75話 諦観
「今日の懇親会が終われ、オーフ訪問も完了やね」
必死に逃げ回るも面白がったチトと明らかに危険な瞳を浮かべたヴィルに強制的に捕獲され、どこから現れたのか沢山のオルコスが手配した使用人たちによって風呂に始まり髪を整えられ、化粧に服装、コルセットに到るまでを完璧に施されてぐったりと用意された椅子に座り込んでいた葵は不意に顔を上げて呟いた。すぐ傍で葵と似たような工程を経ていながら涼しい顔で古本屋で購入した魔導書を読んでいたチトが、その言葉に視線の先を葵へと向ける。
「だな、元々予定日数も短かったし。それに想定より随分平穏に終わらせられて安心したよ」
「何も平穏じゃないですぅ、ウチはドラゴンと戦って大変やったんだから!」
「それは悪かったって…」
黒基調のジャケットの内側には純白のシャツ。葵が好む淡い水色のリボン装飾が可愛らしい服装は、格式高い中に個性が込められて確かに葵らしいと言える格好だった。金色の釦が部屋の照明に反射してきらりと輝く中、動き辛そうに表情を歪めた葵は服を壊さない様にゆっくりと立ち上がった。
葵と色違いで赤色のネクタイを締めたチトは、視線を逸らして何度目かも分からない謝罪を口にする。半ば弄りに達しかけたやり取りだったが、チトにも最低限責任があった事は自覚しているため逆らう事も有耶無耶にする事も出来なかったのだ。
オーフに来国して一週間、当初の予定通りの日程で各所の訪問や見学を終えた一同は、オルコスの兄…つまり新聖人が開催する懇親会への参加を最後の一仕事において、準備に勤しんでいた。恐らく隣の部屋ではヴィルとルシエが同じように時間を潰しているのだろう。事前に何かを言ったわけでもなかったがオルコスによって用意された部屋はヴィルとルシエ、そしてチトと葵の二人組で分けられていた。今更何か問題がある組み訳ではないのだが、男女の区別がない現状に葵が僅かに首を傾げていたのは記憶に新しい。
「チト君は元からあんま乗り気じゃなさそうやったけど、結局どうだったん?」
「まぁ…オルコスに案内してもらった古本屋以外は退屈だったな。でも、お前たちの引率は悪くなかった」
「へぇー?」
チトの正面の椅子に座り、化粧を崩さない程度に両手で頬杖を突いた葵は存外穏やかに笑ったチトを前に気の抜けた返事をした。カチカチと柱時計が進む音だけが部屋の中を支配するが、決して苦痛を感じることはお互いになかった。元々小屋の中で数多くの会話を交わしてきていた訳ではない二人の間では、そんな言葉には言い表せない無言の空気こそが緩やかな日常だったのだ。チトは自分のやりたいことに没頭し、葵がそれを眺める。それだけの時間だった。
「…なー、アオイ?」
「なーに、チト君」
「俺の事さ、嫌いでしょ」
「……へぇ?」
ゆるり、余りにも穏やかで軽い口調で向けられた口撃を受けて、葵は優秀な頭脳を高速で回転させる。一瞬の間をもって導き出された回答は、ただ話の続きを求める簡単な相槌だけだった。
チトの視線は変わらず魔導書だけに向けられており、葵はそんな姿を足をぶらぶらと揺らしながら椅子に座って眺め続ける。先程までとは確かに違う、どこか緊張した沈黙が場を支配した。
「いや…嫌いではないな。俺の事が気に食わない、って顔を良くしてる」
「そうなんや」
ぽつりと続いたチトの考察に肯定とも否定ともとれる他人行儀な反応を返した葵は、そっと瞼を細めて再び口を開こうとするチトの口元を見詰めた。
「……俺の何がダメだと思う?」
「”私”の事を見てくれないところかな」
「見てないって、感じているのか?」
