エピローグ 君の隣で
# エピローグ 君の隣で
帝都アマドールに、春が訪れた。
宮殿の庭には白い花が咲き始め、ホーンの泉を渡る風にも、冬の冷たさはもう残っていない。
ベルグ火山の噴火から半年。
南部の復興は今も続いている。
新しい家が建ち、街道が修復され、畑には再び種が蒔かれた。
失われたものがすべて戻ったわけではない。
それでも人々は、それぞれの場所で新しい暮らしを始めていた。
そして今日。
私とレオもまた、新しい一歩を踏み出そうとしていた。
◇
「ラルム様、動かないでくださいませ。」
「……さっきから動いていません。」
「動いていらっしゃいます。」
鏡越しにアンと目が合った。
その目が、少し赤い。
「アン……泣いたの?」
「泣いておりません。」
「でも。」
「泣いておりません。」
どうやら、これ以上聞かない方がよさそうだ。
私は小さく笑って、もう一度鏡へ目を向けた。
そこには、自分なのに自分ではないような女性が映っている。
真珠色のドレス。
髪には、マテリアス家に伝わる小さな髪飾り。
そして胸元には、アマドーラの雫。
あの日から、この石はとても静かだった。
レオが近くにいても、以前のようにドラゴンが姿を現すことはない。
ただ時折、陽の光を受けると、深い碧色に輝く。
そのたびに私は思う。
――眠っているのね。
それでいい。
できるだけ長く、眠っていてほしい。
「お綺麗です。」
アンの声に、私は鏡越しに彼女を見る。
「ありがとうございます。」
「本当に……。」
アンはそこで言葉を止めた。
やっぱり泣いている。
「アン。」
「ですから、泣いておりません。」
「まだ何も言っていません。」
「……ラルム様。」
二人で顔を見合わせた。
そして、同時に笑った。
こんな日が来るなんて。
初めて宮殿へ来た頃の私は、想像もしていなかった。
マテリアス家のことも。
自分の力のことも。
レオのことも。
何一つ知らなかった。
「ラルム様。」
アンが私の髪に最後の飾りを挿しながら、静かに言った。
「私は今日という日を、ずっと待っていたような気がいたします。」
「アン……。」
「マテリアス家が復権した時にも、同じことを思いました。でも、今日は少し違います。」
アンは鏡の中の私を見つめた。
「ラルム様がお幸せになる日を見届けられることが、私は何より嬉しいのです。」
胸の奥が熱くなった。
「ありがとう、アン。」
それ以上言えば、今度は私まで泣いてしまいそうだった。
◇
支度を終えた頃、扉の向こうが何やら騒がしくなった。
「だから、ここで待てと言われただろう!」
「ちょっとくらいいいじゃないか!」
聞き覚えのある声だった。
「……ビリー?」
扉が開く。
「ラルム!」
「兄さん!」
ナーラが慌ててビリーの背中を引っ張っている。
「まだ入っちゃ駄目だって言われたでしょ!」
「だって、ラルムの晴れ姿だぞ!」
昔とまったく変わらない二人を見て、私は思わず笑ってしまった。
「ビリー。ナーラ。」
「おめでとう、ラルム。」
ナーラが私を見るなり、目を潤ませた。
「本当に綺麗。」
「ありがとう。」
ビリーは何も言わない。
ただ、じっと私を見ている。
「ビリー?」
「いや……。」
鼻のあたりを乱暴にこする。
「うちの店で皿を運んでた娘が、皇后になるとはな。」
「まだです。」
「今日なるんだろ。」
「そうですけど。」
「だったら同じだ。」
ビリーらしい。
「ラルム。」
ナーラが私の手を握った。
「皇后になっても、疲れたらいつでも店に帰ってきてね。」
「え?」
「兄さんの料理くらいなら食べさせてあげるから。」
「くらいって何だ!」
また兄妹喧嘩が始まる。
私は笑いながら二人を見つめた。
帝都へ来て、最初に私を受け入れてくれた場所。
あの小さなブラッセリーがなかったら、今の私はいない。
「ありがとう。」
私は二人の手を握った。
「また、必ず行きます。」
◇
部屋を出ると、回廊の先にスベリア様が立っていた。
「ラルム。」
「スベリア様。」
私は思わず足を止めた。
初めてお会いした日のことを思い出す。
あの頃の私は、まだラルム・フローディアと名乗っていた。
自分の出生について何も知らず、女学院を卒業しようとしていた頃。
スベリア様は、そんな私を見つめて言った。
