70話 ファンタジー
「ルシエ…ちゃん…?今なんて、」
「ん…んにゃぁあっ!?葵、アレ何なんかめっちゃヤバそうなんだけど!どうなってるの!?」
呆然とするルシエから零れた一言を前に驚愕の表情を浮かべた葵は、腰を抜かして目の前のドラゴンを指さし後ずさろうと藻掻くルシエを見詰める事しか出来ない。そんな葵の困惑など気にも留めず、それどころではないと怯えて今にも泣きそうなルシエの様子に気付いて振り返れば、大ぶりな動作で首を上げたドラゴンの口元には溢れた炎がチリチリと光っていた。どうやら二度目のブレスを行うらしい。
「あ、葵ぃっ!!」
「うっ…あーもうっ!!」
ルシエの発言ばかりに気を取られていた葵だったが、大慌てで自分にしがみついてくる普段とは明らかに異なる言動を見せるルシエや、ブレス寸前のドラゴンの様子を前に強制的に思考が遮られてしまった。葵自身酷く混乱していた筈なのに、周囲の滅茶苦茶な現状を前に段々腹が立ってきたのである。改めて身体の向きをドラゴンと合わせ、杖を両手で構えた葵は先ほどまでの簡易的な魔力弾とは違う、しっかりと意識して魔力を収縮させた強力な魔力弾をドラゴンの顎下に向けて打ち放った。
顎下から突然強打を食らったドラゴンは、必然的に口元が天上に向き吐き出されたブレスは明後日の方向へ向かっていく。その隙を見計らって未だ座り込むルシエの手を引いて強引に立ち上がらせた葵は、闘技場周辺に張られた結界に部分的な穴を空けて一時撤退の為走り出すのだった。
―――
「…で、どうするかなー…」
「し、しぬ、しんじゃう…マジ意味分かんない、あり得ない、絶対しんだ、何この無駄に解像度が高すぎる夢、えぇ…?」
通路をしばらく走ったところで足を止め魔力感知を行ったが、ドラゴンが闘技場から離れる気配は感じられなかった。念のため周囲にも改めて魔力を広げたが、自分とルシエ以外の存在は感知されなかった。ようやく一息ついて壁に背中を預けた葵だったが、息を荒げて座り込んだルシエは地面の感触にすら困惑の様子を見せながらぶつぶつと現実逃避を始めている。
目の前にいるのは、普段のどこか余裕があり上品んで大人びていながら、猫の様に気まぐれな様子を見せるルシエの姿はない。大混乱する状況に雑な言葉で悪態を吐き捨て、情けなく床に縋る姿を前にどう反応していいのか分からず困ってしまった葵は、一先ず自分の存在を思い出させるようにわざとらしく大きなため息を吐いた。ぴくりと肩を揺らしたルシエは、葵を見上げる様に首だけを動かした。
「あー…ルシエちゃん、だよね…?ウチの事も知っとるし。でも、さっきの言葉…ファンタジーってどこで知ったん?ウチルシエちゃんの前で言った事あったっけ」
「……はぁ?いくら何でも、舐めすぎ。ファンタジー位今時ガキでも知ってる」
「ガキって…。いやでも、この世界の人たちってカタカナ…ってか、外来語あんま知らん感じやん?ルシエちゃんから外来語なんて初めて聞いたんやけど」
「…葵、さっきから何言ってるの?そもそもルシエって、なんでネットの方の名前でばっかり呼んでくるの?意味分かんない。あたしはさぐる、道求 探だよ?……え、葵ちゃんと知ってる?忘れてない!?」
「みち、もと…?」
疑問と疑問が交差する。葵が質問者であった筈なのに、いつの間にか立場は逆転し葵が問い詰められる立場に回っていた。気付いた時には既に思考はルシエの…否、道求 探を名乗る少女の発言内容に引きずられていて、一方的に自分を知られている状況を不味いと理解した時には立ち上がった彼女に壁に詰め寄られた葵に逃げ道はどこにもなかったのだ。明らかに様子の違う立ち居振る舞い、であるにも関わらずルシエが自分を指していると知っている。けれども、ネット名。外来語、名字と名前。
「ウチの、名前は?」
「いやだから、葵でしょ?———”伊吹 葵”。…何か間違った事、言ってる?京都生まれ、京都育ち。秘密主義だけど明るくて元気なムードメーカー。それからあたし達の中では、」
