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過去の記憶を辿って 1


「おい聞いたか?また例の若造が階級を上げたらしいぞ!今度は42番目の兄弟と死合いをして、勝利を収めたらしい!」

「人間の血が流れた100番目の子供の事だろ?良くやるもんだ」

「噂によれば相当頭がキレるらしい。矢張り人間は小賢しい種族だからな、力量差がまだす来ないガキ同士だからこそどうにか成果を上げられているだけじゃねぇのか?」

「さぁな。あと百年もすれば現状死合いに意欲的じゃないガキ共だってある程度成体に近付く。真価が試されるのはそれ以降だろうよ」

「ばっか、人間は百年も生きられねぇよ!」

「そりゃ違いねぇ!あっはははは!!」


魔王軍が人類との戦闘に置いて最後の砦として作り上げた巨大で豪勢な城、その隅々まで磨かれた廊下で醜い形相の魔人たちが下らない雑談を続けていた。美しい高品質な調度品、照明に反射する窓、何もかもが最高品質で纏め上げられている中で、容姿に一切無頓着な魔人たちは余りにも不釣合いであった。それでも奴らに声をかける者が居ないのは、偏に一定以上の力を持った魔人に魔族から進化を遂げた者たちの集いであったからだ。基本完全実力主義で力こそが全ての証明となる魔王軍の社会でも、不用意に消滅する可能性が高い行動を自ら起こす者は殆どいなかった。


そんな魔人たちが嬉々として話題にするのは、ここ数年一気に話題の中心へと駆け上った魔王と人間の女の間に生まれた、100番目の子ことチェントについてだった。魔王軍を壊滅させるべく乗り込んできた勇者一味の一人であった女が何の奇跡か魔王に見初められた。その時点で城内での話題の頂点へと上り詰めていたというのに、その子供すらもが話題になるのは、例え魔王軍の者たちが如何に人間を見下していようともそれなりの実力と結果を件の子供が証明できているに他ならなかった。


生まれて12年、直接人間の血を引くからか他の魔族、魔人に比べて頼りない小さな身体でありながら魔王譲りの非常に高い魔力を体内で制御しきり、生き延びて見せた魔法に特化した逸材。噂の通り頭脳明晰で、戦略的な勝利を丁寧に積み重ね時期魔王候補として並ぶかもしれないと騒がれる程の実力者。純粋な魔族でもない癖に、躊躇なく死合い相手の兄弟を殺していく姿は確かに、慈悲無き魔王を継ぎし者として必要な価値観を持ち合わせている証拠なのかもしれない。


そんな噂の中心である優秀過ぎる子供は、噂話を止めない魔人たちの真横を気配を消しきって素通りし、奥まった廊下を進んだ突き当りの部屋の前でその足を止めた。先程の会話など気にも留めず、魔人たちから気配を完全に隠す圧倒的な実力を見え隠れさせながらも扉の前で佇む子供の表情は決して浮かれない。無表情に近いながらも、確かな不安の色を瞳に移した子供は深呼吸をして、小さな手の甲で扉を叩いた。……返事はない。



「……母様」



ぽつり、幼い子供らしい声変わり前の綺麗な声が廊下に響く。意を決したように扉の先を見据え、そっと扉を開いた子供…チェントはすぐさま杖を呼び出し、結界魔法を自分自身に向けて張った。次の瞬間結界によって何かが弾かれる音に瞼を細めたチェントは、扉を開いた状態で中に入らずゆっくりと部屋の奥で蹲る何かに向けて視線を固定する。


「また、嫌な事があったの?」


淡々とした冷静さを取り繕って、怯えを含んだ感情をどうにか隠したままに問いかける。矢張り返事はなく、恐怖の隙間に僅かに隠れていた期待に滲んでいた色を落胆と諦観へと変えたチェントは、小さくため息を零すと結界を張ったまま部屋の中へと踏み出した。


「して…どうしてどうしてどうしてどうして!!!どうしてなの、ねぇ、どうして!!どうして私が、この私が愛した方と添い遂げたいと願った事を、どうして誰も理解してくれないのですか!?」

