揺れる大地
帝都へ戻ってからというもの、私は毎日のように宮廷図書館へ通っていた。
皇后になるということは、レオの隣に立つだけではない。
帝国の歴史。
貴族制度。
各地方の文化。
税や農地、水脈、交易路。
知れば知るほど、アマドーラ帝国という国の大きさを思い知らされる。
高い天井まで届く本棚を見上げながら、私は小さく息をついた。
「覚えることが多すぎる……。」
思わず漏れた言葉に、自分で少し笑ってしまう。
その時だった。
「珍しく弱音でございますね。」
背後から、柔らかな声がした。
振り返ると、アンが紅茶を載せた小さな盆を手に立っていた。
「アン。」
「少しお休みになってくださいませ。根を詰めすぎると、かえって頭に入りません。」
「ありがとうございます。」
私は読みかけの地方誌を閉じ、机の上に置いた。
アンが淹れてくれた紅茶から、ほのかに甘い香りが立ちのぼる。
「レオは、幼い頃からこういうことを学んできたのですよね。」
「ええ。皇帝陛下は、幼少の頃より帝国を治めるための教育を受けてこられました。」
「勝てる気がしません。」
苦笑すると、アンも静かに微笑んだ。
「比べる必要はございません。」
「……そうでしょうか。」
「ラルム様には、ラルム様にしかできないことがございます。」
その言葉に、私は胸元のアマドーラの雫へそっと触れた。
碧く澄んだ石は、今日も静かに光を宿している。
けれどその時、雫の奥で何かがかすかに揺れた気がした。
「……?」
私は思わず指を止める。
雫の中に浮かぶドラゴンの影が、ほんの一瞬、目を開いたように見えた。
「ラルム様?」
「今……雫が。」
そう言いかけた瞬間、光はふっと落ち着いた。
まるで何事もなかったかのように、石は静かに胸元で輝いている。
「気のせい……かしら。」
そう呟きながらも、胸の奥には小さな違和感が残った。
◇
ほどなくして、レオから呼び出しがあった。
私はアンに見送られ、宮廷図書館を後にする。
廊下を歩きながら、先ほどの雫の揺らぎがどうしても気になっていた。
レオの執務室へ入ると、机の上には帝国全土の地図が広げられていた。
その上には、赤や青の小さな印がいくつも置かれている。
「来たか、ラルム。」
「はい。何かあったのですか?」
レオは地図から目を離さず、静かに頷いた。
「各地から、少し気になる報告が届いている。」
そう言って、ひとつの印を指さした。
「北部では井戸の水位が例年より低い。」
次に、西へ指を滑らせる。
「西部では温泉の湯量が急に減った。」
さらに南へ。
「そして南部では、ベルグ火山の周辺で小さな揺れが続いている。」
「ベルグ火山……。」
私は地図に描かれた山の名を見つめた。
帝国南部にそびえる大きな火山。
これまで大きな噴火は数百年起きていないと記されていた場所だった。
「自然の変化ということはありませんか?」
「もちろん、その可能性もある。」
レオは低い声で答える。
「だが、報告が重なりすぎている。」
私は地図を見つめた。
水位の低下。
温泉の異変。
小さな地震。
それぞれは小さな出来事でも、地図の上で眺めると、まるで大地そのものが不調を訴えているように見えた。
「大地が……苦しんでいるみたい。」
思わずそう呟くと、レオが私を見る。
「そう感じるのか。」
「はい。」
私は胸元の雫へ触れた。
「うまく言えません。でも、先ほどから雫が落ち着かないのです。」
レオの表情がわずかに変わった。
「雫が?」
「はい。ドラゴンが……目を覚まそうとしているような。」
自分で言いながら、少し不思議な表現だと思った。
けれど、他に言いようがなかった。
レオはしばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと右手を握る。
その掌に、小さな炎が灯った。
いつもなら、レオの炎は静かで美しい。
けれど今日の炎は、どこか落ち着かず、細く揺らいでいた。
「……火も、反応している。」
「レオ。」
私は思わず彼のそばへ歩み寄った。
レオの横顔は平静に見えたが、その額にはうっすら汗が浮かんでいる。
「大丈夫ですか?」
「ああ。まだ問題はない。」
そう言うものの、その炎は一瞬だけ大きく揺れた。
私は考えるより先に、レオの手をそっと包み込んだ。
胸元のアマドーラの雫が淡く光る。
碧い光が、私の手を通してレオの炎を静かに包み込むように広がっていく。
揺れていた火は、少しずつ穏やかさを取り戻した。
「……助かった。」
レオは小さく息をつく。
「以前より、火が勝手に反応することが増えている。」
「ベルグ火山と関係があるのでしょうか。」
「分からない。」
レオは地図を見つめる。
「だが、火を司る私の力が反応している以上、無関係とは思えない。」
私は黙って地図を見つめた。
自分の知らない場所で、知らない人たちが暮らしている。
その人たちの暮らしが、もしこの異変で失われるとしたら。
そう考えた瞬間、胸が強く締めつけられた。
「レオ。」
「なんだ。」
「私にも、できることはありますか。」
レオは私を見つめた。
その瞳は静かで、けれど少しだけ驚いているようにも見えた。
「危険なことはさせたくない。」
「分かっています。」
私はゆっくり頷いた。
「でも、何も知らないまま守られているだけではいたくありません。」
胸元の雫が、また淡く光った。
「この雫が、何かを感じているのなら……私も向き合いたいのです。」
レオはしばらく黙っていた。
そして、小さく息を吐く。
「君は強くなったな。」
「強くなりたいのです。」
私は静かに答えた。
「あなたの隣に立つために。」
その言葉に、レオの表情が少しだけ和らいだ。
◇
その日の夜。
帝都アマドールは静かだった。
宮殿の窓から見える街には、いつもと変わらぬ灯りがともっている。
人々はまだ、この大地の奥で何かが目覚め始めていることを知らない。
私は窓辺に立ち、遠く南の空を見つめた。
闇の向こうで、ほんのわずかに赤い光が揺れているように見える。
胸元のアマドーラの雫は、静かに温もりを帯びていた。
その奥で、ドラゴンがゆっくりと翼を広げる。
まるで、遠い大地の鼓動に耳を澄ませているように。
その時だった。
――ドン……。
低い音が、遠くから響いた。
窓ガラスが、かすかに震える。
私は息をのんだ。
すぐに扉が開き、レオが姿を見せる。
「ラルム。」
「今の音……。」
「ああ。」
レオは静かに頷いた。
「南からだ。」
部屋の空気が、急に重くなる。
揺れはすぐに収まった。
けれど、私には分かった。
これは終わりではない。
始まりなのだ。
帝国の大地が、長い眠りから目を覚まそうとしている。
私は胸元の雫を握りしめた。
その奥で輝くドラゴンの瞳が、静かにこちらを見つめていた。
まるで告げているようだった。
時が来たのだ、と。




