過去の記録を辿って 2
「ふむ…チェント、次は多くのエルフが居付いている例の大森林の一角を潰してこい。期間はそうだな…一カ月だ、出来るな?」
「……分かったよ、魔王」
ぶっきらぼうに渋々吐き出された了承の返答にクツクツと愉快そうに笑った魔王は、それ以上何か言葉を続ける事もなくチェントの元を去っていく。その相変わらず堂々とした圧倒的な後ろ姿を前にため息を吐き捨てたチェントは、勝手に居座っていた名前も知らない側近を名乗る魔人に攻め入る数を用意する命令を適当に下してその場から離れた。
どこまでも無気力に、怠惰に、されど従順に命令に従い全てを熟すチェントは、果たして魔王や魔王軍の者たちからどのように見られているのだろうか。少なくとも、迷わず人類を相手取った戦争に置いて筆頭と呼べる場所を任せられる位には重宝されているのだろう。嘗てはその無言の信頼とも呼べる好意を確かに喜ばしく思っていた自分が居た筈なのに、今では日常の一つとしか見れなくなってしまった己を見返して、チェントは安堵と落胆の双方を確かに覚えた。煩わしい他者との交友に左右されない自分に安心する一方で、何か大切なものを忘れてしまっているような気がしてならなかったのだ。とは言え、人類との大戦が激化する現状で個人について理解を深める暇はなく、今だって少し前に別の人間が作り上げた防衛都市を落としたばかりだったのだ。下らない事に気を割いている時間はないだろう、とチェントは常に脳裏を支配していた些細な疑問をそのまま奥深くへ沈めることを決めた。
自分が直接行動を起こさずとも準備が完了する状況まで成り上がったチェントは、寧ろその期間に手持ち無沙汰になってしまった。結局物資や兵が集まらなければ好き勝手に行動を始める事が出来ないのだ。空いた時間を潰すべく、もうそろそろだろうと何度か通告を受けていた母親が閉じ込められている部屋の方角へ視線をやったチェントは、重たい足取りをどうにか進めて歩き始めた。
―――
「…また、何か作ってるの?母様」
ベッドに蹲り、震える手つきで安定しないシーツを机代わりにしたせいで所々穴が開いてボロボロの用紙に必死んで何かを殴り描く母親にチェントは細心の注意を払って優しく、穏やかに話しかけた。どうせ言葉が届かない事は理解していたが、それでも少しでも母親の精神状態を乱すような状況は起こしたくない一心での行動である。案の定返事が返ってこない現状に肩を竦めて、静かにベッドへと近付いた。
母親がこの魔王城に来て以来患っていた病の正体は、対外魔力供給過多による身体異常である。要は、元より魔王を中心に発生している高濃度の魔力が原因で人間の身体がそれを吸収しきれなかった事によって魔力操作に悪影響を及ぼし、それが結果として心身の異常をきたすものである。魔王軍に属する者たちであれば魔人魔族魔物に至るまで独自に発達した体内器官によって、体内に吸収される許容量を超えた魔力は余剰分が自然と排出されるが、人間にその器官は存在しない。チトは運よくその器官を持って生まれた為母親が患った病とは無関係に生きてきたが、純粋な母親では当然その魔力全てを受け入れる事など出来なかったのである。
長らく魔王の傍に在り続ければ、当然体内に蓄積される高濃度の対外魔力は限界値を超える。常に過剰な魔力を体内に宿していれば、自然と身体が防御反応を取り魔力を輩出しようと過度に動いてしまうのだ。更に、母親は一度魔王と身体を重ね魔王の子を宿し、無事この世界に産み落とした。そこまで魔王の魔力を一身に体内に宿せば、始めは精神から始まりいずれ物理的に身体的な異常が生じるのは時間の問題だったのである。魔王が分かりやすい例えとなるが、高濃度高密度の魔力を意図的に発しているヤツの傍に居ると自然と全身が緊張し、威圧され思考にも影響が出る。母親はそれが顕著に全身に悪影響を及ぼした結果なのだ。
生命活動に支障をきたす程のものならば、魔王から離れればよいだろう。けれども母親も、そして母親の生家である聖属性魔法の国、オーフもその選択を決して受け入れることはしなかった。当然だろう、母親は全てを裏切って人類にとっての侵略者である魔王軍の長、魔王との子をなした状況でどの面下げて国に帰るのかという話であるし、一方で聖女を魔王討伐の為に送り出したオーフがその魔王を想う聖女を再び国家に受け入れてくれる筈もなかったのだ。