「…ただいま。戻ったよ、母様」


皺が付いて解れたシーツがどうにか掛けられたベッドの上、ビリビリに破かれた手紙の破片をシーツごと握りしめた女…チェントをこの世界に産み落とした母親が、恐ろしく歪んだ形相で叫んでいた。目尻には泣きはらした跡が残り、折角整えられていた化粧の跡が頬やシーツにドロドロと染み付いてしまっている。朝新しく下ろしたばかりの美しい深紅のドレスも、強く握りしめ引っ張ってしまったらしく酷く乱れ、もう一度袖を通すにはまともな原型が保たれていなかった。手入れでどうにかするよりも、新しいものを用意した方がずっと早くて楽だろう。


結界魔法はそのままに室内と母親の状況を確認したチェントは、ゆっくりと母親へ近づき声をかけたがその視界に写る事は一度だってなかった。虚ろで定まらない瞳を釣り上げて叫ぶ母親は、一度魔王をその身で受け入れた事によって異常化した魔力量の制御もままならないまま感情に揺れて、部屋中で散らかっていた家具や調度品が魔力に当てられて暴れ出す。その場に居合わせた実子であるチェントですら視界に入れない現状で、止められる者など誰も居なかった。


「折角昨日の夜に片付け終えたばかりだったのに…」


時折飛んでくる書類や本、椅子などを結界で完璧に防ぎながら、チェントは深いため息を吐き捨てる。その吐息は喉の奥で確かに震えていた。


こわい、さみしい。でも、いつもの事だから…なれっこだ。


子供らしい感情を実の母親にすら受け止めてもらえないチェントは、そんな弱みになりかねない感情を喉の奥でかみ殺して僅かに揺れた表情を打ち消した。こうなった母親を強制的に止める方法は理解している。その為に、好きでもない死合いに日々繰り出しているのだから。意識的に穏やかな声音を作り出して、緩く口角を上げたチェントは母親に向けて”魔法の言葉”を口にした。


「今日は、42番目の兄上を殺したよ。戦闘内容には改善点と余裕があった。…母様が望む一番だって、このままいけば夢じゃないよ」

「いち、ばん…?あぁ、チェント…貴方だったのね!」

「うん、ただいま母様。今日は42番目の兄上を殺しました。一番は、届かない高みではないと確信しています」

「あら…そうなの」


チェントは自らが意図的に発した単語によってようやく大人しくなった母親が意識を傾けてくれた事を確認してから、改めて同じ内容を簡略化しつつ繰り返した。今度こそ全貌を聞いてくれていたらしい母親は、穏やかな笑みと共にグチャグチャのベッドの上へとチェントを導いた。ようやく絡み合った視線と意識に素直に嬉しくなったチェントは、どこまでも大人びようとしていた表情を一気に緩ませて、されるがまま母親の胸元に納まる。そっと背中に手を回せば、拒まれる事無く同様に背中に体温を感じて今度こそ隠し切れない笑みを浮かべた。


「おかえりなさい、チェント。貴方は本当に良い子ね、私の言う事をしっかり聞き届けて、行動に移してくれる」

「うん、俺は母様の事が大好きだから」

「あの人の…貴方にとってのお父様の事も、勿論大好きよね?」

「……とーさま、は、母様の元に来てくれないから…きらい」


母親に頭を撫でられて、素直にその手のひらの温度にすり寄ったチェントは、不意に投げかけられた問いを受けて頬を膨らませてそっぽを向いて見せた。そんな子供らしい振る舞いを受け少しだけ驚いた表情を浮かべた母親は、次いでくすくすと心底可笑しそうに笑う。まるで、犬猫をかわいがるようにくしゃくしゃとチェントの髪を撫でつけたかと思えばとのまま小さな肩を掴んで、目線の高さを合わせる。


「あらまぁ…うふふ、大丈夫よチェント。あの方は貴方が一番になれば、必ず私を見てくれるわ。貴方が私の言う事を聞いてくれさえすれば、いずれ私だけを見てくれるようになるの。私が幸せになれば、貴方だって幸せでしょう?」

