受け継がれる雫
ベルグ火山の噴火から、しばらくの時が過ぎた。
帝都アマドールには、少しずつ以前の日常が戻り始めていた。
朝になれば市場に店が並び、ホーンの泉には人々の笑い声が響く。
壊れた家々の修復も進み、南部へ向かう街道には、毎日のように食料や木材を積んだ馬車が行き交っていた。
けれど、何もかもが元通りになったわけではない。
失われたものもある。
傷ついた人もいる。
大地にも、人の心にも、あの日の記憶は残っている。
それでも人々は、少しずつ前を向いていた。
私は、そんな帝国の姿を見ながら思う。
再生するということは、何もなかった頃へ戻ることではないのかもしれない。
傷ついたことも、悲しかったことも抱えたまま、それでももう一度歩き出すことなのだ。
◇
その日の午後。
私はアンと一緒に、帝都の南に設けられた診療所を訪れていた。
ベルグ地方から一時的に帝都へ移ってきた人々のためにつくられた場所で、まだ多くの家族がここで暮らしている。
「ラルム様。」
診療所の女性が、嬉しそうに私のもとへ駆け寄ってきた。
「今朝、赤ちゃんが生まれたのですよ。」
「まあ……。」
思わず笑顔になる。
「女の子です。」
その言葉を聞いた瞬間、なぜだろう。
胸元のアマドーラの雫が、ほんの少し温かくなった。
案内された小さな部屋には、若い母親が横になっていた。
その腕の中で、小さな赤ん坊が眠っている。
「おめでとうございます。」
私が声をかけると、母親は疲れた顔に幸せそうな笑みを浮かべた。
「ありがとうございます、ラルム様。」
「この子……とても元気なんです。」
私は赤ん坊の顔を覗き込んだ。
小さな鼻。
柔らかな頬。
ぎゅっと握られた、小さな手。
その手の中に、何かが見えた。
「……石?」
母親が微笑む。
「はい。」
そっと赤ん坊の指を開く。
小さな掌に、一粒の淡い桃色の石があった。
「この子の誕生石です。」
私はしばらく、その石を見つめていた。
アマドーラ帝国では、女の子は自分だけの石を手にして生まれてくる。
あまりにも当たり前のこととして、人々はそれを受け入れている。
私もそうだった。
十九歳になるまで、自分が持っていた石の意味など考えたこともなかった。
ただ、母から渡された大切な誕生石。
それだけだと思っていた。
けれど。
もしかしたら、この国の人々はずっと覚えていたのではないだろうか。
言葉ではなく。
伝説としてでもなく。
もっと深いところで。
かつて水の力を宿した一人の女性が、この大地を守ったことを。
そしていつの日か、再びその力を持つ少女が生まれるかもしれないことを。
女の子が石を手にして生まれてくるという、この帝国の不思議な営みそのものが――。
遥かな昔から受け継がれてきた、大地の記憶なのかもしれない。
「可愛いですね。」
私は赤ん坊の小さな手に指を触れた。
赤ん坊は眠ったまま、私の指をぎゅっと握った。
その温かさに、胸がいっぱいになった。
◇
診療所を出ると、入口の近くにレオが立っていた。
「レオ?」
「迎えに来た。」
「わざわざ?」
「何か問題があるか。」
「ありませんけど……。」
私は少し笑った。
皇帝がわざわざ迎えに来ることではないと思う。
けれど、こういうところは何を言っても変わらない。
レオは私の隣へ並んだ。
「何かあったのか。」
「どうしてですか?」
「さっきから考え事をしている。」
私は思わず胸元を押さえた。
「……読んだの?」
「いや。」
レオは澄ました顔で答える。
「顔を見れば分かる。」
「本当に?」
「疑うのか。」
「だって、これをつけていると油断できませんから。」
私はアマドーラの雫を指でつまんだ。
レオがわずかに笑う。
「ならば外せばいい。」
「それはそれで不安です。」
「面倒な女だな。」
「誰のせいですか。」
二人で顔を見合わせ、笑った。
こんなふうに笑えることが、今はとても幸せだった。
しばらく歩いてから、私はレオに話した。
「さっき、女の子が生まれたんです。」
「そうか。」
「小さな桃色の石を持っていました。」
レオの表情が少し変わった。
「誕生石か。」
「はい。」
私は歩きながら、胸元の雫へ触れる。
「考えていたんです。」
「何を。」
「いつかまた、アマドーラの雫を持つ女の子が生まれるのかなって。」
レオは答えなかった。
私も、答えを求めていたわけではなかった。
