまって居たたまれなくなった二人は結局視線を明後日の方向に向けて口を噤む事しか出来なかった。
「……皆集まっちゃったね!ようこそ、チト君とウチが暮らした森奥の小屋へ。まずは紅茶でも飲んで落ち着こう?」
何とも言えない空気が広がったのを押し出す様に、葵の意図的に元気いっぱい響かされた言葉を合図にその場にいた全員が無意識に籠っていた肩の力を抜いた。葵自身オルコスから若干聞き捨てならない事を言われてはいたが、今はこの空気を何とかする事を優先した結果である。素直に席についていく一同を前に内心ため息をついた葵は、時間を作るべく敢えて魔法を使わず自らの手で紅茶の準備を始めるのだった。
―――
「オーフ訪問が終わって一週間くらい経ったけど、ヴィル君は相変わらず事後処理って言うか、今後の国交に関する手続きで忙しそうよな。よく抜けてこれたね?」
「抜けてきたって言うか、抜けさせられたって言うか…。チトが執務室に突然現れて、クソエルフが目的を見誤ってアオイを傷付けようとしているからぶっ飛ばしに行くぞ、と誘拐同然で攫われてきたんだ」
「ルシエも一緒。と言うより、ヴィルの手伝いをしている時にチトが来たから…。オルコスは?」
「わたくしは今日元々チトさんとオーフに関する情報交換を行う予定で中央の家に招かれていたんです。世間話の一環としてソフィのここ一週間の様子がおかしい、なんて相談もさせていただいてまして…。その際、丁度今小屋の方…つまりこの場所に居るようだから様子を見てみようと言われて、まぁ何と言うか…不穏な空気になった瞬間行くぞ、と。もしかしてこうなったのってわ、わたくしのせい…?」
どこか遠い目を浮かべたヴィルとルシエ、若干申し訳なさそうな表情で現状まで発展した直接的な要因となってしまった事実に辿り着いてしまったオルコスは乾いた笑いを浮かべていた。机に額を付けて突っ伏すソフィは、現状の善し悪しの判断が点けられないのか要領を得ない言語を発して唸るばかりである。彼らが現れなければ自分は、けれども現れなければ全く異なる未来があったかもしれない。そんな狭間で揺れるソフィは珍しくも本当に頼りなく、それを眺めていた周囲から小さな笑いが生まれいつも通りに近しい空気が流れ始めた。小屋の内装が学園近くの家とも似ているからなのかもしれない。落ち着いてきた雰囲気の中で、ようやくソフィが理解できる言語を口にする。
「…はぁ、もぉ~…これがサイアク、って気持ちなんだろうねぇ。どこから文句を言えばいいのか、感謝すればいいのか。初めて理解できた感情だよぉ…」
「俺がお前と初めて会った時の気持ちだな」
「なにそれ、そんなに嫌だったのぉ?」
葵が用意した紅茶に優雅に口をつけたチトは、茶化すような口調でソフィのつむいを指先で押し込んだ。そんな振る舞いにわざとらしくため息をついたソフィを前に、再び小屋の中に吹き出すような笑いが飛び出す。誰もソフィを庇わないのはある意味いつも通りだったが、今回に関しては本当に庇うどころの騒ぎではない未来に発展していた可能性もある為穏やかながらソフィに向けられる視線は僅かに厳しいものがあった。まぁ、そんなところも含めてソフィはソフィであり、それを一同は理解しているのだが。
「……さて、落ち着いたところで話を戻そうか」
ふとそれぞれに紅茶が行き渡り、完全に空気が落ち着いたところを見計らってヴィルが大きく手を叩いて一同を見回した。たったそれだけの動作で誰しもの表情が先ほどまでの緩やかな日常から真剣な目付きに切り替わり、ソフィでさえ顔を上げ姿勢を整えたのだからこういう所にヴィルが高い地位にいるからこその技量を思わせる。
「軽く今わかってるだけの情報を纏めるぞ。ソフィは世界について何かを知っている、それは対処が必要な事であり…チト以外では困難だと思われる。ここまではあっているか?」
「そうだねぇ、間違いないよ。難しいというよりは…いや、今はいいか。ともかく、個々に座ってボクの発言に意識を研ぎ澄ませているって事は、君たちは自らの意志で世界を揺るがす問題を聞き入れたいと望んだ事になるよぉ。さっきのエトちゃんが言った通り、ただの人間に背負わせていい話じゃないからねぇ」