「…母様の幸せは、俺の幸せ?…うん、分かった。明後日38番目の子供に死合いを申し込まれているんだ。俺、頑張って殺してくるからね!」

「えぇ。私の幸せを阻む邪魔な魔族や魔人は、ぜーんぶチェントが殺してちょうだい?」

「うん、任せて!」


傍から見れば、平凡な幸福を抱きしめる母子の穏やかな会話に見えるのかもしれない。純粋無垢な子供と、愚直に望みを追い求める母親。その内容の異様さに気付けるほど、チェントの家族に対する情緒が発展する機会はこれまでどこにもなかったのだ。


母親が改めて撫でつけてくれる掌の感触を受け心地よさげに瞳を細めたチェントは、自身の頭を自ら掌へと摺り寄せながら次の死合いに向けての作戦を脳内で計画し始める。如何にして相手の子供を殺すか、どうすれば実力を分かりやすく見せつける勝利を飾れるのか。次も必ず勝利を母親へと届けよう。それだけで今の時間が得られるのならば、母親が幸せになってくれるのならば、きっと己も幸せなのだから。


それだけの単純な思考回路を、信じ切って。



―――



「こっ、降参、降参だゾ!!今日は調子が悪かったんだ、次は今日の様にはいかないから…っひぃい!!降参、本当に降参だから命だけは見逃し、」

「———爆」


ぐちゃり、ぴちゃ。死合いの場に姿を現したチェントを意気揚々と殺そうとしていた子供、果たして実力派どの程度だったのだろうか。知能どころか、魔王軍が誇る魔力すら上手く扱えていなかったソレが戦況が進むにつれ顔色を悪くし、ついには必至で命乞いを始めたところで杖先を向けたチェントは、迷いなく人間でも容易く扱える初級魔法を放った。けれどもそれはチェントによって最大効果を発揮できるよう魔力の調整が行われており、呆気なく飛び散って消えた子供を前にチェントは呆れたため息を零す。踵を返そうとして、僅かに靴が滑る感覚に足元を確認したチェントは隠し切れない不快感に眉を歪めて小さく感情を吐き捨てた。


「…サイアク」


魔法発動の際の距離感を間違えてしまっていたらしい。爆発属性魔法によって飛び散った子供の血が、足元まで流れてきていたのだ。少し足を上げれば、奇妙な粘着性を持った鮮血がぐちょりと音を立てて伸び上がる。忌々し気に、未だ汚れていない美しく磨き上げられた廊下に靴裏を擦り付けたチェントは、周囲の調度品に到るまで血がかかった様子を一切気にすることなく歩き出す。


「これで、残る序列は20番目から1番目までか。さっきのヤツは余裕で殺せた割に下位魔人相当の魔力量はあったし、いよいよ母様が求める一番も手が届く範囲まで来たって所だな」


指を折って残る兄弟の数を再確認したチェントは、不意に現れ目の前に立ち塞がった強大な気配を受けて足を止めた。顔を上げる事無く、無言で廊下の脇へと移動し道を譲る。そのまま暫く顔を伏せて気配が通り過ぎていくのを待っていたが、一向に消える様子がないどころか動いた気配もない事実に仕方なく顔を上げる。


「……御機嫌よう、魔王様」

「ふむ、お前が最近何かと話題に上げられているあの女の子供か。アレが母親の割に、随分と聡明なようだ」

「それは…誉め言葉として、受け取っておきます」

「その年で皮肉も理解できていると。至極愉悦……名を名乗れ」

「チェントです。貴方の100番目の子供としてチェントの名を母から授かりました」


強大すぎる魔力の一切を隠すことなく身に纏い、圧倒的な存在感と威圧感を放ってそこに立っていたのは今代の魔王、つまりチェントにとっての父親だった。魔王伝として有名な話だが、元は世界をさ迷っていた魂が偶然にも受肉を果たした結果誕生し、数多の魔族や魔人、魔物を食らい尽くした結果誰しもが認める魔王と呼ばれる存在に至ったらしい。見た目は人間でいう所の三十歳前後。陶器を思わせる真っ白な肌に不釣合いな、闇を詰め込んだ漆黒の髪。深海の更に奥深くへ沈み込んだ光のない蒼い瞳に射抜かれれば、全てを見透かされている様な気分になってチェントはどうにも落ち着かなくなった。整った容姿と言う要素以外母親譲りの美しい金髪と、幼児期から高い魔力を制御していた際に変質した深紅の瞳を持つチェントにとって、目の前の魔王が自分の父親だと受け入れるにはどうにも似つかない相手である。