「待って!!!」
「…う、うん?」
「待って、それ以上はダメ。絶対に言わないで!聞きたくないし…多分、聞いちゃダメな事。取りあえずルシエちゃん…じゃなくて、探ちゃん?は、地球の、日本…現代日本出身って事で間違いないんやね?」
「出身って…まぁ、確かに東京生まれ東京育ちの超エリート都会人、だぞ。…本当に何言ってるの?葵」
「うんごめんそっちこそ何言ってはるん?」
葵の現代日本人であれば確実に使わない表現を前に冗談を言われていると認識したらしい。ドヤ顔で胸を張りながら返事をした探は、思惑と違う冷静と混乱、どこか恐怖心を見え隠れさせた葵の様子に思わず首を傾げた。一方で頭を抱えた葵は、困惑気味の様子でこちらをチラチラ伺ってくる探を横目に改めて自分が置かれた状況を思い返していた。これまで今の世界で得た情報全てを掛け合わせて、必死で考察を重ねていれば不意にソフィから記念品として渡された一冊の本の存在を思い出した。まさかここまで来て、まだあの本が思考の助けになるとは一体どこまでソフィは考えて葵に例の本を渡したのか、また今度機会があれば問い詰めるべきだろう。否、本当に助けになっているのか、知りたくない現実を突きつけられているのかどうかは兎も角として。
現状を見て、理解できない夢の延長戦だと考えたのだろう。随分と落ち着いた様子で葵を心配する表情を浮かべる探を前に息を吐いた葵は、わざとらしい咳払いで場の空気を切り替えた。少し驚きながらも改めて真面目な表情を浮かべた探の様子を確認してから、手元に杖を呼び出したり消したりしながら苦笑を浮かべる。
「あー…取りあえず説明するな?最初に結論なんやけど、ここは異世界。剣と魔法…いや、剣はあんま見た事ないけど、とにかく漫画やアニメで見るような魔法が実在するファンタジー世界やと思ってくれて間違いない。で、ウチの立場としてrは色々事情があってこの世界に召喚されちゃった異世界人、つまり現代日本人」
「……ほえぇ」
「記憶に残る夢、って事でええよ。魔法が使えるご都合主義な夢、この場所はとある古代魔法陣によって作り出された訓練用の迷宮なんやけど、そのデバフ効果としてウチと関りがある現代日本の世界線?から探ちゃんがこの世界のルシエちゃんと入れ替わっちゃったんやと思う。ってか、それ以外に成立する理由が見つけられん。こんなんになるなら、発動前の魔法陣ちゃんと見とくべきやったな~…」
「なるほどね???」
葵だって未だにそういうモノだと理解できても納得できない事は多い世界だ。今の仮説だって、最も可能性が高いだけで更に超次元的な何かが起きている可能性は否めなかった。当然現代日本で極普通に生活してきた探に現状を理解したり考察を深める言動を見出す事は出来なかったが、そもそも当たり前だろうとこの世界に自分自身が召喚されてしまった当初を思い出した葵は視線を逸らす事しかしない。適当な返事と共に頭上に疑問符を浮かべるルシエには悪いと思いながらも、現在地が詳細不明な魔法陣が作り出した簡易迷宮である事実を思い直して未だもたれかかったままだった壁から重心を戻した。
つい先ほどまで半強制的に戦闘を行っていたドラゴンは変わらず闘技場の中にいるようだが、何があるか分からない状況でいつまでも現状把握に時間を使っている訳にはいかなかった。そろそろ戻って様子を見に行こうか、そう声を掛けようとした葵だったが、不意に口を開いた探によってその先は紡がれなかった。
「葵はあたしの知ってる葵、なの?」
「それは…何とも言えんかな。少なくとも探ちゃんは魔法を一切知らない以上、今のウチが現代日本に戻ってそのまま成長した世界線とは言い切れない。勿論、この記憶を完全に隠して生きてるのかもしれんけど。だから断定はできない。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。シュレディンガーの猫ってヤツ?」