「お前、なんだかんだその前提を理解したんだな」
「ボクだって相当混乱してるんだよぉ?正直さっきエトちゃんが現れてくれたお陰で今こうして冷静になれたと思ってる。…ありがとぉ、エトちゃん」
「なっ…、…あっそ、そりゃ良かった」
一身に向けらた視線を受けて無抵抗を示すべく軽く両手を耳の横の高さまで開けたソフィは、呆れた様に鼻を鳴らしたチトに素直に感謝の言葉を述べた。突然の反応に僅かに頬を赤く染め顔を逸らしたチトだったが、今はそれどころではないだろうと小さく首を振って再び表情を真剣なものへと戻す。そんな様子にようやく普段通りの余裕が含まれた笑みでくすりと笑ったソフィも、それ以上掘り下げる事はなく改めて一同を見回してから紅茶の水面に視線を下ろした。
「正直、知らない方がきっと幸せだと思うよぉ。このまま放置していても、君たちの代で動き出す程種の成長は早くない。所詮、百年…百五十年くらいは余裕がある話でもあるんだ。本来人間が知るべき話ではないし、この話を聞けば君体は未来の世界を背負って生きていく事になる。聞かなかったからと言って、決して後ろ指をさされるような事はないんだ。後悔のない選択を、自らの意志で選んで欲しい」
「……ウチの選択権はどこに?」
「葵ちゃんはどうせ聞くしかないからねぇ。君はこの件に関りがないとは言えないからねぇ。…いや、最早聞かずにはいられないんだよ、君は」
「内容を聞いても居ないのに、随分な確信やね」
「はは、確実に良い原因ではないからこそ、多少心苦しんだけどねぇ」
へらりと笑ったソフィを前に、杖を呼び出し魔法の一つでも放ってやりたい気持ちをぐっと堪えた葵は自分だけが一方的に知らない現状に腹を立てながらもチトの方へ視線を向けた。ソフィをもってしても聞かせたくないと言わしめた内容、けれどもチトしか解決できないだろう問題。果たして、読めない表情を浮かべたチトはその先の話を、自らの出自に大きく関わる魔王に関する話を進んで聞き入れるつもりなのだろうか。
「…なんだよアオイ」
「いや…、…チト君はソフィの話を聞く気満々なんかなぁって」
「まぁ、聞くしかないからな。魔王云々が絡んでるって言うなら、それは間違いなく俺の領分だ。詳細に関しては正直さっぱりだが、碌な話じゃない事くらいは覚悟してるつもり」
「そっかぁ…そこまでチト君が決めてるなら、ウチも覚悟をしなきゃやね」
葵の視線に気付いたチトに素直に浮かんだ問いを向ければ、相変わらず読めない表情のままそれでもチトははっきり言い切った。チトにとって魔王を含んだ過去は、”本当に記録でしかない”のだろう。今更それを掘り出されても多少揺れる程度で流せてしまう程度には。けれども、事実魔王の話だけでチトに話し難いとソフィが判断するとは思えない。ならば、更に面倒な厄介ごとが後に控えているのだろう事は明白だった。
「ヴィル君は?」
「俺は聞くぞ。さっき言われた通り、俺達じゃ解決は困難だって話だが…この世界は人間が大部分を占めており、中でもトートは非常に巨大な、国際会議で議長を務める程の大国だ。もしソフィの言う問題が世界の未来に関わるというのなら人類の…各国の代表として聞かなければならないと思う。それに、チトは長寿種であり、所謂現代とは異なる文明を生きた存在。アオイは異世界から召喚されたんだろう?…この世界の問題は、今を生きる俺達こそが解決するべきだと、俺はそう考えている」
普段と変わらない安定した声音でヴィルが淡々と告げた。その瞳には確かな覚悟と決意が秘められている。間違いなく、選ばれし者だけが浮かべられる瞳だった。その瞳の色に既視感を覚えたのは、ソフィだけではない。チトですら、その表情に必死さはなくとも見え隠れする絶対的な覚悟には確かに見覚えがあったのだ。葵と出会う前、どこかでこの瞳を見た気がする。
「……、教会地下か?」