本能的な恐怖心にさらされながらも、どうにか冷静さを装って魔王の問いの受け答えをしていれば寧ろ興味を引いてしまったらしい。躊躇いながらも名乗りを上げれば何度か満足気に頷かれた後、踵を返された。堂々と晒される背中は、今の己が魔王にはまだ遠く及ばない実力である事を突きつけられている様な気分にさせられる。それでも、気まぐれの興味もようやく去ったのだろうかと緊張感を緩める為ため息をつきかけたチェントは、不意に止まった足に背筋を伸ばす。そうして続いた魔王の言葉を受けた途端、無表情でありたかった表情を歪めることを堪えられなかった。


「———あの人間の女をお前自らの手で殺せば、お前を側近候補筆頭に据えてやろう。正直なところ、子であるお前に見所はあれどアレは煩くてならん。城から追い出そうとわざわざ手を回してやったのに、それを拒絶する勢いには流石に笑いが止まらなかったぞ。とは言え俺が直々に手を下すまでもない。今の条件を告げてやれば、アレは喜んで身を投げるだろう?」


ゆっくりと振り返った魔王は、その女こそがチェントの実母である事を本当に理解できているのだろうか。否、そんな事実はどうでもいいのだろう。完全実力主義を謳った魔王が、家族の縁を大切にするとは思えない。そうでなければ、自らの子種で生まれた兄弟姉妹達が地位を高めるべく死合いを繰り返す現状を黙認する事も、次期側近候補に人間の血を引くチェントを上げる発言をする事も、その障害となる母親を殺せと命じる事も、倫理的な視点から見てありえないのだから。発言の内容を理解できずに動揺するチェントの表情を愉し気に口角を上げて観察していた魔王だったが、母親を殺せと告げた瞬間の声音だけは心からの嫌悪の色が乗せられていた。碌な返事もできずに固まっていたチェントの頭をくしゃりと撫でつけた魔王は、ヒラヒラと後ろ手を振って今度こそ廊下の先へと消えていった。


魔王の姿が完全に見えなくなって暫く、ようやく我に返ったチェントは震える手で崩れた髪に触れる。俯いて見詰めた靴先には、先程まで死合いを行っていた兄弟の血液が僅かに残って固まっている。結局長らく動き出せずに立ち竦んでいたチェントは、他の魔人が不思議そうに近くを通りすがった頃ようやくその足を動かし、母親が暴れているだろう部屋へ向かって歩き出したのだった。



―――



「…ただいま、母様」


「憎い、憎い憎い憎い憎い憎いっ…!!何故私がこんな不遇な運命を背負わなければいけないの!?私が一体何をしたっていうの!私の何が悪いのよ、何がいけなかったのよ!あの人は何一つ悪くない、とても素敵な方じゃない!じゃあ何が悪いの?何を憎めばいいのよ…!!あぁ、憎い!!」


「そうだね、母様は何も悪くないよ」


「嗚呼、嫌だ…この身が、人間として生まれた身体が憎くて仕方がない!!どうして私は聖女という肩書をもってしても、自分自身の生を延命する事が出来ないの!?

