日差し・本棚・青年
長時間の暗闇は、僕の精神状態を躊躇いなく貪っていった。すでに僕の限界は底の面を一部覗かせており、じだんだを踏みたくなるような苛立ちを幾度か催した。まるで沸騰寸前のお湯みたいに、僕の気持ちは不規則に昂ったり焦らしたりと忙しなかった。
闇の中はまるで遠くから聴こえる波の押し寄せのような音がしていた。乾いた空気が重なりあって擦れるような――いや、深く掘られた地下に潜む怪物の呻き声に似た、非常に耳障り極まりないものだった。地長も同じことを思っているのか、僕と地長の間は深い沈黙がどっしりとあった。
光が目に差したのはそのときだった。まるで筒状に丸めた紙の穴を覗くみたいに、光は先から一直線に走ったのだ。そこで僕はようやく微かな希望を抱くことができた。「やっとですか」と地長は声を上げた。先程の沈黙が晴れるような歓びに浸った声だった。
「行きましょう」と僕は歩みを急かした。ええ、と地長も言って鈍重だった足を軽やかに前へ踏み出す。
僕は自分の頬が緩んでいることに気がついた。とても気味悪い笑みを浮かべていると思う。けれど僕は表情も直さずに、ただただ奔放に歩みを進めた。身の重みは宙に浮いていくように葬れ、肌を縛るような窮屈さは風に吹かれて消えた炎のように消えていった。
視界の先に伸びた光は、歩みを進めるほど徐々に拡大していった。暗闇の闇が浄化され、洞窟の中に僅かな光が佩び始める。肌に久しく浴びていなかった光が差し、強張りが剥がれていく。僕はこの暗闇から抜け出したくてたまらなかった。大人になってようやく再会を果した親友同士の女学生のように、僕の気分は高揚していたのだ。
洞窟を抜けると、闇に慣れていた瞳には強すぎる日差しが容赦なく僕を照らした。僕はすぐに目を瞑り、光を遮った。瞼の壁で途切れた光は、目を瞑っているのに視界は夕陽のような色が覆っていた。日差しは僅かな温かみを佩びており、僕が洞窟を歩いている間に季節は春を迎えたのかと思うほどに優しく僕を包んだ。地長も遅れてやってきて、突如として視界を焼く光に「うわっ」と声を上げて地長は背けるように瞼を閉じた。
瞳を光に慣れさすため、僕と地長はしばらく無言で瞼を瞑っていた。その間も光は僕の皮膚に熱を与え、暗闇に支配されていた身を安らいでいった。「そろそろいいかもしれませんね」という地長の呼びかけで、僕と地長は視界を広げた。まだやや強い気もしたのだけれど、すぐに慣れるほどの程度だ。
僕らはどうやら草原にいるらしかった。無垢に明るい黄緑色をした草の地面は優しく流れる風に揺られており、その頭上は大空が広がっていた。草原といってもあまり面積は広くはなかった。視界の先には丸太で作られた柵が立っており、その柵から前はどうやら崖らしかった。僕はその柵から身を乗り出して、そこに広がっている壮大な景色に目をやった。
「これは凄いな」と地長も僕の隣で、思わず声を洩らしていた。確かにそれは凄い光景だった。海――巨大な河かもしれない――を挟み、中心街の〈階段の街〉が堂々と佇んでいてそれを一望できた。「どうやらここは北東街の端っこらしいですね」と地長は言った。「何せ西地方は円状の形をしているので、各街の内側の端に行けば中心街が一望できるんですよ。いわゆるドーナツですね。真ん中に空いた穴に中心街〈階段の街〉があるようなものです」
〈階段の街〉はどこからの方向から眺めようと、鮮やかな色合いをしていた。まるで空を喰うようにたくさんの建物がある。僕はあの〈階段の街〉にいる人達のことを考えてみた。あそこで買い物をしている人らの中で、僕の存在に気づいたものは多分、いないだろう。気づくはずがない。あそこからは僕なんて豆粒ほどにしか見えないのだ。
草原の右側は森となっていて、どうやらそこが〈東北の獣森〉らしかった。その森はとても不気味で陰鬱な雰囲気に充ちていた。深い霧が彷徨うように深く、奇妙なものだった。順調に育ったような美樹をした木が窮屈に生え、獣の姿などは見えない。
左を見ると、草原の地面が地中で切れていることに気がついた。それは切れているのではなく、段差になっているらしかった。二、三段ほどの低い階段で、それを降りると〈森の図書館〉に到着した。
数々の木が生えており、その木に紛れて巨大な本棚のような物が置いてあった。雑草が這っている地面にも本が山積みで置かれた所も多々あった。本棚には木の根がへばりついていて、本が取り出せなくなっている所もあった。
僕はあらゆる位置に山積みで置かれた本に注意を払いながら、その巨大な本棚の方へ向かった。――そこで地面にまるで井戸のような穴がある事に僕は気がついた。
その穴は石で囲まれており、覗いてみると地下室らしき場所に繋がっているような石の階段があった。「なんですかね、ここ」と地長は不安の声を洩らしていた。「誰かいるんでしょうか? ここに」と地長は階段を指差す。声が若干震えているようだった。
僕はその階段を無視し、本棚の方へと向かった。本棚には大量の本――殆どが図鑑のような分厚いものだった――が並んでおり、長年放置されたみたいに古い物ばかりだった。埃を自ら歓迎するかのように大量に被っており、真っ白となっている。試しに一冊引き抜いてみると、まるで硝煙のような埃が宙を舞った。とてもじゃないが、読めたもんじゃないと僕は感想を覚えた。
地長はその本棚に並ぶ本をまるで古代文字でも読み解くように、渋い眼差しで眺めていた。ひとしきり眺めた後で、「何が何の本かも私にはわかりません」と地長は自嘲的に呟いた。僕もそれは否めなかった。確かにわからない。
「おや、お客なんて珍しい」と、何者かの声がした。
僕と地長は反射的に振り返った。その声の主はどうやら青年のようだった。若々しい声で、凛々しくいささか官能的な魅力を佩びている声だった。「ここに来る人なんて何年ぶりでしょうね」
階段を上っている足音がする。石を踏む音だ。先程の地下室かどこかに繋がっているらしき穴から、誰かが上ってくる。それは心優しそうな顔をした青年だった。身長が高く、足が長い。顎が尖っており、顔つきも爽やかな風を吹かせるような整っていた。僕は地長の言っていた噂話の事を思い出した。
「もしかしてあなたは」と地長はその青年に話しかけた。
「自分はここに住んでいるんです。――いわゆるここの管理人みたいなものです」と青年は軽く自己紹介を済ませ、その場に置いてある本の上に腰を下ろした。「何かお探しですか? というより殆ど色褪せていますが」
「……らしいですね」と僕は洩らした。
青年は苦笑し、それから「あなた達は?」と訊ねた。「ここに来るなんて相当な人とは思いますが」
「獣還師と西地方の地長です」と僕は言った。青年はなるほど、と肯いた。
「それで、何かご用でもあったんですか?」
僕は今この東街で起きている事を、青年に話した。青年はどこか険しそうな表情を見せていた。
今回は短かったですね。はい。 最近よく物書きとはなにか、と考えます。まあ、答えなんてわからないけれども。