――貴女の美しく成長した姿を見たら、私の娘もきっと喜んだことでしょうに。
当時の私には、その言葉の本当の意味が分からなかった。
今なら分かる。
私の知らないところで、たくさんの人が私を守ってくれていた。
「本当に、よくここまで来ましたね。」
スベリア様が優しく私の頬へ触れた。
「はい。」
「マリオンがいたら、きっと喜んだでしょう。」
今は亡きレオの母君。
その名を聞き、胸の奥が温かくなる。
「私も、お会いしたかったです。」
「きっと見ていますよ。」
スベリア様は微笑んだ。
「あなたたち二人のことを。」
◇
さらに進むと、ルカとクララが待っていた。
今日はルカも騎士の正装をしている。
相変わらず、こういう服を着ると腹が立つくらい様になる。
「ラルム様。」
ルカが恭しく頭を下げた。
「本日は、誠におめでとうございます。」
「……なんだか、ルカさんじゃないみたい。」
「ひどいなあ。」
すぐにいつもの顔へ戻った。
「今日は俺だって真面目にやりますよ。」
「今日だけ?」
「ラルム様まで陛下みたいなことを言わないでください。」
その隣でクララが笑っている。
「ラルム様、おめでとうございます。」
「ありがとう、クララさん。」
私は二人を交互に見た。
以前なら、ルカの周りにはいつもたくさんの女性がいた。
なのに今日は、当たり前のようにクララが隣にいる。
私の視線に気づいたのか、ルカが眉を寄せた。
「……何です?」
「いいえ。」
「絶対何か思っていますよね。」
「何も。」
クララが小さく笑った。
ルカが彼女を見る。
その眼差しは、私がブラッセリーで働いていた頃に見た、どの女性へ向けるものとも少し違っていた。
私はそれ以上、何も言わなかった。
それで十分だった。
◇
「ラルム。」
懐かしい声に振り返る。
「ミラ!」
ルルドから来てくれたミラが、穏やかな笑顔で立っていた。
私は思わず駆け寄った。
「来てくれたんですね。」
「もちろんです。」
ミラは私の胸元へ目を向けた。
アマドーラの雫。
「静かですね。」
「はい。」
「もう、ドラゴンは見えません。」
ミラは優しく笑った。
「それでよいのですよ。」
「……はい。」
私も笑った。
「私も、そう思います。」
ミラは雫には触れず、そのすぐそばへそっと手を添えた。
「この石を、大切になさってください。」
「でも、それ以上に。」
ミラは私を見つめる。
「石を持たないあなた自身を、大切に。」
胸が熱くなった。
「はい。」
今なら、その言葉の意味がよく分かる。
◇
やがて、帝都中に鐘の音が響いた。
その日。
春の花に包まれた宮殿で、私とレオは多くの人々に見守られながら婚礼の日を迎えた。
帝都には朝から祝福の鐘が鳴り、ホーンの泉の周りにもたくさんの人が集まったという。
私たちを祝うために遠くから訪れた人もいた。
ベルグ地方から来てくれた人々もいた。
そして、私が皇后として正式に民の前へ姿を現した時。
広場を包んだ歓声を、私はきっと一生忘れないと思う。
その日。
私はアマドーラ帝国の皇后となった。
けれど不思議なことに、何か別の人間になったような気はしなかった。
私は私だった。
ただ、これから歩いていく道を、自分で選んだ。
それだけだった。
◇
長い一日が終わり、空が茜色に染まり始めた頃。
私はようやくレオと二人になった。
「疲れました……。」
思わず本音がこぼれる。
「皇后になった最初の日に言うことがそれか。」
「だって、本当に疲れたんです。」
「先が思いやられるな。」
「今なら、まだ取り消せますよ。」
「断る。」
即答だった。
私は笑った。
「少しくらい考えてもいいでしょう?」
「考える必要がない。」
そう言って歩き出すレオの後ろ姿を見ながら、私は少しだけ笑った。
「レオ。」
「なんだ。」
「どこへ行くんですか?」
「ついて来れば分かる。」
「またそれですか。」
何度この人に、こうして連れて行かれただろう。
けれど今は、不思議と不安ではなかった。
◇
馬車を降りた場所を見て、私は目を見開いた。
「ここ……。」
聞き慣れた水音。
古い竜のモニュメント。
夕暮れの光を受けて輝く水面。
「ホーンの泉……。」
帝都へ来たばかりの頃、私はこの場所が好きだった。
誰も知らない街。
何が待っているのか分からない未来。