!?誰かじゃない、その杖を振るい癒したいのは私自身なのに!!」


今日はダメな日だ、率直に判断したチェントは、結界魔法を使うのを辞めてそっとベッドへと近付いた。感情に乗せて少しでも魔力を発散できている時であれば多少外の音にも意識が向いているが、只管自分自身を咎め蹲っている時に関しては完全に自分だけの世界に入り込んでしまっている以上、どうしようもないのだ。ベッドの上で蹲る母親の身体に触れて、普段深紅の瞳を母親が持つものと同じ蜂蜜色へと輝かせて杖を一振りすれば、母親の身体は柔らかい光に包まれる。


「今日は、調子が良くないみたいだから。少しでも、俺の癒しが力になれば嬉しいな…おやすみなさい、母様」


ふっと意識を落として倒れ込んできた上半身を慌てて支えたチェントは、衝撃を与えない様に細心の注意を払って母親の身体をベッドへと横たわらせ、布団をかける。泣き腫らしただけでなく、真っ黒なクマが目立つ目元をそっと指先で撫でたチェントは、独り肩を落とした。


ここ最近、母親の錯乱は酷くなるばかりだ。これまでは一番、もしくは魔王に直接かかわる単語を持ち出せば高い確率で最低限会話が成立するだけの理性を取り戻せていたというのに、今となってはきっかけとなる単語もなくなり、極稀に何かを思い出したように我に返っては、自責の言葉に呑まれて再び錯乱状態に戻っていく最悪の状況が続いている。本人の生活状態も良くなく、気絶するように眠っては悪夢に飛び起き、自責に囚われて絶望に堕ち、仕方なくチェントの魔法で強制的に眠りにつく。碌な睡眠時間の確保どころか、食事を摂る余裕すら殆どない状況だった。


「父様、だったら…俺が強くなれば、俺を見てくれるのかな…?……っ、違う!!」


ふと頭をよぎったのは、つい先ほど魔王と交わした会話の一部だ。初めてまともに顔を合わせ、言葉を交わしたが母親と違って立場的な気を遣う必要はあれど、不用意に冷静な対応を求められることはなかった。チェントをただの子供として見てくれた。確かに、チェントという個人と会話をしてくれた。チェントが証明してきたこれまでの過程を正面から評価してくれた。


これまで自分の世界に狂い続けていた母親だけが正常だと認識してきたチェントにとって、魔王の存在はまさに青天の霹靂そのものだったのだ。もしかしたら、自身を取り巻く環境は異常なのではないか、母親はどこかおかしいのではないだろうか。これまで妄信的に敬愛し、その意志に従い続けてきた相手。一方で関りがない故に、母親を苦しませるからと勝手に敵対心を抱いていた父親。これまでなかった新たな視点を前に、果たしてどちらが親として正しく称されるモノなのだろうか。


「俺、は…っ母さんの為に、一番を目指してきたんだ、」


ギリギリと爪が食い込むほど強く拳を握ったチェントは、父親という新たな存在に傾きかける意志を必死で立て直す。そんなはずはない、自分は間違ってなんかいないんだ。父親は憎むべき相手で、母親は信じるべき家族で。けれどもそれは、これまで母親が口々に言っていた発言と近しい言動である事に気付いてしまって。



…本当に、自分は間違っていないのだろうか?



「たった一回、立ち話をしただけ…そんなの、これまで母様と過ごした時間に比べればほんの一瞬の事だったんだから…、」


言い訳にすらならない言葉をぶつぶつと呟くチェントは母親同様に蹲って小さな身体を抱え込んで顔を膝へと埋めた。交互に過る両親との会話を思い出すのがやめられなくなった事に気付いて、慌てた様にチェントは先ほど母親にかけたものと同様の聖属性魔法を自らに向けて放った。



―――


チェントは、日常的に愛に飢えていた。


それは、人間の子供が本当的に親と呼べる立場の相手に対して抱く感情だった。自分を見て欲しい、自分だけを見ていて欲しい。本人の意志と関係なく芽生えるその感情は、通常の成長過程であれば当然の様に与えられる無償の愛によって簡単に乗り越えられる些細なものだったが、元より父親の為だけに生きる母親の元で、母親の為だけに、母親以外の味方がいない状況で生きてきたチェントには当然、道足りる程の愛どころか片手いっぱいの愛ですら果たして注がれた事は一度もなかった。