「ん…あたしがこの変な迷宮?から脱出して、元の日本で葵に話を聞くまでは分かんないって意味か」
肩を竦めた探の様子を前に、随分と久方ぶりのカタカナ交じりの気楽な雰囲気を思い出して葵の肩の力も抜ける。この世界に来て、チトと交わした会話から外来語、主にカタカナ英語が通じにくい世界である事を理解した。それでもチトは流石長寿とでも言うべきか、多少理解があったがそれでも知らない単語の方が多い印象だった。当然ヴィルやルシエ、オルコスに至っては殆ど知らない状況で、自然と意識的に外来語を避け始めたのは当然だった。そう言えば、あの状況を示すにはこんな便利な言葉もあったな。なんて事を思い出しつつ自然な流れで交わす会話は葵を、どこか安心感を思い出す、そんな気分にさせてくれた。
「今の葵は優秀だよ?何せ…」
「あぁ…それも、言わないで欲しい。…改めて、探ちゃんが日常生活を送る世界と、ウチが元いた世界が全く同じかどうかは分からんし、確かめようもないけど…。でもね、探ちゃんって今、22歳やったりする?」
「…、そう、だね?」
「ウチ、この世界に来たのは数年前なんよ。今は20歳。探ちゃんが良く知ってるウチが何歳なのかは知らんけど、少なくとも今のウチの姿を見て違和感なくウチだって認識してくれるなら、それなりに元の世界でも年が流れてると考えていい。ウチ、ここ数年結構背が伸びとるからな!」
探が口にしかけた、現代日本における葵についての情報。先程に続いて二度目の停止ともなれば、流石の探も状況把握が追い付いていないなりに口にしてはならない未来の情報であると何となく理解できた。明るい表情で胸を張って、わざとらしく背伸びして慎重が伸びた事を見せつけてきた葵は不意にその表情を暗くする。探が良く知る現代日本における葵ですら、見せた事がない表情だった。咄嗟に声を掛けようとして、その指摘を葵が求めていないのだと分かってしまった探は下唇を噛んで続きを待つ。
「…ふふ、少なくともこの世界に来る前のウチが、探ちゃんと出会うきかっけはないし…そんなきっかけ出来ないって今も思ってるんだ」
「ちょっと…よく分からない。どういう意味?」
「うーん…」
怪訝な表情を隠さず向けて、ルシエであれば確実にしていただろう踏み込まない行為をあっさり飛び越えてきた様子から、矢張り目の前の彼女はルシエとは異なる存在なのだろうと理解できてしまった。どう答えようかと思考を巡らせる中で、無意識に浮かんだ苦笑を隠す事はしなかった。断片的に把握した探が知る世界、未来の話。少なくとも自分は自分としてその場に居合わせている事実。チトからの記念品として受け取った一つの魔法、その中で思い出した光景。
「この話は、もし地球に戻って今のウチがそのまま成長した世界線だったと思えても、絶対ウチに対して持ち出さんでな?」
探にとっての葵が今この場にいる自分であるかどうか不明であるのと同じように、葵にとっての探が未来の身内である保証は一切なかった。だからこそ、その言葉は案外あっさりと口から飛び出していたのだ。
「ウチ、地球では自殺寸前なんよな~。MT5、マジで飛び降りる5秒前!in屋上、的な?だから、正直今のウチとしては、あの世界に未来があるって想像するだけでぞっとする。ウチにとって現代日本は価値がない存在で、見たくもない現実でしかない。ほんま、未来のウチは何考えとるんや、あほか、って感じな訳。誰だって知りたくないやろ?死にたいしか意志がない世界で、結局死なないで未来を生きてますとか。少なくともあと何年は苦痛を抱えてます、とか。はぁ~…折角久しぶりに裏表ない会話が出来とるのに、まさかこんな複雑な気分になるなんて。自業自得、だけどね」