「あぁ…既視感の正体はそれか。確かに、ヴィルちゃんはあの子供の子孫だったねぇ」
「何、何の話だ?」
「いや、こっちの話だ。気にするな」
ヴィルの堂々とした発言に僅かに気を取られながらも、それでもしっかりとその言葉の意味を咀嚼したソフィは僅かに目を見開いて、苦笑したようにため息を零し肩を竦めた。この世界の問題は、この世界の者たちの手で。
「そうだねぇ…あぁ、ボクは世界の調整者として随分失念していたみたいだ。エトちゃんや葵ちゃんを頼る事が最も正しし解決策だと思い込んで、視野が狭くなっていた。思い返せば、これまでどんな時代で生じた問題も、その時代を生きる者達が自らの手で解決してきていたというのに」
「生きる者達って言うか、大抵解決してきたのは人間だけどな。一人一人の力は弱くても、人間には絶対的な数がある。それこそ、世界樹が間引く位には圧倒的な。弱いなりに生まれた知恵を振り絞り、力を合わせ、共に同じ目標を追い求めればゼロから一を生み出す事だって不可能じゃないんだ。俺もお前も、すっかり人外の思考に侵されていたらしい」
「…だねぇ。人間はいつだって強い。討伐不可能と思われた直近の魔王だって、どうにかしちゃったんだしねぇ?」
「うるせーよクソエルフ」
過去を知り、歴史を知るからこそソフィとチトのぼやきはヴィル達にとって酷く重たいものに聞こえた。今でこそ各国間では条約が結ばれ戦争が起きていないが、少し前まではキーフが滅亡した通り戦争が絶えない世界だったのだ。その歴史を学んだだけの現代を生きるヴィル達には、人間の優秀さと同時に醜さが見え隠れする発言を黙って受け入れる事しか出来なかったのである。一方の長寿二人組と言えば、歴史をそう気にした様子もなく茶番で話を切り上げてしまったが。
「……ルシエは一人じゃ何もできない。でも、一人じゃないから、何だってやれる。もうヴィルに甘えるだけの護衛ごっこはやめる。ルシエは、ルシエの意志で世界を背負う。ヴィルと一緒に…ううん、皆と一緒に並びたい!」
「ルシエ…、…この問題が片付いたら、婚約者に」
「戻らない」
「何故だ!?今のはそういう流れだっただろう!!」
「詳しくは分からないけど、そう言うのって誰かが死ぬふらぐ?って言うらしいよ」
「なんだそれは、いや誰も死なないし死なせないが!?」
これまで大人しくやり取りを見詰めていたルシエは、ゆっくりと立ち上がって真っすぐに意志を示した。以前選択を迫れた際には何も言えずヴィルに助けを求める情けない結末を迎えた彼女は、それ以上に重苦しい内容を前に前へ進むことを決めたのだ。感動したように目を見開いたヴィルの一言はいつもと変わらずばっさり切り捨ててしまったが、だからこそ彼女が他の誰でもない彼女自身の意志で今の発言を行った事の証明でもあった。いつも通りなのに、いつもとは異なるルシエ。オーフ訪問以来大きく変化を続ける彼女の集大成の様な発言は、僅かな茶番を挟みながらも全員に聞き届けられたのだ。そうなれば最後に視線が集まったのは、ルシエ同様静かに一連の流れを見ていたオルコスである。それに気付いて僅かに微笑を浮かべたオルコスは、聖女らしい乾いた笑みを張り付けてソフィを見据えた。
「……ソフィ。貴方はわたくしが、この先の話を聞くべきだと判断しますか?」
「る、ルコちゃん…」
「教えてください、わたくしの大賢者様」
無垢で何一つの意志を感じさせない琥珀の瞳、張り付けた完璧な聖女の笑み。ゆるりと首を傾げる姿は、きっと革命以前のオーフで求められた頂点に立つ者に必要な要素だったのだろう。誰もが人間的な変化を見せる空間で敢えて過去を持ち出したオルコスを前に、それまで情けない表情を浮かべたままだったソフィは怪しげで愉悦に塗れた笑みで彼女を見詰めた。心底楽しそうに口角を緩ませたまま、ゆっくりとオルコスの頬に向けて手を伸ばす。
「…じゃあ、君だけは話を聞かず帰ってもらおう、って答えようかなぁ?オルコス、君は金輪際これらの件から手を引いて、ボクのお気に入りとしてこれまでと変わらない駒として動くといい」