だから、たった一回…しかも自分を通して父親だけを見詰めている母親とは違い、自分自身を見て評価を下した父親に強く惹かれてしまった。これはきっと魔王軍に属する子供達であれば確実に持ちえない感情で、人間の血を中途半端に抱えたチェントだからこそかかってしまった純真無垢な迷いの表れだったのだろう。果たして父親は、チェントの渇き飢えた本能を満たすに足りる人物なのだろうか。そう疑問を簡単に抱けてしまう様な、それ程までの渇望をチェントは常日頃から自覚外の所で抱き続けてきたのだから。


そして、父親がチェントへと向けた提案は等しく母親の望みを叶えるものでもあったのだ。


魔王の次期側近候補筆頭になる。それは、チェントの母親が常日頃からチェントに説き伏せた一番になる事の究極系であった。魔王の子種によって生まれた子供達の中で一番になる事は、必然的に子供達の中で最もな実力者である事の証明に他ならない。しかも、他の大人たちを飛び越えて次期側近候補筆頭、つまり今の側近が死んだ場合の代わりとなる事の確約。


更にチェントの心を揺らがせた一因こそが、母親にとって最大の誤算。


彼女は、息子が子供達の中で一番になれば、優秀な子供を育て上げた妻として魔王から真の愛を向けてもらえると考え込んでいた。


息子は、自らが一番になる事で母親の存在を魔王の意識に残したいのだと認識していた。無論、どんな手を使ってでも。


母親自らが死ぬことで、チェントが側近候補筆頭になる事が正解なのだとチェントは間違いなく信じ切っていたのだ。だから余計に揺らいだ。母親を失う事と、母親の望みが叶う事を天秤にかけてしまったのだ。そこに現れた第三者、それが父親というチェントに新たな感情を与えてくれる存在。さて、母親を妄信する息子が目指す結論が如何なるものかなど、ここまで纏めれば意図も容易く導き出せるものである。


もしその場に誰か相談者が居合わせれば、チェントの一直線に伸びる思考は大きく変わっていたのかもしれない。けれどもチェントは、他の兄弟たちからの死合いを迷いなく引き受け、嬉々として殺して回る狂った存在として認識されていた。更に片親は人間であり、悪知恵の働く狡猾な子供だと忌避されている。そんな状況のチェントと好き好んで行動を共にしたいと考える者など、誰一人いなかった。チェントが母親以外何も信用せず、孤独だけを望んできた事もその実態に拍車をかけていたのかもしれないがそれは今更の話である。


母親と自分、二人きりでこれまで生きてきたチェントにとって、突如現れた父親の存在は余りにも大きすぎるものだった。初めてチェントが脳裏に並べるに至った、最大の悩みの種が発芽するまでにはそう時間はかからなかったのだ。



―――



結局行動に移す事も出来ないまま、7番目の兄弟との死合いを終えた頃の話だ。チェントが17歳になったばかりのある日、ついに母親が本格的に体調を崩した。精神的な面で言えばチェントの自我が芽生えるよりずっと前の時点でとうに狂っていたが、ついに体調までもを完全に崩した母親は起き上がる事も魔力の暴走もしないまま、ベッドの上で指先一つ碌に動かせない状態で寝たきりになってしまった。


暴れる心配がなくなり合う度に結界魔法の準備をする必要がなくなったチェントは、報告の為に母親の部屋に訪れる度に無防備に呻きながらベッドに沈む母親を前にして、それでも決して自分の名前が呼ばれることがない現状に何も言えずに立ち尽くすばかりの日々を送っていた。



「———人間は弱いな。お前が直接手を下さずとも、例の女は死期が近いらしいな」

「…御機嫌よう、魔王様」


声変わりが始まって、これまでの少年らしい愛らしい声音から男らしく低く、どこか甘く緩やかな聖人染みた声へと変化したそれを惜しみなく発した知見とは、定型の挨拶を述べながらも頭を下げることはしなかった。そんな様子に満足気に頷いた魔王は、視線を魔王に向けずさ迷わせているチェントの正面に立つと鼻で笑う様に言葉を続ける。


