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アマドーラ帝国の雫  作者: EMo


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新しい時代へ


 ベルグ火山の噴火から、季節がひとつ進もうとしていた。


 帝都アマドールには、穏やかな朝が戻っていた。


 ホーンの泉から流れる水は朝の光を受けてきらきらと輝き、広場には焼きたてのパンの香りが漂っている。


 行き交う馬車の音。


 店を開く人々の声。


 走り回る子どもたちの笑い声。


 何でもない、いつもの朝。


 けれど私は今、その何でもない景色がどれほど尊いものなのかを知っている。


 宮殿の窓から帝都を眺めていると、背後で扉が開いた。


「ラルム様。」


 振り返ると、アンが立っていた。


「そろそろお時間です。」


「……はい。」


 答えたものの、足が動かない。


 アンがそんな私を見て、ふっと笑った。


「緊張していらっしゃいますか?」


「……少し。」


「少し、ですか?」


「かなり……かもしれません。」


 正直に答えると、アンは楽しそうに笑った。


 今日は、帝国の復興を告げる式典が行われる。


 ベルグ地方の復旧はまだ続いている。


 失われたものがすべて戻ったわけでもない。


 それでも帝国は立ち上がり、もう一度歩き始めた。


 そのことを、皇帝自ら民に伝える日だった。


 そして私は初めて、レオの婚約者として正式に民の前へ立つ。


 皇后になる者として。


 胸元には、アマドーラの雫がある。


 以前なら、この石を身につけていれば安心できた。


 今は少し違う。


 雫があるから私はここにいるのではない。


 マテリアス家の娘だからでもない。


 私は自分で、ここに立つことを選んだ。


 そう思えるようになった。


「ラルム様。」


 アンが私の衣装の襟元を整えながら、小さく呟いた。


「本当に、お美しくなられました。」


「アン……。」


「初めてお会いした時のことを覚えております。」


 もちろん私も覚えている。


 マテリアス家が不当な処分を受けた頃、まだ若かったアンを、今は亡きレオの母君が引き取った。


 そして長い年月を宮殿で過ごし、私がここへ来た時、レオの命を受けて私の侍女となってくれた。


 何も知らなかった私に、アンはずっと寄り添ってくれた。


「私も覚えています。」


「ずいぶん助けてもらいました。」


「いいえ。」


 アンは首を横に振った。


「私は少しお手伝いしただけです。」


 そして、私の胸元の雫を見つめた。


「ここまで歩いてこられたのは、ラルム様ご自身です。」


 胸が熱くなった。


「ありがとう、アン。」


 アンは深く頭を下げる。


「さあ。」


「陛下がお待ちです。」


     ◇


 大広間へ続く扉の前に、レオがいた。


 皇帝の正装に身を包み、背筋を伸ばして立っている。


 初めて会った頃より、少しだけ大人びたように見えた。


 もっとも、本人に言えば嫌な顔をするだろうけれど。


 レオが私に気づく。


「遅い。」


「まだ時間前です。」


「私が待った。」


「それはレオの都合でしょう?」


 レオがわずかに眉を上げる。


 私は思わず笑った。


 こういうところは何も変わらない。


「緊張しているのか。」


「……少しだけ。」


「嘘だな。」


「どうして分かるんですか。」


「顔に書いてある。」


 私は思わず胸元を押さえた。


「雫で読んでいませんよね?」


「読んでいない。」


「本当に?」


「……少しだけ。」


「レオ!」


 思わず声を上げると、レオが珍しく声を立てて笑った。


「冗談だ。」


「もう……。」


 こんな大切な日に。


 でも、不思議だった。


 さっきまであれほど緊張していたのに、少しだけ肩の力が抜けている。


 きっとレオは、それを分かっていたのだろう。


 差し出された手を見る。


「行くか。」


 私はその手を取った。


「はい。」


 大きな扉が開く。


     ◇


 眩しい光が差し込んだ。


 宮殿前の広場を埋め尽くすほどの人々が集まっていた。


 一瞬、足が止まりそうになる。


 こんなにたくさんの人の前に立つのは、やはり怖い。


 失敗したらどうしよう。


 皇后にふさわしくないと思われたら。


 マテリアス家の娘だから選ばれたと思われたら。


 そんな考えが、一瞬だけ胸をよぎる。


 その時。


 レオの手に少し力がこもった。


 私は隣を見る。


 レオは前を向いたままだった。


 けれど、その横顔を見ただけで分かった。


 ――大丈夫だ。


 声は聞こえなかった。


 雫を通した言葉でもない。


 それでも、そう言われた気がした。


 私は大きく息を吸う。


 そして、自分の足で一歩を踏み出した。


 歓声が広場いっぱいに響いた。


 レオが民の前へ進み出る。


「アマドーラの民よ。」


 広場が静まり返った。


「我々は、大きな災害を経験した。」


「家を失った者がいる。」


「大切な人を失った者もいる。」


「今なお、元の暮らしへ戻れずにいる者もいる。」


 レオは人々を見渡した。


「だから私は、今日ここで『すべては終わった』とは言わない。」


 私は静かにレオを見つめた。


「我々がするべきことは、失ったものを忘れることではない。」


「痛みを抱えたままでも、互いに支え合い、もう一度歩き始めることだ。」


