アマドーラの雫
第50話 アマドーラの雫
ベルグ火山から噴き上がる炎は、ますます激しさを増していた。
空は赤黒く染まり、昼だというのに夜のように暗い。
大地は低く唸り続け、山肌から流れ落ちる溶岩が、まるで生き物のようにゆっくりと麓へ近づいていた。
人々の叫び声。
騎士たちの指示。
崩れ落ちる岩の音。
それらすべてを飲み込むように、炎の轟音が辺り一帯へ響き渡っていた。
「レオ!」
私は何度目か分からないほど、その名を叫んだ。
けれど返事はない。
炎の向こう側に見えるレオの姿は、もう人影なのか炎なのかさえ分からないほど揺らいでいた。
それでも、レオは一歩も退かなかった。
両手を前へ掲げ、火山から押し寄せる灼熱の力を、自分の火で受け止め続けている。
火と火がぶつかり合うたび、空気が激しく震えた。
「陛下!」
少し離れた場所で、ルカが叫ぶ。
「これ以上は危険です! 一度お退きください!」
しかしレオは振り返らない。
その背中は、言葉よりもはっきりと拒絶を示していた。
退けば、火山の力は村へ向かう。
逃げ遅れた人々も、救護にあたる騎士たちも、すべてが炎にのみ込まれる。
レオはそれを分かっている。
だから、退かない。
たとえ自分自身が焼き尽くされても。
この帝国を。
ここで暮らす人々を。
守ろうとしている。
その覚悟が、痛いほど私の胸へ伝わってきた。
アマドーラの雫を通して届いたものなのか、それとも私がレオを知っているから分かるのか。
もう、どちらでもよかった。
私には、レオの心が分かった。
この人は、自分の命よりも帝国を選ぶ。
愛する者たちを守れるのなら、自分が炎に消えてもかまわないと思っている。
「もう、やめて……。」
声が震えた。
「レオ、お願い……。」
けれど、私の声は激しい炎にかき消される。
レオの周囲で、炎がさらに大きく膨れ上がった。
赤い火柱が空へ昇り、その中心でレオの身体が大きく揺らぐ。
「レオ!」
私は駆け出そうとした。
その腕を、ルカが強くつかむ。
「いけません、ラルム様!」
「離してください!」
「今近づけば、ラルム様まで炎にのみ込まれます!」
「でも、このままではレオが……!」
言葉の先が続かなかった。
分かっている。
ルカの言う通りだった。
今の私が近づいても、何もできない。
レオを助けるどころか、足手まといになるだけかもしれない。
それでも。
目の前で愛する人が苦しんでいるのに、ただ見ていることなどできなかった。
「私は……何のためにここまで来たの?」
自分に問いかけるように呟いた。
守られるだけではいたくないと、そう決めた。
レオの隣に立ちたいと願った。
彼が帝国を守るなら、その背中を守れる人になりたいと。
それなのに今の私は、また何もできずに立ち尽くしている。
私は胸元のアマドーラの雫を強く握りしめた。
「お願い……。」
指先が震える。
「私に水の力があるなら、この炎を消して。」
雫は静かに光るだけだった。
「レオを助けて……。」
何も起こらない。
「どうして……。」
涙が頬を伝った。
私は水の力を持つ者ではなかったの?
千年に一度、大地を潤すアマドーラの雫を受け継ぐ者ではなかったの?
それなのに、一番助けたい人を助けられない。
私の力は、何のためにあるの?