「清々するなぁ、興味本位で手を出したはいいものの、余りに騒ぐむのだから。早くに閉じ込めた判断は正解だったのかもしれないな。…唯一問題があったとすれば、優秀な子供が騎士気取りで立ち塞がっていた事はまぁ、悩みの種であったが」

「……興味、本意?」

「そうだ。いつかに乗り込んできた勇者パーティーの聖女でな、魔王の血と聖属性魔法の象徴とも呼べる血が絡み合った先に生まれる子供がどんなものか知りたくなって、自ら囮となって自害を試みたところを物理的に丸め込んで喰らってやったのだ。人間の女とはこうも愚かだったか?意図も容易く堕ちてきたぞ」

「……っ、」


母親は、日ごろからチェントに対して魔王の事を運命の相手だと何度も繰り返していた。母親が元は魔王を討伐する勇者パーティーの聖女であったことは当然知っていたが、討伐に際して魔王の前へ躍り出た際に母親が一方的に一目惚れでもしたのだろうとこれまで勝手に思い込んでいたのだ。頼み込んで、ようやく手に入れた子種から生まれたチェントを大切にしてくれているのだと。事実として、それくらい魔王は母親に興味がなかったから。


ところが、実際はどうだ。確かに母親から当時の状況を詳しく聞いた事はなかったが、そうしたいと思った頃には母親が殆ど自我を保てなくなっていたのだからそれは仕方がない事だろう。方向性は兎も角母親は間違いなく目の前の魔王を、男として今でも好いている。けれどもその前提として、元は抵抗していたにも拘らず魔王によって何かしらの魔法を行使した結果堕とされてしまっていたのだとしたら。防衛本能に従って、心を守るために心も共に堕とされてしまっていたのだとすれば。


「母様を、弄んでいたのか」

「弄ぶ?何を言っているんだお前は。俺にとってはこの世界全てが遊戯の世界。そこらの、しかも敵対勢力の女の人生など、路肩の雑草とそう変わらないに決まっているだろう。無論、俺がお前を高く買っているのはお前が俺の血を引くからではない。結果として高い実力を見せ、側近候補になり得る器を持っていたからだ。そうでもなければ、あの女の、しかも人間の血を引くお前を高く買う事なんてある訳なかろう」

「……あくまで実力主義だと、実験だと、そう言うんだな」

「先ほどから何が言いたいんだ?」


心の底から意味が分からないと、そう告げるように珍しく首を傾げた魔王を前に、チェントは目の前が真っ白になった。


自身が生まれてから今日まで、迷いはあれど一心に信じて言われるがまま歩んできた道の原点に居る母親に向ける最低な感情を聞かされただけでなく、淡く抱いていた父親と言う存在への憧れすらあっさりと切り捨てられた。無数の負の感情に脳内を支配され尽くしたチェントは、その割に存外冷め切った思考を強引に表層へと引き出して、その場をやり過ごす。ただ、貴方の事を始めて理解出来た気がしますとそれだけを告げて。


魔王が去っていった廊下で立ち尽くしたチェントは、今度こそ溢れ出した怒りで震える手に杖を呼び出す。チェントの魔力に触れた調度品たちがガタガタと揺れ、時には照明硝子が割れて暗くなった場所もある。それでもチェントは構わなかった。この美しい高品質の城を保っておこうだなんて純粋な心掛けは、生まれた頃から持ち合わせていなかったのだ。


「……絶対に、復讐してやる…っ!!」


これは、自分自身の復讐でありながら母親の為の復讐だとチェントはそう理解していた。母親の幸せが己の幸せであるならば、己の不幸は母親の不幸に違いないのだ。そう、これまでの全ての母親と交わした会話が、証明してくれていた。母親に酷い事を言った父親を許さない、そう告げれば母親はきっと喜んでくれるに違いない。父親の本質を理解したと同時に、母親の理論も理解できた気がしたチェントは未だ冷静な思考回路で今後についてを考え始める。