最早、世界の意志によって弱っていくだけの姿を眺め続ける事しか出来なかったチェントにせめてもできた事は、少しでも自我を引き出す可能性を求めて試行錯誤を繰り返す事くらいであった。いつからか自分自身の事でありながら、母親にどんな感情を抱いているのか何も分からなくなったチェントは、結局後先短い母親を前にして何も変わらない事を選んだ。母親が望む駒として、せめて母親の望みを叶えてやろう。それが、狂いながらも確かに自身を育て上げてくれた母親への最大限の恩返しであり、母子の礼儀であるという考えに至ったからである。母親は自分を見ていない。しかし、本当に一切、何もかもを見ていなければ、半分が人間である自分はこの魔人だらけの魔王城でとうに息絶えていた事くらい、当に理解していたのである。
何となく過去を思い返していたチェントは、ベッドの上に描かれた紙の内容を見てふと意識を戻した。ガタガタの線が縦横無尽に飛び交うそれが始めは意味をなさない落書きの一種だろうと判断していたが、よく見れば確かな規則性と心当たりのある文言を読むことが出来たからである。
「それは…魔法陣?」
「完成、したわ…!そう、私は全てを思い出したの、これで、私は、今度こそ、…、」
「そう、良かったね。どんな魔法陣なのか教えてくれる?」
「間違っているのは世界よ。世界が正しい事を証明してくれているの。ふふ、あはは、」
「そっか…じゃあ、今度話を聞かせてよ。今日はもう寝るんだね、おやすみなさい」
狂ったように笑いながらも力尽きた様にベッドに崩れ落ちた母親を、重力操作魔法で丁寧に寝かせたチェントは床へと落ちてきたぐちゃぐちゃの魔法陣を拾い上げる。殆どの文字が読めず、魔法陣である事以外何も分からない状況に肩を竦めてそれを枕元へ置くと、そっと毛布を掛けてから部屋を後にした。
―――
「例のお前の母親、今宵が終幕だな」
「…そう、ですか。言われて見れば、俺もそんな気がします」
「ふむ、思ったより反応が薄いな。人間は家族の死に際に立ち寄りたい生態をしていると記憶しているが?」
「俺は、純粋な人間ではありませんので。ですが、魔王にわざわざお声掛けを頂いた事もありますし、母親は…純粋な人間ですから。生態に倣って、死に際を訪れてきます」
「良いだろう、下者たちに何か言われたら断っておいてやる」
「…お気遣いどうも」
手持ち無沙汰に廊下を練り歩いていたチェントは、偶然すれ違った魔王に何の前触れもなく告げられた。仕方なく足を止めて、大きすぎる背中を見上げる様に返事を返せばまた楽しそうに肩を震わせている。本当にそれだけの幼児だったのだろう、振り返る事無く去って言った魔王を前に小さく息を吐いたチェントは、昨日訪れたばかりの母親が閉じ込められている部屋の方へと身体の向きを変えた。死に際、人間、終幕。魔王にはそんな事も分かるのだろうか。それとも、意識的に気を向けられた?…否、そんなことはあの魔王に関して一切あり得ないだろう。それだけは、あり得てはならないのだ。万が一魔王が多少なりとも母親に何かしらの意識を向けていたのならば、それはこれまでの全ての前提が最悪の方向に覆ってしまう事態に至ってしまうのだから。
いつからか、母親は魔力を感情の揺らぎに合わせて暴走させる事もなくなった。対外魔力を発散するべく感情が酷く不安定だった頃とは違い、最早感情を爆発させるだけの余力もないからである。嘗ては頻繁に破壊され何度も入れ替えられていた家具が動く事はもうない。ドレスの修繕や取り換えも、家具に関する指示も、部屋の片付けも、何もしなくてよくなってから母親と接するチェントの気分はほんの少しだけ軽くなっていた。
無意味に扉を叩いて、返事を待たずに静かに開く。そうして今日は大人しくベッドに横になっている母親の方へ、ゆっくりと視線を向けた。身体は壁にかけられた魔王の肖像画の方へと向けられていて、意識はある様だ。
「…こんにちは、母様」
「………あら、よく来てくれたわね、チェント」
「……へ、」