チトの手元が魔導書を一枚捲る。相も変わらず顔を上げないチトは、それでも葵の発言に応えるように口を開いた。葵は会話の中で自分がどんどん嫌な性格を前面に出してきてしまっている事実に気付いていた。どうしようもない、嫌味で面倒臭い性格。それをチトに向ける事だけはしたくなかったのに、チトのせいで全てが引きずり出されてしまう。言うな、そう願う自分と言ってしまえ、そう背中を押す自分が葵の中で暴れ出した。結局競り勝ってしまったのは、後者の自分で。
「なーんも見てないよ。……イブキちゃん、あの子の事をずーっと見てる」
「———っ、」
ようやく、チトが次の一枚を捲ろうとしていた手が止まった。目を見開いて本から視線を外し、葵を凝視するチトに満足気に笑った葵は、ゆっくりと見せつける様に瞼を閉じて見せた。
「”私”を通してずっとイブキちゃんを見ているチト君が気に入らない。それを態度に表すのって、悪い事かな?」
「…悪く、ない」
「ソフィはね、最初はチト君と同じだった。でも、いつからか自分の意志で私自身を見てくれるようになったんだ。だから、本当の友達になれたんだよ?」
一つ、また一つ葵の言葉が紡がれる度に、チトは表情を失っていく。きっと、あの簡易迷宮で探と出会わなければ一生言わないまま終わっていただろう事実を前に、一度開いた葵の口は止まる事を知らなかった。自身の味方として永遠に近しい存在になった探は、確かに葵の中の根本的な価値観を変化させていたのだ。
「最初はどうでもよかったんだよ?私が誰かの代わりだろうと、気にしてなかった。…でも、私って本当に馬鹿だからさ…この世界で色んな人と出会って、欲深くなっちゃったんだ。……悪い子になっちゃった。だから、言わなくていい筈の余計な事をこうして今、チト君に伝えてしまっている。本当に…いや、ほんまに大馬鹿者やね?」
くしゃりと表情を歪めた葵は、どこか震える声音でそれでも最後まで言い切って見せた。チトとの関係性の異常性を誰よりも理解していて、その癖一度だって口にしてきたことはなかった。それでも結局言葉に表したのは、このやりとりがオーフ訪問の最終日直前に行われた事だったからなのかもしれない。全ての想いを、チトから持ち出された問いかけの答えを、オーフにこのまま置いて行ってしまおうと、そんなことを思ったのかもしれなかった。
ぐっと言葉に詰まったチトは、喘ぐように何度か息を吸い込んで、それからようやく見つけ出した言葉をどうにか並べていった。そこには普段の余裕も、絶対的な安心感も、気だるさも、何もかもが存在しない。唯の一人の男が紡ぐ、ただの疑問でしかなかったのだ。
「っイブキは、もう…いない。アイツは死んで、俺が、俺自身が殺して仇を取ったんだ。分かってる、そんな事あの日以来ずっと理解していたんだ。それなのに…っなぁアオイ、お前は一体何者なんだ?異世界から来た他人である筈なのに、どうして何もかもを知っている瞳を浮かべる??」
チトの震えた言葉に、葵はゆっくりと時間を掛けて瞼を開いた。そこに浮かぶ瞳の色には、チトは嫌なほど見覚えがあった。何度も自覚した、嘗ての自分と、そして今の自分とも大差ない瞳の奥に隠された感情。その名前は、
「そんなの、私が一番知りたいよ」
哀しみと、後悔と、恐怖と、絶望と。そして何よりも全てを覆い尽くす、諦観と。負の感情を無数に敷き詰めた瞳で葵はこのやり取りの真理ともいえる言葉を吐き捨てた。息を呑んだチトが何かしらの言葉を発しようとした瞬間、それらを遮る様に部屋に鳴り響いたのは扉を叩き中の様子を尋ねる音。
「…ふふ、はぁーい!!」
元気いっぱいの笑みをチトの目の前で”貼り付けた”葵は、服を壊さない様に意識しながらも素早く立ち上がる。そうして扉の方へと背を向けた葵を見詰めて、チトは無意識で詰まっていた息を吐き出した。
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