今のチェントでは、到底魔王には敵わないだろう。だからこそ、徹底的に相手を調べ上げて機会を窺うのだ。何年、何十年掛かっても構わない。人間の血を引く故に短い寿命の全てを賭けてでも、あの魔王を自ら殺して見せる。それが己の望みで、そして母親の望みでもある筈なのだから。


生まれて初めて、自らの意志で行動を起こす事を決めたチェントは、母親が眠る部屋へとゆっくりと歩いて行った。その背中に、新たな感情を背負いながら。



―――



「ねぇ、チェント?私が育て上げた愛の結晶…!貴方が生まれてきてくれたおかげで、私は今もこの場所に居られるの」


嘗ては美しかったのだろう、手入れのされていないくすんだ金髪を揺らし、血の気の引いた病的な顔色のまま母親は同じ金髪を揺らすチェントの髪を震える手で撫でつけた。対するチェントは、何処までも興味なさげに無駄に豪勢な装飾が施された花瓶に視線をやっている。


「あぁ、貴方の持つ美しい真を象徴する漆黒の角、他のどの魔王軍連中よりずーっと輝いて見えるわ!同然よね、だってあの人の血を引いているんですもの…!」


母親は、チェントの髪から手を放し、頭上に並ぶ二つの角に触れた。それは、女が惚れ込んだ魔王も持つ、魔王軍の者たちの中でも一際美しいと言われることが多いものだった。そうして撫でつけられる感覚に僅かに背筋を震わせながらも、矢張り退屈そうな表情を隠しもせず浮かべ、ため息を吐き出したチェントは手持ち無沙汰に目の前の母親のくすんだ金髪で遊び始めた。


「どうして私はあの人と永遠を共にできないのかしら…。あの人の隣には、貴方をここまで育てた私こそが相応しいに決まっていると言うのに…!」


壊れ物に触れる様に繊細な手つきで撫でられていた角の感触が荒々しくなっていく事に気付いたチェントは、迷わず指先を先程まで眺めていた花瓶へと向けて、自分と花瓶との位置関係を転移魔法で入れ替えた。僅かに自我を取り戻していた母親の理性が完全に途絶えた事を察したからである。初めての事でも何でもない、寧ろ今日は普段より長く大人しくしていてくれた位だ。


軽く服の皺と手を払ったチェントは、明らかに大きさが違う筈の花瓶を荒々しく両手で抱きしめて嘆いた母親に視線を向けた。花瓶を抱く力は決して強くないものだったが、それでも花瓶の場所に居合わせたいとは到底思えない形相を浮かべている。そんな様子を呆れた様に一瞥したチェントは、黙って部屋を出るべく扉に手をかけた。けれども珍しい、未だまともに言葉を発する事が出来る程度には今日は調子が良かったらしい。


「ねぇチェント、分かるでしょう?貴方は絶対に一番にならなくてはいけないの。絶対、絶対によ…!そうすれば、私はあの人の中で唯一になれる一番の子供を育てた女になれるのだか……!!」



「———あの男は、優秀な駒本体以外何にも興味がないと思うよ」



ぽつり、何となく言葉にして告げた事実は、狂ったように花瓶を撫でつけ続ける母親には届かない。次第に母親の喉から乾いたような音が聞こえ始め、ついにはベッドから落ちた花瓶が音を立てて割れる音が廊下の先まで鳴り響いた。そんな様子を振り返る事すらせず、チェントは扉を後ろ手にしめて歩き始める。


ピシャリ、建物の外は酷い雷雨だ。全てを切り裂くような雷が降り注ぐ音が、城外一帯に響き渡っていた。



部屋を出てしばらく歩いたチェントは、不意に足を止めて深いため息を零す。復讐を誓ったあの日から10年の時が流れ、チェントは27歳になっていた。どんな状況に陥っても尚息子を顧みない母親も、根本から魔王でしかない父親も、両親全てを諦めた上で死合いを熟し、図らずとも父親の提案を呑まず母親の願いも片手間に魔王の子供の中で一番の地位を手に入れ必然的に次期側近候補の一人へとなり上がったチェントは、復讐の為だけに魔王軍に居座っていた。


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