竜の記憶
ベルグ火山を覆っていた炎は、少しずつ静まり始めていた。
それでも、大地の奥底ではなお鼓動が続いている。
私はレオと手を重ねたまま、ゆっくりと空を見上げた。
火と水が溶け合って生まれた光のドラゴンは、静かに火山の上空を旋回している。
その姿は神々しく、それでいてどこか哀しげだった。
誰一人として声を上げる者はいない。
騎士たちも。
村人たちも。
皆、ただ祈るように空を見つめていた。
やがてドラゴンは大きく翼を広げ、ゆっくりと私たちの前へ降り立った。
黄金色の瞳が、静かに私とレオを見つめる。
胸元のアマドーラの雫が淡く震えた。
その瞬間だった。
世界が碧い光に包まれる。
◇
目を開くと、そこには見たこともない景色が広がっていた。
青く澄んだ湖。
緑豊かな森。
黄金色に実る麦畑。
子どもたちの笑い声。
人々は穏やかな表情で暮らしている。
「ここは……。」
隣でレオが静かに呟く。
「千年前のアマドーラ帝国。」
二人の前を、一組の男女が歩いていた。
燃えるような赤い瞳を持つ青年。
胸元に碧い雫を宿す女性。
二人は手を取り合い、人々の輪の中へ入っていく。
人々は跪くことなく、笑顔で二人を迎えていた。
火の皇帝。
水を宿す皇后。
その姿は、どこか私たち自身を映しているようだった。
しかし、その穏やかな景色は突然崩れ始める。
争い。
嫉妬。
裏切り。
権力への執着。
飢え。
戦。
泣き叫ぶ子ども。
炎に包まれる村。
家族を失い、膝をつく人々。
その一つひとつの悲しみから、黒い霧が立ち上っていく。
「これは……。」
私は思わず息をのんだ。
黒い霧は空へ消えることなく、大地へと染み込んでいく。
ゆっくりと。
静かに。
まるで誰にも気づかれないまま。
百年。
二百年。
五百年。
八百年。
黒い霧は積み重なり続ける。
やがて、そのすべてが一つの場所へ集まり始めた。
ベルグ火山だった。
火山の奥深くへ吸い込まれた霧は、赤黒い光へ姿を変えていく。
火山が苦しそうに唸る。
私は胸が締めつけられた。
その時、ドラゴンの声が静かに響いた。
『それが、人の心である。』
「人の……心?」
『恐れ。』
『怒り。』
『嫉妬。』
『悲しみ。』
『孤独。』
『憎しみ。』
『人は感情を持つ生き物。』
『感情そのものは罪ではない。』
『しかし、向き合われなかった想いは行き場を失い、大地へ還る。』
私は静かに目を閉じた。
違和感を押し殺した人。
悲しみを言えなかった人。
怒りを飲み込んだ人。
誰にも助けを求められなかった人。
それらが積み重なり、大地へ染み込んでいく。
それは決して、この帝国だけではない。
どの時代にも繰り返されてきたことだった。
「だから……。」
私はゆっくりと顔を上げた。
「千年なのですね。」
ドラゴンは静かに頷いた。
『千年とは時間ではない。』
『人の心が限界まで積み重なる時である。』
私はベルグ火山を見つめた。
「火山は怒っていたのではない。」
レオが静かに呟く。
「苦しんでいたのか……。」
ドラゴンは再び頷く。
『火山は人を裁かぬ。』
『人の悲しみを抱え続ける。』
『限界を迎えた時、その苦しみが噴き出す。』
私は涙をこぼした。
自然災害だと思っていたものは、自然だけの問題ではなかった。
人の心と、大地はつながっていた。
『だからこそ、水が必要なのだ。』
ドラゴンの言葉に、私は胸元の雫へ触れた。
『水は火を消すためのものではない。』
『傷ついた命を受け止めるもの。』
『乾いた心を潤すもの。』
『火は命を灯す。』
『水は命を育む。』
『どちらか一つでは世界は成り立たぬ。』
私はようやく理解した。
火と水。
対立するものではなく、支え合うもの。
レオの火を消そうとしていた私は、まだ本当の意味で雫を理解していなかった。
「だから……。」
私はレオを見つめた。
「私たちは二人だったのですね。」
レオは静かに頷いた。
「ああ。」
「私は帝国を背負うことばかり考えていた。」
「一人で守ろうとしていた。」
私は微笑む。
「私も、一人で何とかしようとしていました。」
二人は小さく笑った。
ドラゴンもまた、穏やかに瞳を細める。
『ようやく思い出した。』
私はドラゴンを見つめた。
「あなたは……これからどうなるのですか。」
ドラゴンはゆっくりと翼を広げた。
『我は眠る。』
「また千年後に?」
ドラゴンは静かに首を横へ振る。
『分からぬ。』
『それを決めるのは時ではない。』
黄金の瞳が、まっすぐ私を見つめる。
『人の心である。』
私は息をのんだ。
『我を眠らせることも。』
『目覚めさせることも。』
『すべては人の在り方が決める。』
その言葉を最後に、ドラゴンはゆっくりと光へ溶け始めた。
空へは昇らない。
雫へも戻らない。
碧い光は雨のように降り注ぎ、大地へ静かに染み込んでいく。
ベルグ火山へ。
森へ。
湖へ。
帝国全土へ。
まるで、大地そのものへ還っていくように。
気がつくと、私たちは再びベルグ火山の麓に立っていた。
胸元のアマドーラの雫は、以前と変わらぬ小さなエメラルドへ戻っている。
もうドラゴンの姿は見えなかった。
けれど、不思議と寂しさはなかった。
大地を渡る風の中に。
流れる水の音の中に。
木々を揺らす葉音の中に。
あの優しい気配が確かに息づいている。
レオが静かに私の手を握る。
「ラルム。」
「はい。」
「帝国を救うのは、一度きりではない。」
私は微笑んだ。
「ええ。」
「人の心がある限り、私たちの役目は続いていくのでしょう。」
朝日がベルグ火山を照らし始める。
長い夜が終わり、新しい時代の光が帝国を包み込んでいた。




