隣に立つために①
マテリアス家の復権が正式に認められてから数日が過ぎた。
帝都アマドールには、ようやく穏やかな日常が戻り始めていた。
窓から差し込む柔らかな朝日を浴びながら、私は胸元のアマドーラの雫へそっと手を添える。
以前は、その重みさえ怖かった。
けれど今は違う。
この雫は、私が歩む未来を静かに見守ってくれているようだった。
「ラルム様、おはようございます。」
アンが優しく微笑みながら部屋へ入ってくる。
「今日から本格的に皇后としてのお勉強が始まります。」
「……いよいよですね。」
思わず小さく息を吐くと、アンがくすりと笑った。
「そんなに緊張なさらなくても大丈夫ですよ。」
「礼儀作法は女学院でしっかり学ばれておりますから。」
「それならいいのですが……。」
私は苦笑した。
「礼儀は何とかなっても、人の上に立つということは、まだ想像もつかなくて。」
アンは穏やかに頷いた。
「そのお気持ちを忘れないことが、一番大切なのかもしれません。」
その言葉に、少しだけ肩の力が抜けた。
◇
午前中は宮廷での立ち居振る舞いや、公務での応対について学んだ。
女学院で身につけた礼儀作法は身体が覚えていて、大きく注意されることはなかった。
「さすがですね。」
アンが感心したように微笑む。
「歩き方も、お辞儀も、とても美しいです。」
「学院の先生方が厳しかったですから。」
二人で顔を見合わせて笑う。
その笑顔を見ながら、アンがぽつりと呟いた。
「きっと、マリオン皇后陛下もお喜びになっておられるでしょう。」
私は思わず足を止めた。
離宮で、スベリア様から聞いた話が胸によみがえる。
私が女学院へ通えたのは、多くの人が陰で支えてくださっていたからだった。
「私は……本当に幸せ者ですね。」
「はい。」
アンは迷いなく頷いた。
「それだけ多くの方が、ラルム様の未来を信じておられたのです。」
私は静かに胸元の雫へ触れた。
今まで受け取ってきた優しさを、今度は私が返していかなければならない。
そんな思いが胸に芽生え始めていた。
◇
午後になると、レオに呼ばれ私は執務室へ向かった。
扉を開けると、机いっぱいに積まれた書類が目に飛び込んでくる。
「すごい……。」
思わず声が漏れた。
レオは書類から顔を上げ、小さく笑う。
「驚いたか。」
「はい……。」
「こんなにあるとは思いませんでした。」
「これでも今日は少ない方だ。」
私は思わず苦笑してしまう。
皇帝とは、こんなにも多くのことを抱えているのだ。
レオは一枚の地図を広げた。
「見てみるといい。」
帝国全土の地図だった。
そこには赤や青の印がいくつも記されている。
「これは?」
「北部では干ばつが続いている。」
レオは指を滑らせる。
「東部では川が氾濫し、多くの農地が被害を受けた。」
さらに南へ。
「この地域では火山活動が活発になっている。」
私は息をのんだ。
「こんなにも……。」
「皇帝の仕事は戦だけではない。」
レオは静かに言う。
「民が安心して暮らせる日常を守ることも、皇帝の務めだ。」
私は地図を見つめた。
帝国は広い。
そして、その一つひとつの土地に、家族がいて、子どもがいて、笑顔がある。
今まで私は、自分のことで精一杯だった。
けれど皇后になるということは、その人たちの幸せを願うことなのだ。
「レオ……。」
「なんだ。」
「私は、まだ何も知りません。」
レオは穏やかに頷いた。
「だから学べばいい。」
「焦る必要はない。」
「君は一人ではない。」
その言葉に、胸が少し軽くなる。
私はもう一度地図へ視線を落とした。
水害。
干ばつ。
火山。
胸元のアマドーラの雫が、かすかに温もりを帯びた気がした。
――水。
その力には、まだ私も知らない意味があるのかもしれない。
私はそっと雫を握りしめる。
守られるだけではなく、誰かを守るために。
そのためには、まずこの帝国をもっと知らなければならない。
そう思った時だった。
「……また難しいことを考えているな。」
突然、レオが苦笑した。
私ははっとして顔を上げる。
「えっ?」
「今、全部顔に書いてあった。」
私はじっとレオを見つめる。
「……本当に?」
レオは笑みをこらえながら肩をすくめた。
「半分は顔だ。」
「半分は……雫だ。」
私は思わず胸元を押さえた。
「やっぱり!」
「また心を読まれたんですね!」
「全部ではない。」
レオは少し困ったように笑う。
「感情が大きく揺れると、雫を通して伝わるだけだ。」
私は小さく頬を膨らませた。
「これじゃ、考え事もできません。」
「外してしまおうかな……。」
「それは困る。」
即答だった。
思わず私は吹き出してしまう。
「どうしてですか?」
レオは少し照れたように視線を逸らした。
「……君の気配が感じられなくなる。」
その一言に、今度は私が何も言えなくなる。
頬が熱い。
「……ずるいです。」
「何がだ。」
「そういうことを、さらっと言うところです。」
執務室に、小さな笑い声が響いた。
重苦しかった空気が、春風に吹かれたようにふっと和らいでいく。
私は笑いながら胸元の雫に触れた。
この雫は、もう運命の証ではない。
これからは――。
あなたの隣に立つための、大切な絆なのだ。