事実、葵にとっては本当にどうってことない話なのだろう。面倒臭げに大きく伸びをした葵は、呆然と座り込む探の隣に腰を下ろして、そのまま地面へ転がり込んだ。視界の端で浮かぶ表情には苦痛も、哀愁も存在しない。ただ、酷く退屈そうに瞼を細めるばかりだった。同情も、怒りの言葉も、何も求めていなかった。ただ、事実を事実として述べただけだ。
始めは動揺した表情で固まっていた探は、暫くの沈黙を終えてそっと葵から視線を逸らした。ぼんやりと見据えるのは終点の見えない通路の先。現実味のない、どこかのテーマパークの一部の様な現在地に対する逃避も程々に、この世界が夢であると適当に納得したからこそ、僅かに息を呑んだまま、小さく問いかけた。
「…どうして、あたしにその話をしたの?」
素朴な疑問だった。普段の探であれば、顔見知りどころか仲の良い大切な友人が過去とは言えど自殺未遂を試みていたと知れば声を荒げていただろう。感情が凪いで冷静なまま口を開く事など、到底できていなかった筈だ。その事実を理解していながら、それでも平坦に言葉を紡げたのは、偏に現状がどこまでも現実離れしていたからだった。そんな想像もしていなかった探の問いかけに素直に目を丸くした葵は、僅かに考え込むように表情を歪めてから諦めた様に目を瞑った。
「うーん、なんでやろ?確かに、別に言わんでも良かったよね、この話。少なくともここまで詳細に話す理由も、意味も、何もない。しいて言うなら…訳の分からん未来を生きるウチなら、こういう過去の話とか自分が不利になりかねない話題を絶対口にしないやろうなぁって思ったかも。言わないって分かってる癖に、誰も知らないのは何か違う気がしたのかも。押し付け、ってヤツ?」
「…意外と自己愛に満ちてるんだね」
「ウチは世界で一番自分が可愛いくてたまらないって思ってるで?そうじゃなきゃ、自殺願望なんて生まれない。自分が可愛いから、可愛いままで終わるために自殺を選ぶの。皆にも、一番可愛い自分を見ていて欲しいから、嘘を重ねる。変やと思う?」
「そうやって言われると、当たり前かも?」
「ふふん、でしょ?」
自分自身を抱える様に両手で反対の肩を抱いた葵は、反射的に感想を吐いた探を咎める事もせず、寧ろ肯定と共に笑みを浮かべた。穏やかで、つられて周囲も笑顔になってしまうような、温かい笑み。誰だって自分を大切に生きているが、葵のそれはどこまでも間違っていた。そして、探が率直に間違いを理解出来た様に、葵自身も間違っている事を自覚しているようだった。だから、探はそれ以上の指摘はしなかった。
「結論、ウチにもよう分らん!じゃあ、こうする?今目の前にいる探ちゃんがお姉ちゃんみたいやなって思ったから、家族に内緒話する気分で話しちゃったの!そうやね、そういう事にしよう!」
「何それ、マジ意味不明」
「あいたっ」
悪戯っ子の様にわざとらしく笑って話を有耶無耶にした葵の額を中指で弾いた探は、呆れた意思を強く込めたため息を大きく吐いた。きっと、葵自身も良く理解できていないのだろう。自分の事は自分が一番理解している、なんて話は良く耳にするが、実際の所個人に対する評価は第三者から見た答えこそが正解だ。本人がこう考えている、それすら周囲から見た自己に対する認識を踏まえてのものに無意識下で変換されている。少なくとも探は自分の事を最も理解しているのは、幼少期から幼馴染のまま成長を共にしてきた”アイツ”だと嫌々納得しているし、逆も然りだと胸を張って言えるのだ。
「もう、面倒臭いからそれでいいよ」
「賛成!この話おーわりっ!」
くすくすと笑う葵の頭を乱雑に撫でつければ、幼子の様に身を捩って抵抗される。探が知る葵であれば、撫でられればもっとと言わんばかりに頭を摺り寄せてきただろう。矢張り、目の前の少女は自分が知る友人ではないのだと探は改めて理解した。少なくとも、今の葵は幼い成長途中の少女なのだ。逃げようと小さく暴れる葵の身体を、躍起になって捕まえる。二人でしばらく疑似プロレスを楽しんでいれば、身に着けていた服も髪さえもがぐちゃぐちゃになってしまって、不意に顔を見合わせた二人は腹を抱えて笑った。