「はい……嫌です!」
「えぇ…」
「わたくしはこの場所で、皆さんと共に世界を背負います。それがわたくしに出来る贖罪でもありますから」
顎の下、喉元へと伸ばされていた手をあっさりと振り払ったオルコスは、途端に瞳をキラキラと輝かせて笑った。作ったものではない、心からの人間らしい笑み。周囲が一連のやり取りをみてドン引きする様子に気付いていないのか、上機嫌に椅子の背凭れに体重を預け足を揺らす姿はどこか子供のようにも見えた。
「なん…ルコちゃん、どうして…」
「だって、その方がソフィも面白いでしょう?貴方の興味の中心は、意志を持たない人形が如何に世界に干渉していくか、その結末です。何をすればどう苦しみ、どんな事で喜ぶのか。喜怒哀楽、一挙手一投足の全てが観察対象の中で、寧ろ貴方は知りたいのではありませんか?絶対的な指針を裏切り世界の真理に辿り着いた先のわたくしを!」
余りにも純粋すぎるその言葉を、オルコスはソフィを貶す為に言ったわけではない事は明白だった。それは確かである筈なのに、その内容に隠された以前のソフィとオルコスの間にあった関係性の生々しさや、それを異常とすら思っていないオルコスの反応が余計異様で。黙り込んだ周囲に素直に首を傾げるオルコスに対し最初に口を開いたのはチトだった。周囲の反応から何となく良くない現状を理解したらしいソフィは冷や汗をかいて慌てた様に言葉を探している。
「…おいクソエルフ、お前…」
「い、いや待って!?ボク確かに似たような事は言ったけど、ここまで洗脳染みた行為は決して行っていないからねぇ!?
ぇ!?観察させて、とかそんな反応を見せてくれるんだねぇ、とか、昔行ったのは間違いないけど…こんな歪んだ子に育てた覚えはありません!」
「うふふ…ですがソフィ、貴方はやっぱり興味があるでしょう?」
「正直言って滅茶苦茶面白いなぁと思ってます」
「クソエルフ!!!!」
チトが呼び出した杖で物理的にソフィの頭を殴れば、流石に自らの意志で結界を張らない選択をしたソフィは真正面から制裁を受け机に突っ伏した。沈んだままのソフィの頭をあらあらと撫でつけるオルコスのやりとりを心底気持ち悪い視線で刺したチトは、同じようにドン引きした表情を浮かべる葵達と視線を合わせてため息を吐き捨てた。暫く頭を抱えて放置していたチトだったが、収集が付かない事を察して話を切り替えるべく杖を一振り、卓上に新たに入れ直された紅茶を用意した。
「お前の教育方針については…事が落ち着いてからしっかり話を聞かせてもらう。取りあえず結論から離せ、これ以上余計な寄り道は禁止な」
重苦しい空気が広がっている筈なのに、どうしてか脱線が多い六人。最早それこそが六人らしいと思えてしまったチトは、苦笑をかみ殺す様に全員と視線を合わせてから小さく息を吐いた。結局オルコスによって頭の物理的な痛みを回復してもらったソフィは咳払い一つで姿勢を正し、紅茶に口を付ける。重苦しい深呼吸を終えて、意を決したように顔を上げた。そこには先程までの緩やかな雰囲気はどこにもない。正しく、世界の調整者、最古の生命体としてのソフィはゆっくりと口を開く。
「結論から…ね。新たな魔王の誕生が確認された。その憑代として選ばれたのは…ボクやエトちゃんが嘗て行動を共にしていた人間であり、この小屋の持ち主だったキーフの大賢者、イブキが世界に残した”複製体”だ」
その意味を正しく知るチトと葵は目を見開き、息を呑む。
間接的にその存在を目撃した記憶を持つヴィルは表情を険しく変え、オルコスは静かに瞼を紅茶の水面へと落とす。唯一何も知らないルシエだけが、広がった異様な空気に眉を顰め口を閉ざした。
物語の歯車は、急激に回り始める。
全員にとっての”最後の戦い”が鳴らす足音の気配に、葵はそっと書斎の向こうへ意識を向けて膝の上でローブの裾を握りしめた。
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