闇避け・暗闇・長時間
肉眼に針を突き刺すという感触は、とても慣れるようなものではなかった。柔らかく中身の詰まった物のなかに異物が侵入してくる感覚だ。傍から見ても、それはとても気味の悪い光景だと思う。しかし、その行為に痛みという概念は遠い位置に放置されているみたいに、まるでなかった。
地長もこの感覚に慣れなずにいるらしく、まじまじと針先を見つめているだけだった。僕は目玉に刺したのはいいのだけれど、針を抜くという事に恐怖を覚えて逡巡していた。
地長が渡してきた〈闇避け(コンタクト)〉という物の正体は、針だった。それはまるで道端に咲いた花の茎から型を作ったかのように細く、鋭いものだった。その針の先――鋭く尖っていない方だ――に、なにやら薄い影色をしたゴム製の風船のようなものが付いていた。それは丸みを佩びており、ワインのコルクほどの大きさだった。中に液体のようなものが入っていた。
「これをどう使うんですか?」と僕は地長に訊ねた。いや、悪い予感しかなかった。僕は悪い勘には鋭い方なのだ、と自負している。まず針という物を渡されるところから、僕には嫌な予想しか働いていないのだ。これを飲むというのか? そんなわけないだろう。
地長も顔を歪ませ、「それを訊きますか?」というような顔で僕を一瞥した。そしてまた針に視線を戻して、「これを刺すんです」と冷静沈着な口調で――しかしそれは冷静さを装っている偽りだと、すぐにわかった。声が緊張して定まらない箸のように震えているのだ――言った。「何にですか」と僕は嫌々ながらに訊ねた。地長も僕も得をしない話だ。
「………目玉にですよ」地長の声は横たわって立てない虫のように、弱々しく情けない間抜けな声だった。
「で、ですよね……」と僕は針先を見つめた。紫色をして、忌々しさを全開に漂わせた毒液が、その先からは溢れてくるような恐怖があった。
目玉に水以外の異物を侵入させる、という自体、僕には考えられない世界だった。見当もつかない。子供の時、遊んでいる最中に友人の指が僕の目を突いた時はあったが――案の定といっていいほど、そういう事態が起これば場はしらける――そんな痛みなのだろうか。しかし、あれは入っていない。今から僕と地長がやろうとしているのは、「目玉に針を刺す」という事なのだ。
僕はとりあえず針を自分の頭より高く上げ、尖った先端を向けてそれをまじまじと睨んだ。ゆっくり手を下ろしていく。まるで高級蟹を贅沢に頬張るような体勢だ。思わず瞼が閉じる動きをみせる。僕は踏ん張った。そのせいか僕の目は腫れでも抱えたように出鱈目に歪んでいた。ピクピクと弱い痙攣を起こすかのように瞼が震えるのだ。
針の先端が瞳を捉えた。目の前にある針は、僕からは黒い点にしか見えなかった。それすらもぼやけており、どこに本物の針が定まっているのかもわからなかった。しかし、〈森の図書館〉に行くためにはここしか道はないのだ、と決意してそれを僕は目玉に挿入した。
痛みはない。細長く硬い針が目玉を突き刺し、それがゆっくりと潜り込んでいくだけの感覚だ。僕は自分の身体が――目玉も含めて――強張っているのがわかった。風船のところを二本の指で持ち、ゆっくりと押した。そうすると中に溜まっている液体が針を伝って、瞳の中に流れてくるのがわかった。針の先から、いささか粘りを佩びた液体が瞳の面に広がってきた。
液体が全部なくなったことを何度か指で押して確認し、僕は針を抜こうと試みた。しかし、やはり恐ろしい。針を抜いた瞬間、目玉から血がまるで小さな穴の開いていた袋から水が漏れるみたいに、流れるような予感がするからだ。ゆっくりと僕は針を引いていった。そして針の先端部分だけが刺さっているくらいにまでにした。目玉に粒ほどの小石が埋まったような、違和感が走った。その違和感が僕には堪らなく、無意識に針を抜いてしまった。
違和感が目玉から消える、のと同時に抜いてしまった、という自分の軽率さが沁みた。僕はすぐに手をそこに当てた。しかし、血が漏れているようには思えなかったので、僕は溜息を伴う安堵を得ることができた。やれやれ。
針を抜いたにも関わらず、自分の目には未だに違和感が残っていた。それはまるで死んでなお、執拗にまとわりつく霊のように、目玉に這っていた。どうも慣れない。僕はもう一本をもう片方の目に刺し、何度かまばたきをして目玉の潤いを戻した。