―――
「ん、まぁいっか。どうせ考えたって無駄なんだろうし…ご都合主義って事で諦めた。…それで、あたしはどうすれば元の世界に戻れるの?」
「うーん、どうしよっか。取りあえずこの簡易迷宮について超簡潔に説明すると、試練を乗り越えるまで出られない部屋!ってヤツなんよな。恐らく、さっき見たドラゴンも、そして今の探ちゃんがこの世界のルシエちゃんと入れ替わっちゃった理由も試練の一つ。他にも試練があるのか、ドラゴンさえ討伐すれば条件達成なのかは分からんけど…」
「一先ず、あのヤバそうなドラゴンを倒さなきゃ話が進まないって訳だ」
「ただ倒すだけならいくらでもやり様はあるけど、問題はこの迷宮を壊さない様に意識しながら、あのドラゴンを討伐する必要があるって所なんよなぁ…。下手に強い魔法を使って、この迷宮自体を作り出している魔法陣を歪めちゃったら元も子もないし、運が悪ければ永遠に閉じ込められる可能性がある。流石に魔力弾じゃどれだけ集中しても瞬間的な物理ダメージを与えるのがやっとって感じやったし」
深いため息をつく葵の話は、正直なところ半分以上理解できなかった為探はあっさりファンタジーすげーと聞き流している。出られない部屋は現代日本で良く流行っている文化だが、いざ自分が直面すると面倒なものである。言われて思い出した、人生で初めて対峙したドラゴンは4D映画も引っ繰り返って土下寝するレベルでヤバそうだった訳で、何も出来ない探は黙って葵が作戦を考える様子を眺めている事しか出来なかった。当然葵も探が何も分かっていない事を理解した上で、自身の脳内の整理も兼ねて先程の瞬間的な戦闘で引き出した情報を並べていった。
「一番の問題はウチもドラゴンと戦った事なんかないから、討伐のセオリーが全くない事なんやけどね。迷宮の耐久力は死ぬ気で魔力調整すればどうにかなるやろうけど、一定の条件を達成しなければ討伐できませんみたいな生体しとったらどないしよー…」
「ご都合主義なら攻略本とか、ウィキみたいな魔法ないの?あとは…絵本とか?ほら、悪いドラゴンを勇者が討伐しました!みたいな本とか、あれが事実です…みたいな」
「残念ながらウチはこの世界の常識や絵本にまで追いつけてないからなぁ。ウィキなら探せば魔法として作り出せるんやろうけど…流石に本気で封印されそうやからやめとく。あんま禁忌指定一直線の魔法陣ばっか量産しとると、存在ごと禁忌指定されそうやからね…」
「葵はこの世界で何やってるの…?」
思い浮かんだエルフの血相を変えた様子に首を振って、ほんの一瞬作りかけた魔法陣を強制的に頭の外へ押しやった。魔法で出来ない事は存在しない。事実、ソフィであれば容易く扱える機能の一つなのかもしれない。けれども葵は決して、この世界の根幹に踏み入りたい訳ではなかったのだ。たった一つの情報欲しさにこの世界を大混乱に貶めるつもりも到底ない。だから、一番手っ取り早いだろう方法は試す事すらしなかった。ドン引きした表情を隠さない探は、不意に何かを思い出したように小さく笑った。その様子に不思議そうに首を傾げれば、ごめんごめんと肩を竦めて謝られる。
「いや、葵が描く絵って分かりやすく画伯タイプって言うか…なんか独創的で、ある意味目を引き付けられるような感じがするなって思い出して。その魔法陣?も、どうせ似た様に好き勝手やってるんだろうなって思ったらつい可笑しくて」
「…え、ウチ未来で絵なんか描けとるの?それ大丈夫?全部真っ黒やったりせえへん?」
「なんで?普通にカラフルって言うか、別に変だと思った事はないけど…」
ぱちりと瞳を瞬いた葵は、小首を傾げてまたまた何でもない様に口を開いた。