いつもと変わらない挨拶。何十回、何百回、何千回に至るまで繰り返された提携の言葉に、何百回ぶりの返事が返ってきた事に固まったチェントは、次いで確かに明瞭な意識の元視線が絡み合った事実に目を見開いた。死期が直前の猫は自ら死に場所を求めて家を出る、だなんて話を何かの書物で読んだ事がある。つまり、そういった類の最後の力を振り絞った結果、なのだろうか。驚いて言葉が出てこないチェントに何を思ったのか、よろよろとおぼつかない手つきで腕を伸ばしチェントをベッドへと招く素振りを受けて一先ず回らない頭でその目の前へと歩みを進めた。
「偉大なる聖オーフ教会王国が定める唯一神様から、夢でお告げを受けたわ。私は今日、死ぬのね」
「…そう、だね。父様も今日、母様が亡くなるだろうと助言を下さったよ」
「あの人と仲良くできているのね?それは本当に良い事だわ」
一体何年ぶりの事なのだろうか、ごく自然に成り立つ会話のやり取りに、チェントの喉奥は震えてしまっている。穏やかに微笑み、チェントの言葉を聞いて答えをくれる母親だなんて幼少期でさえ殆ど見る機会はなかった。これこそが、チェントが知らない、魔力に侵される前の本当の母親なのかもしれない。どうして、今更。瞳が揺らぐチェントの様子に気付いた母親が再び手を伸ばすので、素直に顔を近付ければ弱々しい力頭を撫でつけられた。父親譲りの角ではない、母親譲りの金髪に優しく触れられて、チェントは今度こそどうしていいのか分からず拳を強く握る。
「チェント、私だけの愛しい子……」
穏やかな声音に良く似合うその一言を受けて、嘗ての狂った母親とのやり取りの全てを思い出したチェントは、思わず床に向けていた表情を歪める。何か言葉を口にしなければ、そう改めて思い直した瞬間母親の口から続いた言葉に、再びその喉奥は強く締め付けられて言葉は飲み込まれてしまった。
「私が愛した魔王様との間に生まれた、私とあの人を繋ぐ大切な宝物…」
僅かにでも期待した己が間違っていたのだろうか。死期が目前に迫っても尚、結局母親はチェントと言う存在個人を見る事は永遠になかった。その残酷なまでにはっきり証明されてしまった結末を正面から受け止める羽目になったチェントは、ぐっと唇を噛み締め必死で穏やかな表情を作り顔を上げた。緩やかに微笑を浮かべる母親の瞳は、矢張り自身の背後にある魔王の肖像画だけに向けられている。その事実を知ってしまったチェントは、結局顔を逸らす様にベッドへと視線を落とした。
「ねぇチェント、私国で聖女教育の一環として最低限の情報だけをお勉強した魔法陣の存在を思い出したの。それで今日まで、ずっと詳細を考えて、考えて考えて考えて考えて考えてようやく辿り着いたのよ!これはね、皆が幸せになるための魔法なの」
チェントを撫でつけていた手を枕元へ伸ばし、昨日も見たぐちゃぐちゃの魔法陣を手に取る。次いで杖を呼び出そうと空中に手を伸ばし、その重さに耐えられず崩れそうになったところで慌てたチェントは重力操作魔法を用いて母親の手を支えた。けれども、見るに堪えない魔法陣も、自力では握れなくなってしまった杖の実態も、母親は一切気にしていなかった。否、気付いてすらいないのかもしれない。母親の意識の前には最早、都合が良いもの以外全てが認識されていないのだろう。チェントを撫でた手つきと同じように、優しく用紙を撫でつけた母親は穏やかに笑った。
「これはね、この世界の禁忌に触れるとっても素敵な魔法なの」
禁忌に触れるのに、素敵だなんてどこまでも不釣合いだ。
「オーフに古くから伝わるもので、本当は私自身に使いたかったのだけれど…どうしても、最後の一手が私では用意できなかった」
魔王に対抗しうる聖女を生み出した国が、禁忌を言い伝えてきたというのか。
「チェントはまだ幼い子供だからね、貴方では用意できないモノだったの」
もうチェントは27歳、母親がこの魔王城に訪れた年齢よりとうに上の年になっていた。慎重だって、魔法技術だって、母親を凌駕している自身があった。
「代償が貴方に払えたらよかったのに…貴方には、それがなかったのよ。可笑しいわね、そうならない様に育てたつもりだったのだけれど」
実後が相手でも、代償が支払えたのならば払わせるつもりだったのだろうか。代償が払える様に、意図的な教育を行ってきたと堂々と自白して見せたのか?