 広場のあちこちで、静かに頷く人々がいる。


「この帝国は、皇帝一人のものではない。」


「貴族だけのものでもない。」


「ここで生きる、すべての者のものだ。」


 レオはそこで私を見た。


「そして今日、皆に紹介したい人がいる。」


 胸が大きく鳴った。


 レオが私へ手を差し出す。


 私はその手を取り、前へ出た。


「ラルム・マテリアス。」


「アマドーラの雫を受け継ぎ、私と共に帝国を守った女性だ。」


 人々の視線が、一斉に私へ向けられる。


 怖い。


 やっぱり怖い。


 私は皇族として育ったわけではない。


 政治を学んできたわけでもない。


 少し前まで、ホーンの泉の近くにある小さなブラッセリーで料理を運んでいた。


 それでも。


 私はこの国が好きだった。


 この帝都が好きだった。


 ここで出会った人たちが好きだった。


 だから。


 私は前を向いた。


「私は……。」


 声が少し震えた。


 一度、息を吸う。


「私はずっと、自分が何者なのか分かりませんでした。」


 広場は静まり返っている。


「ラルム・フローディアとして生きてきて、ある日突然、自分がマテリアス家の娘だと知りました。」


「そして、自分がアマドーラの雫を持つ者だということも。」


 胸元の石へ触れる。


「最初は怖かった。」


「どうして私なのだろうと思いました。」


「こんな力なんてなければいいと思ったこともあります。」


 レオが静かに私を見ている。


「でも、今は少し違います。」


「私は、この石に選ばれたからここに立っているのではありません。」


「マテリアスという名前を取り戻したからでもありません。」


 私はレオを見る。


 そしてもう一度、人々を見る。


「私は、この国で生きたい。」


「皆さんと一緒に、この国をもう一度つくっていきたい。」


「そう、自分で決めたからここにいます。」


 どこからか、小さな拍手が聞こえた。


 一人。


 また一人。


 やがて拍手は大きな波となって広場を包んだ。


 私は人々の中に、懐かしい顔を見つけた。


 ビリー。


 ナーラ。


 少し離れた場所にはルカとクララ。


 アンもいる。


 皆、笑っていた。


 胸がいっぱいになった。


 私は一人でここまで来たのではない。


 たくさんの人に出会い、助けられ、傷つき、迷いながら、ようやくここまで辿り着いた。


 レオが私の手を取る。


 今度は私も、しっかりと握り返した。


     ◇


 式典が終わった後。


 私は宮殿の高い回廊から帝都を眺めていた。


 夕暮れの街に、家々の灯りが一つずつともっていく。


 レオが隣へやってきた。


「疲れたか。」


「少し。」


「少しか?」


「……かなり。」


 レオが笑う。


「でも。」


 私は街を見つめた。


「不思議ですね。」


「何が。」


「帝都へ来たばかりの頃、私はこの街で何かを見つけられるような気がしていたんです。」


「見つかったか。」


 私は少し考えた。


「はい。」


「何を。」


 胸元のアマドーラの雫に触れる。


 でも、答えはこれではない。


「私自身です。」


 レオは何も言わなかった。


 ただ、静かに私の肩を抱いた。


 遠くにホーンの泉が見える。


 竜のモニュメントの足元では、今日も水が絶えることなく流れている。


 この帝国では、今日もどこかで女の子が生まれている。


 その小さな手には、一つの石が握られている。


 いつの日か。


 再び、アマドーラの雫を手に生まれる少女がいるのかもしれない。


 その時、この世界がどんな時代になっているのか、私には分からない。


 人はまた恐れるだろう。


 傷つくだろう。


 争うこともあるだろう。


 人である限り、それを完全になくすことはできない。


 でも。


 恐れた時には、恐れていると言えばいい。


 悲しい時には、悲しいと言えばいい。


 一人で抱えきれない時には、誰かの手を取ればいい。


 火だけで生きようとしなくていい。


 水だけで生きようとしなくていい。


 違うものを消すのではなく、互いを知り、支え合えばいい。


 そうすればきっと。


 あの竜は、長い眠りを続けてくれる。


「レオ。」


「なんだ。」


「幸せな帝国にしたいですね。」


 レオは少し考えてから答えた。


「幸せだけの帝国など、つくれない。」


 私は思わず彼を見る。


「……そうですね。」


「だが。」


 レオは帝都の灯りを見つめた。


「悲しい時に、一人にされない帝国ならつくれる。」


 胸の奥が、静かに温かくなった。


「はい。」


「それがいいです。」


 私はレオの肩へそっと寄り添った。


 胸元のアマドーラの雫が、夕陽を受けて一瞬だけ碧く輝いた。


 けれど、もうドラゴンの姿は現れなかった。


 静かだった。


 とても、静かだった。


 それでいい。


 今は眠っていてほしい。


 できることなら、いつまでも。


 そしてもし、遠い未来に再び目覚める日が来るのなら。


 その時、この物語が誰かの手元に残っていますように。


 火と水が争うものではなかったことを。


 人は一人で背負わなくてもよかったことを。


 そして――


 どんなに迷っても、人はもう一度、自分の人生を選び直せることを。


 アマドーラの空に、最初の星が輝いた。


 新しい時代が、静かに始まろうとしていた。


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