「だって、ウチこの世界に来てから急に戻ったから気にしてなかったけど…地球では色覚異常で世界全部がモノクロにしか見えとらんかったし」
無情にも、容易く落とされた爆弾を前に探は片手で顔を覆って天井を仰いだ。勘弁してくれ、と全身が示している。そんな様子から、未来では何かしらの変動により色彩認識能力が復活しているのか、ないなりにどうにかする手段を見付けているのか、ともかくこの事実は誰にも気付かれていなかったらしいという結論に辿り着いた葵は、思わず苦笑いを浮かべてしまった。
「葵、なんであたしに対してそんなノーガードなの…?そういうのってもっとこう、叡智…あー、あたしがルシエなら、もしかしてソフィって言った方が伝わるの?彼みたいな、頼れる相手にするものじゃない?」
「うぇ、ソフィがウチにとって頼れる相手…?何その世界線、絶対ウチじゃないって!ってか、少なくともソフィがおるんやね、確実に禁忌魔法使っとるやろその世界線のソフィって!」
「ん?二人は出会った当初から結構親し気な印象が強いけど…」
「それ絶対に間違った印象やから!!勘違いせんといて!」
「ん、んぅ…そう、ですか?」
急激に不機嫌そうな、それでいて楽し気な表情を浮かべた葵を前に、面倒事の気配を察知した探は潔く疑問を捨てる決断をした。本日何度目かも分からないため息で呆れている事実を伝えれば、むすりと不満そうに頬を膨らませた葵は、ふと先程探から投げかけられた問いかけを改めて思い出して口を開けた。
「やっぱり、ウチはこの世界で生きとるウチでしかないね。仮に探ちゃんが認識しているウチが今のまま成長した未来の姿やとしても、結局その世界線のウチでしかない。多分、今のウチよりずーっと大人で、もっと上手くやれとるから生きてるんやろうなって」
「…それで?」
「今ウチの目の前に居る探ちゃんは、この場に居るウチの事何一つ知らない。逆に、ウチが知るルシエちゃんは、未来であるかもしれないウチの事も、地球で生きてきたウチの事も、今交わされている会話の事だって、何一つ知らないんだ。…もし、並行線上に探ちゃんとルシエちゃんが入れ替わっているとすれば前者の可能性は崩壊するけど…まぁ、難しく考える必要はないよね。端数は切り捨てって事で!」
全く同じ世界線の未来の姿であったとしても、今この瞬間会話が交わされた時点で本当に同じだとは言い切れない。呼吸のタイミング、言葉尻、僅かな動作、たった一つだけでも違えばそれは異なる世界線となるのだから。始めはその違いを躍起になって特定しようと考えていた葵は、結局どうしようもない結論に辿り着いて思考を放棄した。現在、過去、未来。何一つ寸分違わない世界線など、存在する訳もないのだから。
「同じ探ちゃんでも、今目の前に居る探ちゃんに何を言ったところで、少なくともこの世界に生きるルシエちゃんに知られることはないし、ウチが動き辛くなることはない。でも、探ちゃんは間違いなく、探ちゃんなんだよ?ふふ、よく分からんくなってきたね!」
「葵が言い出した話なのに…。つまり何、この世界のルシエ?相手なら何も言えないけど、未来もしくは別世界線のあたし相手だったら、何言っても許されるって話?…全く、あたしを何だと思ってるの、このおバカさんは」
「ふふん、いいでしょ?今の探ちゃんは、今のウチのお姉ちゃんなんやから!妹の我儘位容易く受け入れてくれるやろ?」
「…はぁ」
呆れた様に頬を掻いた探だったが、呆れ交じりに葵を見詰める瞳はどこまでも優しかった。紛れもなく、姉と言う保護者の始点で葵を見てくれている証明なのかもしれない。そんなちぐはぐで、曖昧な探の反応を前に上機嫌で笑った葵は、元気よく探の胸元へ飛び込んだ。満面の笑みと共に行われた奇行に、勢いよく背中を地面に打ち付けた探の雷が落ちるまでにそう時間はかからなかったのはご愛嬌と言う事にしておこう。
☆評価やブックマークで応援して頂けると励みになります。次回も是非御一読下さい。