ドラゴンの言葉を思い出していた。
千年とは時間ではない。
人の心が満ちる時。
恐れ。
怒り。
悲しみ。
孤独。
それらが積み重なり、大地が抱えきれなくなった時、ドラゴンは再び目覚める。
「人は、もう二度と争わないなんて約束できませんね。」
「ああ。」
レオは静かに答えた。
「恐れないことも、悲しまないこともできない。」
「はい。」
私は少しだけ笑った。
「以前の私なら、それをなくさなければいけないと思ったかもしれません。」
でも、今は違う。
悲しむことが悪いのではない。
怒ることが悪いのでもない。
怖いと思うことも。
弱くなることも。
人である以上、なくすことなどできない。
大切なのは、それを一人で抱え続けないことなのだ。
「もし……。」
私は立ち止まった。
「いつかまた、この雫を持つ女の子が生まれたら。」
レオも足を止める。
「その子には、一人で背負わせたくありません。」
自分でも驚くほど、自然に出てきた言葉だった。
「自分が何者なのかも分からないまま、怖がったり、逃げたり、自分の力を疑ったり……。」
私は胸元の雫を見つめる。
「私と同じ思いをしなくてもいいようにしたい。」
レオは黙って聞いていた。
「伝えていきたいんです。」
「火のことも。」
「水のことも。」
「ドラゴンのことも。」
「そして、人の心が大地とつながっていることも。」
私はレオを見上げた。
「伝説としてではなく、この帝国が一度、本当に経験したこととして。」
レオの碧い瞳が、静かに私を見つめている。
「それが、君のしたいことか。」
「はい。」
迷いはなかった。
「アマドーラの雫を持つ者だからではありません。」
私は小さく息を吸った。
「私が、そうしたいんです。」
レオはしばらく何も言わなかった。
やがて、静かに私の手を取る。
「ならば残そう。」
「え?」
「記録を。」
「千年前の伝説ではない。」
「私たちが見たものも、経験したことも、間違えたことも、すべてだ。」
レオは少しだけ笑った。
「次に雫を持つ者が現れた時、迷わずに済むように。」
胸の奥が温かくなった。
「はい。」
私はレオの手を握り返した。
◇
帰り道。
ホーンの泉の前を通った。
帝都へ来たばかりの頃、私はこの場所が好きだった。
古い竜のモニュメントから水が流れ落ちる音を聞いていると、なぜか心が落ち着いた。
あの頃の私は、何も知らなかった。
自分がマテリアス家の娘であることも。
アマドーラの雫の意味も。
目の前を歩くこの人が皇帝になる人だということさえ。
ただ、この街なら何かを見つけられるような気がしていた。
「どうした。」
レオが振り返る。
「いいえ。」
私は笑った。
「少し、昔のことを思い出していただけです。」
泉の中央では、竜が変わらず空を見上げている。
けれど今、その姿は以前とはまったく違って見えた。
私はようやく、この場所へ辿り着いたのだと思う。
自分が何者なのかを知るためではない。
自分がどう生きたいのかを、自分で選ぶために。
どこからか、赤ん坊の泣き声が聞こえた。
私は思わず振り返った。
けれどすぐに、優しい笑い声へ変わる。
また一つ、新しい命がこの帝国に生まれている。
その小さな手の中には、どんな石があるのだろう。
アメジストかもしれない。
ルビーかもしれない。
名も知らない、小さな石かもしれない。
そしていつの日か。
再び、碧い雫を手に生まれる少女がいるのかもしれない。
でも、その時は。
もう一人ではない。
彼女が生まれるずっと前から、私たちは物語を残しておく。
恐れをなくすためではなく。
恐れを抱いた時、誰かと手を取り合えるように。
私は胸元のアマドーラの雫へ触れた。
石は静かだった。
ドラゴンの姿も、もう浮かばない。
それでいいのだと思った。
眠っているのだから。
できることなら、長い、長い眠りでありますように。
けれど、もし再び目覚める日が来ても。
その時の人々が、きっとまた思い出してくれる。
火と水は、争うためにあるのではないことを。
人は、一人で生きるために生まれてくるのではないことを。
「ラルム。」
少し先から、レオが私を呼んだ。
「今行きます。」
私は雫から手を離した。
そして、レオの隣へ駆け寄った。
ホーンの泉では、竜の足元から絶えることなく水が流れていた。
過去から未来へ。
命をつなぐように。
静かに。
いつまでも。