不安で仕方がなかった。
それでも、この泉を眺めていると、不思議と心が落ち着いた。
この街なら、何かを見つけられるような気がした。
「どうしてここへ?」
「君が好きなのだろう。」
レオはそれだけ言った。
「覚えていたんですね。」
「私はそこまで薄情ではない。」
「そういう意味では……。」
私は笑った。
泉の周りには、いつもの帝都の暮らしがあった。
母親と手をつないで歩く子ども。
仕事帰りらしい人々。
店先を片づける商人。
遠くからパンの焼ける香りも漂ってくる。
皇帝と皇后の婚礼の日だというのに、ここにはいつもの日常が流れていた。
それが、なんだか嬉しかった。
私たちは泉の前に並んだ。
「レオ。」
「なんだ。」
「帝都へ来たばかりの頃、私はここでよく考えていたんです。」
「何を。」
「これから、どうしようって。」
私は水面を見つめた。
「自分が何者なのかも分からなかった。」
「何をしたいのかも。」
「ただ、この街なら何かを見つけられるような気がしていました。」
「見つかったか。」
以前にも聞かれた言葉。
私は笑った。
「はい。」
「何を。」
「私自身です。」
レオは静かに私を見る。
私は胸元のアマドーラの雫へ触れた。
でも、答えはこの石ではない。
「ラルム・フローディアだった私も。」
「ラルム・マテリアスである私も。」
「アマドーラの雫を持つ私も。」
「皇后になった私も。」
私はレオを見る。
「全部、私なんだと思います。」
レオは少しだけ目を細めた。
「ああ。」
それだけだった。
でも、それで十分だった。
春の風が吹く。
胸元の雫が、夕陽を受けて碧く輝いた。
「……レオ。」
「なんだ。」
「今、心を読みました?」
「読んでいない。」
「本当に?」
「ああ。」
「怪しい。」
「ならば雫を外せ。」
「嫌です。」
「では諦めろ。」
「そういう問題ではありません。」
レオが笑った。
私も笑った。
思えば、ずっとそうだった。
レオは私が迷っている時に現れて、勝手に私の心へ入り込んでくる。
腹が立つこともあった。
困らされたこともある。
でも。
その人が今、私の隣にいる。
「ラルム。」
「はい?」
レオが手を差し出した。
「帰るぞ。」
私はその手を見る。
大きくて、温かい手。
私を何度も守ってくれた手。
そして今は、私が守りたいと思う人の手。
私はその手を取った。
「はい。」
もう、後ろを歩くのではない。
隣へ並ぶ。
同じ歩幅で。
これから何が起こるのか、私たちには分からない。
それでいい。
分からないからこそ、迷いながら選んでいけばいい。
人はこれからも恐れるだろう。
悲しむだろう。
怒り、傷つき、時には誰かを傷つけることもある。
それでも。
誰かの手を取り直すことはできる。
火と水のように。
違うものを消すのではなく、互いを受け止めながら生きていくことができる。
遠くで、赤ん坊の泣き声が聞こえた。
私は足を止め、振り返る。
若い母親が、小さな女の子を抱いていた。
その小さな手の中には、きっとその子だけの石がある。
いつの日か。
遠い未来に。
碧い石を握って生まれてくる少女が、再び現れるのかもしれない。
でも、その子はきっと一人ではない。
私たちが、この物語を残していくから。
恐れることは弱さではないこと。
悲しみも、怒りも、人の心の一部であること。
一人で背負わなくてもいいこと。
そして――
人は何度でも、自分の未来を選ぶことができることを。
「ラルム?」
「今行きます。」
私はレオの隣へ戻った。
二人で歩き始める。
ホーンの泉では、古い竜の足元から水が絶えることなく流れていた。
一滴。
また一滴。
過去から未来へ、命をつなぐように。
胸元のアマドーラの雫は、静かに輝いている。
ドラゴンは眠っている。
大地も穏やかだった。
私は隣を歩くレオの手を、少しだけ強く握った。
レオも何も言わず、握り返してくれる。
これでいい。
私はもう、運命に選ばれた少女ではない。
自分の人生を、自分で選んだ。
そしてこれからも。
愛する人の隣で。
この帝国に生きる人々と共に。
何度でも、未来を選んでいく。
ホーンの泉に、一粒の雫が落ちた。
静かな波紋が広がり、やがて大きな水の流れへと溶けていった。
― 完 ―