焦りと悔しさが胸いっぱいに広がり、息さえ苦しくなる。
目の前では、レオの炎がますます激しく暴れていた。
「ラルム様!」
クララの声が聞こえた。
「雫が……!」
私は胸元へ目を落とした。
アマドーラの雫が、鼓動を打つように震えている。
一度。
また一度。
まるで私の心臓と重なるように。
碧い光が石の奥からゆっくりと溢れ出し、その中でドラゴンが静かに目を開いた。
以前よりもはっきりと。
翼も。
鱗も。
深い黄金色の瞳さえも。
その眼差しが、まっすぐ私を見つめていた。
次の瞬間、周囲の音が遠のいた。
火山の轟音も。
人々の叫びも。
大地の揺れも。
すべてが遠くへ離れていく。
聞こえたのは、たった一つの言葉だった。
『思い出せ。』
低く、深い声が心へ響いた。
「思い出す……?」
その瞬間、これまでの記憶が次々と胸の中へ流れ込んできた。
十九歳の誕生日。
冷たい雨の中で、初めてレオに出会った日。
胸元で初めて光ったエメラルド。
ルルドの森。
ミラの言葉。
レオの火を受け止めきれず、意識を失ったこと。
アマドーラの雫がレオへ届けられ、その力で私の居場所が伝わったこと。
救出された後、再び私の胸元へ戻ってきた雫。
レオが近くにいると、石の中のドラゴンが鮮明に浮かび上がったこと。
火と水。
二つの力が近づくたびに、互いが落ち着きを取り戻していったこと。
私はずっと、水の力は火を消すためにあるのだと思っていた。
だから炎を消そうとした。
レオの火を弱めようとした。
けれど違う。
あの時、ミラは言っていた。
火と水は争うものではない。
互いの力を調和させ、本来の力を導くものなのだと。
レオの火は、人を焼き尽くすための火ではない。
帝国を守るための火。
命を守ろうとする、強い願いそのもの。
それを消してはいけない。
私の水は、火に勝つための力ではない。
その火が暴走しないように。
レオが一人で焼き尽くされないように。
包み込み、支えるためにある。
「そういうことだったのね……。」
私は涙をぬぐった。
恐れが、少しずつ消えていく。
「レオの火を消すんじゃない。」
胸元の雫を握りしめる。
「私が、その火を受け止める。」
周囲の音が一気に戻ってきた。
炎の轟音。
人々の悲鳴。
地面を揺らす振動。
けれど、もう迷いはなかった。
「ルカ様、離してください。」
「ですが!」
「大丈夫です。」
私はルカをまっすぐ見つめた。
「今度は、ちゃんと分かりました。」
ルカは何かを言いかけた。
それでも私の表情を見て、ゆっくりと手を離した。
「……お気をつけて。」
「はい。」
私は炎へ向かって歩き出した。
一歩進むたび、熱が肌を刺す。
息をするだけで喉が焼けるようだった。
それでも、胸元の雫から広がる碧い光が、私の身体を包み込んでいる。
「ラルム!」
炎の中から、ようやくレオの声が聞こえた。
「来るな!」
苦しさに歪んだ声だった。
「これ以上近づけば、君まで……!」
「嫌です。」
私は足を止めなかった。
「レオだけを、ここに残すなんてできません。」
「分かっていない!」
レオの炎が激しく揺らぐ。
「私はもう、この火を抑えきれない!」
「分かっています。」
「ならば戻れ!」
「戻りません!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。
「私も、この帝国を守りたいんです。」
レオの表情が揺れた。
「そして……。」
私は炎の中へ一歩踏み込んだ。
「あなたを失いたくありません。」
雫が強く光る。
碧い光が、炎の中へゆっくりと広がっていく。
赤と青。
二つの光が触れ合った瞬間、激しい音とともに周囲の空気が震えた。
けれど、炎は消えなかった。
水も蒸発しなかった。
碧い光はレオの炎を優しく包み込み、その形を整えるように静かに流れていく。
暴れていた火が、少しずつ落ち着きを取り戻していく。
「ラルム……。」
レオが息をのむ。
「火を消そうとしないで。」
私はレオのもとへ歩み寄った。
「あなたの火は、帝国を守るための力です。」