呆然とするチェントを前に母親の杖先が弱々しく輝き、徐々にその光を増していく。少しずつ空中には魔法陣が描かれていく。用紙に描かれているものとは違い、丁寧で美しい読み取りやすいものだ。無意識にその内容を解析しようとしたチェントは、明らかに世界の理に反する内容が組み込まれている事実を前に本能的に後ずさる。けれども、母親の強すぎる美しい笑みを受けて更に下がろうとした足はまるで地面に縫い付けられたように止められてしまった。幼い頃から何度も見た、母親の心からの笑みだったからだ。
「っ母様、これは、」
「———不老不死の魔法。唯一用意できなかった最後の一手は、”誰かを想う者”が抱く”真実の愛”。発動条件は真実を持つ者が魔法陣を使用する事で、代償は発動者の死……ねぇ、貴方には誰かを想う気持ちがなかったわ。どうして私の事を想ってくれなかったのかしら?そうすれば私は、あの人の元で永遠に生きる事が出来たかもしれないのに。ねぇ、どうしてなの?チェント」
「待って、違うっ……母様!!」
嗚呼、ダメだ、これだけは、やってはいけない事だった!苦悶に歪んだ表情を浮かべて、やせ細った腕で必死で杖を構えて、天井の屋根を越えて空の彼方の神へと祈りをささげる母親。どうにか止めようと言葉を重ねても、杖を構えて魔法を発動しようとしても、上手くいかない。けれどもそれは当然のことだった。チェントの言葉は、声は、意志は、始めから母親に一度だって届いた事などなかったのだから。
その場を離れようとしても、魔法陣の発動対象者に選ばれてしまったチェントは魔法陣の補助効果によってその場から離れることが出来ない。魔法を発動しようとしても、発動を阻止する結界が張られているらしく何もできなかった。逃げも隠れも、母親を自らの手で殺す事だって、今のチェントには出来なかったのだ。
「いやだ、いやだよ母様!!俺は、俺はっ……永遠の命なんかいらない!!」
「貴方が悪いのよ!!愛を持たない貴方が!!ならばせめて、魔王様の傍で生き続けなさい!私があの人と愛し合った証として、あの人への愛の証明を、あの人に愛された結果を、貴方が生き続ける事で証明するのよ!!それが貴方が私にできる、唯一の育ててもらった恩返しでしょう!!この恩知らずめ、私に育ててもらっておきながら、私の願い一つかなえられないなんて…!!」
「…ぁ、なんで、」
「チェント、愛を知らない哀れな子。貴方に愛を教えてあげましょう。これは私が魔王様を、あの人を想う愛そのものなの。良い子の貴方、お母さんの最期の願い位、叶えてくれるでしょう?」
―――言われるまま一番になったのに、殺さず生かし、見守ってきたのに。こんなことになるなら、魔王に命じられたあの日の内に殺しておくべきだったんだろうか?
チェントの足元に発現した魔法陣。逃げ出そうと暴れても、周囲を取り囲む結界から出る事は出来ないまま、全て拒まれて母親の罵詈雑言を聞く事しか出来ない。耳を塞いでも尚、それらを貫通するように母親の悲痛な叫びはチェントの脳内を駆け巡った。
「この魔法の発動こそが、私があの人に届けられる愛の証明!!そして、貴方が生き続ける事が、私があの人を愛した証拠となるの!!禁忌魔法発動、世の理を超越せよ―――”真実の愛”!!」
「ぁ、」
部屋中を包み込むように、眩しい閃光が走る。チェントの全身は立ち込めた白い光に包まれて、突如体内に流れ込んできた母親の魔力に意識を押し流されたチェントが最後に見たのは、粒子となってどこかへと消えていく母親の美しい笑みだった。
チェントの過去が精神的に重すぎるのでもっと小分けにしろと言われました。結果、今回は短めになりました。
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