「そちらは終わりましたか?」と僕は手の甲で涙を拭いながら、地長に訊ねた。
「なんとか」と地長も袖で目元を拭いながら言った。
僕は地長の顔を見た。それは何気なく目をやっただけなのだが、思わず二度見してしまった。地長の瞳が紅いのだ。それは致命傷な傷口から溢れる血液のように、深く赤みの濃い色合いをしていた。地長も驚いているらしく、僕と地長はしばらく見つめ合っていた。お互い、呆然としている。充血――とは違うものだった。瞳が紅いのだ。深紅なのだ。まるで童話に出てくる血を吸う怪人のように、不自然で物騒な印象を抱かせる、実に場違いな色だった。
「……実にわかりやすい薬ですね」と僕は笑みを洩らした。
地長も「そうですね」と苦笑いを浮かべていた。どうでもいいけれど、地長にその目玉は似合っていなかった。「あまり似合っていませんね」と地長に笑われたので、どうやら僕も似合っていないようだった。
「これで、洞窟に入っても構いませんね」と僕は言った。「さ、行きましょう」
「私はあまり望んでいませんけどね」と地長は拗ねた子供のような顔をしながら、鈍重に歩みを始めた。
洞窟の中は、まるで世界中の暗闇と呼べる暗闇すべてを合体させたように徹底とした深い闇だった。何も見えず、瞼を閉じているのかすらわからないほどだった。地長は僕の後をついていきているのか、それとも隣に並んでいるのか、もしかすると浮いているのかもしれないが、それすらも確認ができなかった。宇宙の底のように沈んだ深くて強い闇なのだ。そんな空虚な暗闇には、砂利道を踏む僕と地長の足音だけが響いていた。その足音すらも暗闇に呑み込まれていくように、甲高く響くことは決して無かった。
洞窟の壁と壁は、どこまで幅があるのかも把握できなかった。僕の心中には不安と不吉な予感だけが窮屈に埋まっていた。砂利を踏む度に無数の石ころがお互いを削るように転がる乾いた音が鳴り、それを僕と地長の足が踏み、そして重みを佩びた冷えた空気の呻き声が耳元に流れていた。
洞窟の中は結露がびっしりと張っているかのように、冷えていた。さきほどの闇の霧か何かはわからないが、肌を淡い蒸気のようなものが撫で、冷えだけを残してすり抜けていった。鬱陶しい。
「しかし、本当に暗いですね」と僕はどこにいるかもわからない地長に声をかけてみた。「地面に何かがあっても気づかず踏んでしまうでしょうね」
「怖いことを言わないでください」と地長は怪談話で怯える子供のように、畏怖を晒した上擦った声を上げた。どうでもいい事――むしろ良いことなのだが――この人は見た目からは思えないほど、心は若いように思えた。「ところでどこにいるんですか?」
「僕からも地長の姿が見えないので、わかりませんよ」と僕は苦笑した。
「恥ずかしいことながら、私こういう暗いところが苦手なんですよ」
「ここは暗すぎますよ」
僕の苦笑する声だけが深い眠りについたような沈黙に響いた。ところで洞窟の中は氷を這わせたみたいに冷え込んでいた。鼻水が流れ、鼻下の肌に鼻水が這うのがわかった。それを啜る。戻ってきた鼻水は冷たかった。
長々と僕は歩いていたと思う。正確かどうかは自信はないけれど、一時間弱ほど僕は洞窟の中を進んでいた。暗闇の中に延々といると、まるで僕は地下に巣を作る不吉な虫になったような感覚だった。べつに優雅に歩けるほどの広さなのだけれど、どこか窮屈に思えるのだ。あまり認めたくない事実だが、正直僕は苛立ちを覚えていた。どれだけ歩いても、外からの光が見える気配など一向と無いのだ。どれだけ歩こうと、辺りは徹底的な闇だけだ。
人間一人が入れるか入れないかほどの大きさの空間に挟まれているような感覚を僕は覚えていた。だから腕を横に振ったり、跳んだりと自由奔放な動作をしてみるのだが、場の暗闇はまるで重みでも佩びたように、窮屈さがほどけることはなかった。思わず愚痴を零してしまいそうになるので、口を噤むことに努めた。
重苦しい暗闇は刻々と時を経てるにつれて、深みと重みを増している気がした。しばらくその暗闇を視界に広げていると、それは明るいのか暗いのかすら、理解できなくなってしまいそうだった。漆黒に包まれ視界に、赤ワインのような赤紫色の光のようなものが描かれているのだ。もちろん、幻覚だろうとは思うけれど。
あれ…今回ブレーカーが落ちたみたいに暗いな。 それは悲しいとかじゃなくて、本当の暗いという意味で。