ようやく、レオの手へ指先が届く。
その手は焼けるように熱かった。
けれど、不思議と痛くはなかった。
私の中を流れる水の力が、その熱を受け止めている。
「私が、あなたの火を支えます。」
「そんなことをすれば、君が……。」
「以前の私なら、きっと倒れていました。」
私は小さく笑った。
「でも、今は大丈夫です。」
「なぜ……。」
「一人で受け止めようとしていないから。」
私はレオの手を強く握った。
「あなたの火と、私の水。」
「どちらか一つで帝国を守るのではありません。」
「二人で守るんです。」
レオは何も言わなかった。
ただ、私を見つめている。
碧い瞳の奥で揺れていた炎が、少しずつ穏やかになっていく。
「私は……。」
レオがかすれた声で呟く。
「一人で背負わなければならないと思っていた。」
「皇帝だからですか?」
「ああ。」
レオは小さく頷いた。
「この帝国を守るのは、私の務めだと。」
「それなら。」
私はレオの手を握ったまま、微笑んだ。
「私は、あなたの皇后になる人です。」
「まだ正式にはなっていませんが。」
こんな時なのに、レオの口元がわずかに緩んだ。
「そこを気にするのか。」
「大切なところです。」
私も少し笑った。
ほんの一瞬だけ。
炎の中に、いつもの二人の空気が戻った。
「だから、私にも背負わせてください。」
「帝国も。」
「あなたの苦しみも。」
レオは目を閉じ、深く息を吐いた。
そして、私の手を握り返す。
「分かった。」
その言葉とともに、胸元のアマドーラの雫が、これまでにないほど眩しく輝いた。
石の中で、ドラゴンが大きく翼を広げる。
碧い光は水の流れとなり、レオの炎へ溶け込んでいく。
赤い炎は金色へ。
碧い光は銀色へ。
二つの力は渦を描きながら空へ昇り、やがて一頭の巨大なドラゴンの姿を形作った。
「ドラゴン……。」
誰かの声が聞こえた。
騎士たちも。
村人たちも。
誰もが空を見上げていた。
火と水の光から生まれたドラゴンは、ベルグ火山の上空を大きく旋回する。
その翼が羽ばたくたび、炎の勢いが少しずつ弱まっていった。
大地の揺れも、ゆっくりと静まり始める。
火山を覆っていた黒煙の向こうから、一筋の光が差し込んだ。
「鎮まっていく……。」
私はレオの手を握ったまま呟いた。
「ああ。」
けれどレオの声には、まだ緊張が残っている。
「まだ終わってはいない。」
火山の奥深くでは、なおも大きな力がうねっている。
その鼓動が、足元から伝わってくる。
けれど、もう怖くはなかった。
私たちは一人ではない。
レオの火がある。
私の水がある。
そして、ここには帝国を守ろうとする多くの人たちがいる。
空を舞うドラゴンが、再び大きく翼を広げた。
その黄金の瞳が、私たちを見下ろしている。
心の奥へ、静かな声が届いた。
『よく辿り着いた。』
それだけだった。
けれど、その言葉ですべてが伝わったような気がした。
私は胸元のアマドーラの雫へ触れる。
この石が与えてくれたのは、強大な力ではなかった。
人と人をつなぐこと。
信じること。
一人で抱え込まず、誰かと共に歩くこと。
それこそが、アマドーラの雫に託された本当の力だったのだ。
私はレオを見つめた。
「もう、一人で炎の中へ行かないでください。」
レオは少し困ったように笑った。
「君も一人で追ってくるな。」
「それは約束できません。」
「なぜだ。」
「レオがまた無茶をするかもしれないからです。」
レオは呆れたように息をつき、けれど最後には静かに笑った。
「ならば、最初から一緒に行くしかないな。」
「はい。」
私も笑った。
二人の手の間で、火と水の光が静かに揺れている。
その向こうで、ベルグ火山は長い怒りを鎮めるように、少しずつ静けさを取り戻していった。
けれど、大地の奥にはまだ微かな震えが残っている。
この試練は、まだ完全には終わっていない。
それでも私は確信していた。
私たちなら、きっと乗り越えられる。
火と水。
二つの力が、ようやく一つになったのだから。




